第五話 払いのけた手

 颯燎そうりょうと名乗った男が賊を退散させるのを、水月すいげつは櫟の木にもたれたままぼんやり見ていた。

 全ては、あっという間の出来事だった。彼は短刀で、弓で、ておので、まるで手品のようにあれこれ出てくる武器で、舞うように三人の男を蹂躙する。賊の刃を避ける足さばきは優雅にすら見え、ほとんど目で追えていない水月の瞳をも惹きつける。彼が動くたび後ろで纏めた長い黒髪が相手を挑発するように揺れ、まるでその身をうねらせる一匹の龍のようだ。

 三人の男の内、二人が後頭部を強打されて昏倒する。それを見た最後のひとりが、燎の正面で膝を地面に打ち付けて懇願した。

 

「俺達はここから立ち去る! もう金輪際、あんたにもそこの娘にも近づかねぇ! だから、頼む。どうか命だけは助けてくれ!」

 

 燎は短刀を両手に携えたまま、暫し考え込んでいる様子で俯いていた。が、ちらっと水月の方を見てから深い溜息とともに武器を収めた。安堵する男に、ゾッとするほど冷たいを向ける。

 

「だったら、仲間を連れてさっさと消えろ」

 

 氷のような声に、男は一瞬で背筋を凍らせた。慌てて立ち上がり、仲間二人を抱えて逃げ去っていく。それを見届けた燎は、賊に向けた瞳とは打って変わって穏やかな表情で水月に近寄った。

 

「水月様、お怪我はございませんか?」

 

 優しい声で問いかけられて、水月はぼんやりとした瞳のまま燎を見上げた。

 彼は水月より少し歳上に見えた。恐らく二十歳前後だろう。すっきりとした面立ちで、黒鳶の瞳は怜悧ながらどこか無邪気さも感じられる。

 今まで、このような人物に出会った記憶はない。水月は燎に会ったことがないはず。だが、彼は初対面であるはずの水月に対して「水月様」とその名を呼んだ。彼は、どうして水月のことを知っているのだろう。

 

「貴方は……? 私のこと、知ってるの……?」


 まだ少し掠れた声で問いかける水月に、燎は柔らかく目元を和ませて答える。


「はい。ずっと、もう一度貴女に会いたいと思っていました」


 優しくも切ない声に胸がつまる。この人は水月のことを知っているのに、どうして自分は何も思い出せないのだろう。どうして自分は、彼を知らないのだろう。そんなことを考えながら燎の瞳を見上げていた時、ふとその目元が記憶の中の誰かと重なった気がした。

 はらりはらりと舞い落ちる薄桃。遠く、記憶の向こうから響く龍琴りゅうきんの響き。強大で、恐ろしくて、しかしとても悲しそうな燃える炎の瞳――。


(この、記憶は……)


 全然違う。そのはずなのに、重なるひとつの記憶。未だ纏まらない思考を抱えたまま、もどかしげな表情で水月は記憶を口に出そうとした。が、その前に燎が水月の手に触れたので、彼女はぴくりと肩を揺らして口を噤んだ。

 燎は、壊れ物でも扱うようにそっと水月の手を両手で包んで呟いた。


「本当に間に合って良かった……。今度は、きっと俺が水月様の力になりますから」


 ごつごつした手から伝わる温もり。玉華宮を逃げてからずっとひとりだった水月は、その暖かさに思わず泣きそうになった。

 しかし、自分よりずっと大きな手にほんの少し力がこもるのを見た時、在りし日の異母兄の面影がよぎってはっと息を呑んだ。

 そうだ。兄も丁度燎と同じくらいの歳だった。最後に会った日、別れ際の兄もこうして手を握ってくれた。武術よりも学問を好む兄の手は燎のようにごつごつしていなかったけれど、幼い水月の手よりもずっとずっと大きく、そして何故か小さく震えていた。

 突如水月の脳裏に蘇った優しい兄の思い出は、やがて冷たく見下ろす無数の目に変わった。腐りかけた死体の濁った瞳が、まるで責めているかのように水月を囲んでいる。我が子の遺体を抱いた薊妃けいひが、水月に恨みのこもった視線を向ける。


『お前のせいで』『貴女がいたから睿は』『みんな死ぬ。母親も兄も』


 ――お前は、誰かに不幸しか呼ばない。


「っ!」


 気がついた時には、水月は燎の手を払いのけていた。

 驚く燎。しかし水月はその顔を見ていられず、両手を胸に当てて俯いた。

 怖い。怖い。寂しい。けれど、皆失ってしまうのなら。誰かに不幸を呼ぶことしかできないのならば。


(私は、ひとりでいなければならない)


 両手を拳の形に握り締める。ひとつ大きく息をした後、燎の顔は見ないまま早口で言った。


「ごめんなさい。でも、私は大丈夫ですから」


 立ち上がり、立ち去ろうとする水月。しかし、燎はその腕をはしっと掴んだ。大切に、けれど離さないように握って、彼は水月に呑気なほど明るい笑みを向ける。


「嫌です。俺は貴女のためにここまで来たのですから、もう離れるつもりはありません。来ないでと言っても勝手についていきますから」

(変な人……)


 堂々と言い切る彼を見て、思わず水月は心の中で呟く。だが、陽だまりのような明るい笑顔に邪念のようなものは一切見当たらない。眩しすぎる彼を見続けることができず、水月は再び視線を地面に落とした。

 黄土色の地面には、小さな木材の破片が散らばっていた。それから、萎れて落ちてしまった花のように転がっている素色の袋。つい数刻前まで龍琴が入っていたそれを、水月はそっと拾い上げた。

 踏まれてしまった大切なもの。狭く小さな居場所で、それでも確かに水月を想ってくれる人がいたという証。悲しくも愛しい記憶に思いを馳せた時、水月は賊に襲われる前にしようとしていたことを思い出した。


「そうだわ。書付を……」

「書付?」


 燎が首を傾げる。水月は袋の内側に手をいれてひっくり返した。ボロボロに壊れてしまった龍琴を出してから、内布をよく見る。すると、一部赤い糸で小さな布が縫い付けられていることに気づいた。

 布を剥ぎ取ると、小さな紙が出てきた。白い紙に明香めいか手蹟でたった二言だけ綴られている。だが、書かれている言葉は十分に水月を驚かせるものだった。

 一言めは、紙の上部に大きく。


『どうか、水鏡宮すいきょうぐうへ向かってください』


 二言めは、すぐ下にやや小さく躊躇うような書きぶりで。


『そこで、母が待っているはずですから』


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