第四話 無知と無力
十六夜月が天頂を渡る頃、
玉華宮は絳玉の中央より少し北に位置する。南方は中央を走る大通りを中心に碁盤のように細かく整備され、左右に広がる市もあり昼夜を問わず活気に満ちている。しかし北方は整備が進んでおらず、住人が少なく閑散としている。
南方の大通りを抜けるつもりはなかった。反乱による城の動乱は、恐らく城下にも広がっているだろう。人に紛れるのも逃げるのに有効だとは思うが、大通りに人が集まっている今は人通りの少ない場所を抜ける方が捕まりにくいと思ったのだ。
(このまま北へ走れば、川を渡って絳玉を抜けられる。北は村も少ないし、
書物で見ただけの情報だが、間違いはないだろう。逃げられる。必ず生きて逃げることができる。水月は何度も自分に言い聞かせた。
初めて城を出た彼女だったが、見知らぬ景色に目を向ける余裕はない。ただ、北へ。ひたすら走り、逃げることに専念する。
しかし、見ようとせずとも目に入る景色というものはある。特に、絳玉北の現状には水月も度々目を疑った。
やせ細り、襤褸を纏った家族。物乞いの子供が水月の
(これは、いったい……)
それは、水月が一度として見たことがない光景だった。
水月とて、宮中でそれほど裕福な暮らしをしていたわけではない。むしろ姫としては質素といっても良いほどだろう。だが、それでも自分の室と衣類、毎日の食事は与えられていた。それは、玉華宮では当たり前のことだった。
だから、彼女は知らなかった。雨風をしのぐ屋根すら得られない者がいること。綺麗な衣服を纏うことを知らない娘がいること。幼い子供を売りに出さなければ、毎日の食事もままならない家族がいることを。
あまりに酷い光景に驚愕を隠せない水月だったが、ついに絳玉北の関門にたどり着いた時、琳の王都絳玉を守る関所とは思えない現状に絶句した。
「何、これ……」
――それは、朽ちた門の残骸とそこに群れる人の塊。
役人が上げ下げするはずの跳ね上げ式の橋は下がりっぱなし。錆び付いた門の扉も緩く開いたまま。職務に従事しているはずの衛士は、ひとり門の柱にもたれかかって赤ら顔でいびきをかき他の者は見当たらない。代わりに門を囲んで蹲っているのは、痩せた孤児や老人。そして、腐って蝿の集る物言わぬ死体だった。
あまりに荒廃した北門を見て、水月の口から震える言葉が漏れる。
「これが……これが、琳の現状なの?」
元々、関門は逃げる上で最初の難所だと思っていた。いくら人が少なく使う者もあまりいない北門とはいえ、見張りは立つ。どうにか誤魔化して抜けなければと考えていたのだ。
しかし、この現状。もはや門として全く機能していない状況。それは一重に、琳がそれほどまでに荒廃していたという事実を物語っていることに他ならない。
水月も、琳が荒れていることは聞いていた。王が政治に無関心という噂も、宦官の横暴も、官吏の怠慢も、宮中で幾度となく耳にした話である。しかし、それが琳の民衆に及ぼす影響を、水月は欠片も知らなかった。
物欲しそうな目を向ける幼い子供を見ながら、水月は唇を噛んだ。王の娘として、琳の現状を全く知らなかったことが悔しい。できることなら助けてあげたいのに、何もせず駆け抜けることしかできないのが申し訳ない。
「何も知らなくて……何もできなくて、ごめんなさい」
自分の無知と無力さを噛み締めながら、水月は一言呟いて北門を通り抜けるのだった。
*
絳玉を抜けてさらに半刻が過ぎた。夜の闇はまだ完全に消えないが、少しづつ東の空が白み始めているのが分かる。
川を抜けた先は、疎らに樹木が乱立する林になっていた。薄く靄のかかる林は道らしい道も人の通りもなく、ただ冷えた空気が走って疲れた身体に心地よい。
だが、いかんせん長く走り過ぎた。手頃な大きさの櫟の木を見つけた水月は少し休憩することにした。周囲を確認し、羃篱から顔を出しながら太い幹にもたれ掛かった。
「お腹空いたなあ……」
腹部に手を当てて呟く。そういえば、夕食を食べ逃したせいで昨日から何も食べていない。思い出したように鳴った腹をさすった時、羃篱の内側に何か固いものがあることに気づいた。
慎重に内を探ると、一部に布が縫い付けてあることが分かる。隠しになったその部分には、焼きしめた干菓子が入っていた。
「これは、
玉華宮に残してきた明香。逃げる水月のためにしてくれた、彼女のささやかな気遣いに涙が出そうになる。
一口ずつ味わうように噛み締める。その時、水月は不意にまじまじと干菓子を見つめた。
(そういえば、明香、反乱が起こるのを知っていたような……?)
疑うわけではない。だが、思い当たることはいくつもあった。あの時の冷静な対応、日持ちするように焼きしめた干菓子。そして、彼女が水月に逃げるよう促した時の言葉――。
『時がきたらこうするよう、母から申しつかっていたのです』
あれはまさに、事前に反乱が起きると知っていての言葉ではなかったか。
考え込む水月。あの時の明香の行動を思い出そうとした時、彼女は書付の存在を思い出した。
(龍琴の袋の内に書付……)
あの時、明香は確かにそう言っていた。もしかしたらそこに、彼女がどうして反乱が起こるか知っていた理由が書かれているかもしれない。
龍琴は、羃篱の内側で小脇に抱えるようにして持っていた。間違えても壊したりしないように、そっと膝に降ろす。袋を開けて内部を確認しようとしたその時、風の動きが変わった。
不自然に凍る空気に、水月の肩がびくっと動く。異様な緊張感に思わず立ち上がりかけた瞬間、背後から飛び出した人影に押さえつけられた。
(追っ手……!)
水月が目を見開く。逃げようとしたが、強く押さえつけられてはもはやそれも叶わない。口を塞がれて声も上げられないことに混乱し、握り締められる腕の痛みに涙が零れた。
水月を襲ったのは、屈強な身体をもつ三人の男だった。最初見た時は追っ手かと思ったが、粗野な格好はもしかしたら賊の類かもしれない。下卑た目をした男達は水月を押さえつけたまま、おもむろに投げ出された龍琴の袋を踏み潰した。
「?! ぁ……」
「何だ、ただの楽器か」
声にならない声を上げた水月を無視し、男のひとりがぼやく。その雑な行為をもうひとりの男が咎めた。
「おい、金目のものだったらどうするんだ」
「知るかよ。俺は楽器なんかより金と女に興味があるんだ」
彼らの話を、水月は全く聞いていなかった。
男があっさりと壊した龍琴。それは、水月にとって金品よりもずっと価値のあるものだった。母が遺し、
絶望する彼女に、男達もまた気づかない。あれこれ言い争いを繰り返していた二人だったが、不意に水月を押さえている男が口角を上げた。
「まあまあ、壊れた楽器なんかより今はこっちを楽しもうぜ」
水月にいやらしい笑みを向ける男に、他の男も口々に同調する。そして彼は、水月の羃篱に手を掛けた。
心折れた水月は抵抗しない。そうして、最低の行為が行われようとしたまさにその時、酷く正確な矢が男の手を射抜いた。
「誰だ?!」
三人の男が、一斉に矢が飛んできた方向をみる。と、いつの間にか太陽が顔を出していた。あまりに眩い光に思わず目を細める。次に見えたのは、光を背にして立つ、ひとりの黒衣の男だった。
目元まで掛かった黒髪を靡かせる、あまりにも優美な立ち姿。逆光でほとんど表情は判別できないが、微笑む口元と眼帯で片目を覆っていることは辛うじて分かる。彼は残る黒瞳で水月を見つめ、ついで男達に苛烈な怒りのこもった目を向けた。
「俺は
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