第二話 蓮池と龍琴

 いつの間にか、陽は稜線の向こうに落ちていた。

 十六夜月が出るには、まだ夜が更け切らない。薄雲が星を隠し、ただ黒々とした闇が玉華宮ぎょくかぐうを覆っていく。闇の最中、ぽつぽつと灯る橙の提灯だけが宮の回廊を照らしていた。

 その回廊を、鏡蓮房きょうれんぼうに帰る水月すいげつ明香めいかを連れて歩いていく。その表情は夜闇よりも暗く沈んでいた。

 思い返すのは、今朝琳王の謁見の間に行った時のこと。居並ぶ大官達は、水月の占を見て一様に怒りを顕わにした。何せ、余りにも不吉な結果。その上、琳国を「龍なき堕ちた国」と貶されては、激怒するのも当然だろう。しかし、神に文句を言うことはできない。その結果、溢れんばかりの怒りの矛先は全て水月に向かったのだった。

 一刻も早く鏡蓮房に戻りたい水月を様々な理由を拵えては引き止め、占に関する文句から根も葉もない噂に至るまで様々な嫌味を浴びせる大官に、明香は我慢ならないと己の小さな拳を握り締めた。

 

「何なのですか、あの人達は!水月様は皇女ひめであらせられるというのに、礼儀がなっておりません。大体国を思うなら、水月様を責める前にすることがあるでしょう。これだから占でも『堕ちた国』などと言われるのです」

「明香、落ち着いて頂戴。私はあのくらい大丈夫だから」

 

 水月は明香をなだめながらも、彼女の言葉に偽りはないと思っていた。今の琳が徐々に堕落しているのは、密やかながらもよく知られた話だ。大官は自分の地位と利権を守るのに必死で、民衆を顧みない。その下で働く官吏も大官をおだて、媚びへつらうことで地位を得ようとする者ばかり。賄賂や不正は当たり前。逆臣の予言とて、思い当たる人物が多すぎて何もできない。だからこそ鬱憤を水月に向けているのだと、多少は彼女の立場に同情的な女官や下働きの男が噂していた。

 琳の堕落の原因は、引きこもりがちで政治に無関心な王にあるともいう。水月は久々に会った父を思い、少し肩を落として呟いた。

 

「お父様、今日もお声を掛けてくださらなかったわね……」

 

 謁見の間で、王はいつも中央の玉座に腰掛けている。占の報告書を受け取るのは側近で、娘の水月が来ても見向きもしない。最近お加減が悪いと聞いていたのでそれについて伺いたかったのだが、一言も交わす間もなく謁見は終わってしまった。

 王が水月を嫌っているのは知っている。最愛の妃であった母が亡くなったのが水月のせいだということも、本当は琳王を父と呼んではいけないことも噂ではあるが聞いている。それでも、水月は王を父と慕っていた。彼のためにできることがあるのならばしたいし、その御心を癒すことができたらと思っている。

 回廊の傍に、黒々と水面を揺らす池がある。今はただ橙の灯の光も飲み込むほど闇に沈む池だが、かつては水面いっぱいに蓮葉が広がり、夏になれば大輪の蓮の花が彩る場所だった。

 この池のような場所で母と出会ったのだと、水月に教えてくれたのは父だった。まだ母が生きていた頃、沢山の蓮が揺れる夜の池を二人で眺めたのだ。母が亡くなった後、悲しみに暮れた王は蓮を全て池から除いてしまったけれど、池を眺めながら握ってくれた大きな手を水月は覚えている。今は悲しみが癒えないけれど、いつか昔のように父娘として関わることができたなら、そう願っていた。

 

「もう少し、私にできることがあればいいのだけど……」

 

 どうすれば、王の悲しみを癒すことができるのか。それだけではない。この国のために、占で先を視るだけでなく悪い予言を回避できたなら。水月がここにいる意味を得られると思うのだ。

 

 (誰かに不幸しか呼ばない私でも、そうすればきっとここにいることを認めてもらえる……)


 ここにいてもいいと、ここにいる水月に生きる意味があるのだと、そう誰もが認めてくれるようになったならば……。

 そう取り留めなく考えていた時、池のほとりに建つ四阿の陰にひらめく薄紫の裳裾が見えた。南方風の豪華な衣装を纏い、琳ではあまり見られない緑がかった豊かな金髪を螺形らけいに結い上げた麗人が誰かと話している。玉華宮の後宮でも一際目立つその女性こそ、現在王の寵愛を欲しいままにしている寵妃、薊妃けいひであった。

 彼女は宦官か誰かと話しているようだった。このご時世、恋愛こそできないとはいえ宦官と親しくする妃など珍しくも何ともない。ただ、普段薊妃は自室に篭もりがちなことでよく知られていたので、彼女が外で話していることは珍しいと言えるだろう。しかも何故かこそこそと会話している。そのことが気になった水月は、遠目にだがそっと薊妃の様子を見ていた。

 しん、と静まり返った夜。風が水面を揺らす音だけが微かに響く。だが、不意にその音すらもぴたりと止まった。先程までずっと熱心に話し込んでいた薊妃が、ふっと顔を上げる。


「……!?」


 その鋭い眼光に自分が映った気がして、水月はごくっと息を呑み慌てて視線を逸らした。

 薊妃は水月の姿を見つけたわけではなかったようで、すぐにふいっと視線を戻して会話を再開した。安堵で自然と溜息が零れる。そのまま、水月は明香を促して鏡蓮房への道を急いだ。会話の様子を窺う気には、もうなれなかった。

 水月は、薊妃に睨まれるのが苦手だった。昔から怖い女性とは思っていたけれど、一度酷く責め立てられてから益々苦手になってしまった。その理由は、彼女の最愛の息子であり唯一水月と親しかった異母兄が殺されてしまったから。


えいお兄様……)


 彼のことを思うと、今でも胸が痛くなる。琳国第一皇子、絳睿こうえい。賢く常に穏やかに微笑む彼は人望にも恵まれ、次期王太子として人々に期待されていた。元々異国の娘であった薊妃を母に持つことで不審を抱く者も多くいたが、そんな噂さえも己の才能と並々ならぬ努力で乗り越えてきた皇子。彼は水月の憧れだった。兄は後宮では浮いた存在だった水月にも優しく、時々薊妃の目を掻い潜って鏡蓮房を訪れては様々なことを教えてくれた。心ない官女や宦官の虐めから庇ってくれたこともあった。水月は兄がいるからこそ何があっても負けないでいられると思っていたし、彼のように自分も強くなって認められたいと思ったものだった。

 だが三年前の夏、絳睿は殺された。記録的な猛暑日だった。後宮の空室の壁にもたれるように倒れていた兄は毒で身体中浮腫み、熱射によって掻きむしった跡のある喉から腐り始めていた。人々が腐臭に思わず顔を背ける中、薊妃は変わり果てた息子にいつまでも縋り付いていた。

 水月自身は、実はその時のことをあまりはっきりと覚えていない。兄の遺体を見た直後目の前が真っ暗になり、その後どうやって鏡蓮房に帰ったのかすら定かではない。ただお腹の中が滅茶苦茶に暴れて、何度も吐いたことは記憶に残っている。嘔吐いて苦しい息の下、何度も思い返したのは優しい兄の笑顔。つい前日、鏡蓮房を訪れてくれた彼の姿だった。

 死んだなんて、殺されたなんて信じられない。誰もがそう思う中、すぐに犯人探しが始まった。だが、結局犯人は見つからなかった。使われた毒は、普通に琳の背後に連なる山で採れる植物を数種混ぜて作られたものだった。近日中に城外に出た官吏はひとりいたが、直後行方を晦ましている。手がかりが何も得られない日々が続く中、悲しみに暮れる薊妃は水月を酷く責め立てた。


『貴女のせいよ! 貴女なんかと関わったから、睿は死んでしまったのよ……!』


 血走った目で睨みながら、そう繰り返し叫ぶ薊妃を今でも覚えている。殴られ蹴られたところで、水月は俯いて耐えることしかできなかった。薊妃の言う通りだったから。望んではならない。求めてはいけない。求めたところで、水月は誰かを不幸にすることしかできない。母や兄のように。

 あれ以来、薊妃と話すことは殆ど無かった。薊妃はもちろん、水月もその気持ちを慮り関わらないように気をつけていた。

 今日も、水月は目を伏せ俯きがちの姿勢のまま早足で通り過ぎる。あまりに急いだせいか、鏡蓮房に着く頃には水月も明香も息が切れていた。

 お茶の支度をしてくると下がった明香を見送った水月は、小さな丸い池を臨む縁側に腰掛けた。昇り始めた十六夜月の光を受ける水面を眺める。夏になると小さな睡蓮に彩られる池だが、今は夜風にそよがぬ限りただしんと静まり返っている。

 この池に睡蓮を植えてくれたのは明香と彼女の母だった。水月の乳母でもあった明香の母、夕香せきかは三年前、明香が十三になった時に後宮を辞した。彼女は明るく胆力があり、母が亡くなった後も水月を優しく支えてくれた。琳王が悲しみのあまり玉華宮中の蓮を引き抜いてしまった時、鏡蓮房の池の蓮も根こそぎ除いてしまった。それを知った明香と夕香は、どこからか持ってきた睡蓮の苗を植えながら水月に語った。


『睡蓮は癒しの花。伝説に謳われる巫女様の花と言われています。同じ先見の力を与えられた水月様にもきっとよく似合いますよ』


 水面で可憐な花を咲かせる睡蓮はとても美しく、水月は彼女達の気遣いをとても有り難く思ったものだった。


(夕香、元気にしているかしら……)


 冴えた月光に照らされる池を眺めながら、今は遠くにいる彼女を思う。その時、縁側の隅に置きっ放しにしてあるきんに気づいた。恐らく、以前弾いたものを明香が片付け忘れたのだろう。

 水月は琴を手に取ると、そっと胴の部分に刻まれた月と龍の紋を撫でた。山桜の幹から作られたこの琴は龍琴りゅうきんと呼ばれ、睹河原とがはらの伝説に於いて巫女が龍を鎮めるために奏でたとされる特別な楽器である。弦は通常の琴と同じく七本だが大きさが小さく、通常の琴より少し高く軽い音がする。

 この龍琴は、母が入宮する時に実家から持ってきたものだそうだ。母が亡くなってからそのままにしてあったものを水月が見つけ、こっそり遊んでいたら折を見て夕香が手ほどきをしてくれた。子守唄代わりに奏でてもらった龍琴の音色を辿るように練習しているうちに好きになり、今でも時々奏でている。

 左手で弦を押さえ、右手で心のおもむくままに数本弾く。柔らかで澄んだ音色は水面を揺らす風のように響き、闇の彼方へ淡く広がっていく。


「綺麗な音色ですね、水月様」


 いつの間にか、明香が背後に控えていた。奥の室からは美味しそうな香り。どうやら夕食を持ち込んでくれたらしい。

 明香は水月に母に似た明るい笑顔を向けた。水月も微笑む。龍琴を弾いている時、明香はいつも背後でそっと聞いてくれるのだった。母を懐かしんでいるかのように、無邪気な笑顔で。

 明香だけではない。絳睿も水月の龍琴を聞いてはよく褒めてくれた。穏やかな、しかしどこか悲しそうな笑顔で水月の演奏に聞き入っている兄を覚えている。……あの、最後の日も。

 そういえば、あの時の兄はいつも以上に表情が固かった。いつもと同じように大きな手で水月の頭を撫でて褒めた後、彼は抑えた声で囁いた。


『あの時、水月が生きていて本当に良かった。……願わくば、どうかこれからも』


 龍琴の細く高い音色とともに、兄の低い声が甦る。あの時、兄はどうしてあんなことを言ったのだろう。何を考えていたのだろう。細い弦を爪弾きながらそんなことを取り留めなく考えていた時、ふと水月の龍琴を聞く別の少年の姿が脳裏に像を結んだ。


「ねえ、明香は覚えてる? 突然現れたボロボロの男の子」


 背後に控える明香に問いかける。と、少しの間の後穏やかな声が返ってきた。


「覚えていますよ。傷だらけで弓を背負っていて、母がとても驚いていました。だというのに、水月様ったら『大丈夫?』なんて呑気に問いかけるのですから」

「だって、危ない感じがしなかったんだもの。……何となくだけど」


 武器を持っていたのに、不思議と恐ろしいと思わなかった。へとへとに疲れきった少年の目は片目が燃えるような紅で、禍々しくもあったけれど同時にとても悲しそうだった。

 その時、あちこちに擦り傷をこしらえたボロボロの少年と更に別の光景が重なり、水月は思わず呟いた。


「あの時の子……」

「水月様?」


 明香が訝しむような声を出す。水月は龍琴を奏でる手を止め、虚空を見上げてぼんやりと呟いた。


「今朝、うたた寝をしている時に夢を見たの。その夢に出てきた龍が、あの男の子と似ている気がする……」

 そう、あの時の龍もとても悲しそうな目をしていた。見ていると胸がぎゅうっと苦しくなって、どうにか慰めてあげたくなるような瞳。

 明香が首を傾げながらも呟く。


「そういえば、今日献上した占の結果にも龍の記述がありましたね」


 ――と、その時、背後で轟と低く激しい音が響いた。


「……!?」


 慌てて振り返ると、回廊を隔てた向かいの建物に高く火柱が立ち上っていた。天に昇る龍にも似た業火は瞬く間に周囲の建物に燃え移る。

 あちこちから響く悲鳴と怒号を聞きながら、水月は呆然と月映しの結果を思い出した。


『逆臣の刃、間近に差し迫る。幾ら慌てようと、龍なき堕ちた国に逃れる術はなし』


 月が告げる破滅の予言。その瞬間が、今まさに迫ろうとしていた。

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