第六話 蜜柑のような人

 水月すいげつ絳玉こうぎょくを出てから、十日余りが過ぎた。

 結局、颯燎そうりょうは本当に勝手についてきた。最初は水月も彼から逃げようとしたが、すぐに姿を現しては屈託のない笑顔を向けるので次第に水月も諦めてしまった。それに、燎といるといいこともあった。彼はとても物知りなのだ。

 恐らく旅をしていたというから、その経験からの知識なのだろう。賊や獣の避け方、険しい道の歩き方、村や街の人に怪しまれず市井に溶け込む方法から野営の仕方まで、彼は何でも知っているのだ。

 また、燎は観察力と洞察力に非常に長けていた。彼は常に周囲を警戒しながら、水月が気づかないことに助言をくれる。明香は水鏡宮すいきょうぐうに行くための地図も龍琴りゅうきんの袋に用意してくれたが、それを見つけたのは燎だった。他にも、彼に助けられたことを数えれば枚挙にいとまがない。

 

 (颯燎さんは、どうして旅をしていたのだろう)

 

 考えながら歩く間にも、徐々に日は暮れていく。りんの北西を歩いていた水月は、足元も定かではなくなってきたのを見て小さな小屋で休むことにした。

 元は猟師や炭焼きが仮宿として使っていたものだろう、山中の木々に紛れるようにひっそりと建っている小屋だ。外観は木材を組み合わせた素朴なものだが、長い月日を耐えるように頑丈に作られている。古いもののようだが誰かが掃除をしていたのか手入れが行き届いており、裏の納屋には傷みにくい食料と大量の木炭が詰め込まれていた。それらをほんの少し拝借して、水月は慣れない様子で夕食の準備を始めた。

 この小屋が分かったのも、明香が隠してくれた地図があったからだ。彼女が用意してくれた地図には、夕香せきか手蹟で野営に良い場所や食料その他を隠した場所を事細かに記してあった。その情報の細かさは、地図を覗き込んだ燎も感心したほどだ。

 

「しかし、水月様のおかげで寝床と食料には困らなそうですね。あまり過酷な旅にならず何よりです」

 

 今も、当たり前のように火をおこして夕食の支度を手伝いながら燎が笑う。運んできた水の冷たさに驚いていた水月は、屈託のない笑顔から顔を背けるようにちょっと視線を落とした。

 

「それは、私じゃなくて明香と夕香のおかげよ。私ひとりじゃ何もできないもの」

 

 細い声には、自嘲の響き。自分があまりにも無知で無力な存在だということは、この十日の間で嫌というほど思い知った。玉華宮ぎょくかぐうを出た時、確かにひとりで生きていくと決めた。そう、自分に言い聞かせて住んでいた城を逃げた。だからこそ、自分ひとりでは何もできないという事実は水月に酷く衝撃を与えたのだった。

 暗い顔をしている水月を見た燎は、火起こしの手を止めてそっと水月に近づいた。

 

「誰かに力になりたいと思わせるのも、水月様のお力ですよ」

 

 そう微笑んで、彼が右手を差し出す。渡してくるものをおずおずと受け取った水月は、手の中を見つめてきょとんと目を丸くした。

 

「これは……?」

 

 それは、見たことがない果実だった。片手に収まるほど小さく、艶々とした果皮は目にも鮮やかな橙色。その頭には、小さな緑の葉が帽子のようにちょこんと載っていた。

 燎は自分の分も同じ果実を出してから、不思議そうな顔をする水月ににこりと笑いかけた。

 

「蜜柑という果実ですよ。琳より南の暖かい地域で育つんです」

 

 言いながら、彼は蜜柑をひっくり返して器用に皮を剥き始めた。水月も真似をして臍のように凹んだところに爪を立てる。

 橙の皮が裂けて白い粉のような薄皮が見えると同時に、今まで嗅いだことのないような甘く爽やかな香りが鼻の奥まで突き抜けていった。

 

「わあ……!」

 

 小さく感嘆の声を上げた水月に、燎がその笑みを深める。先程まで少し落ち込んでいたことも忘れて、水月は高鳴る鼓動を感じながら蜜柑を剥いていった。

 皮を剥くごとに強くなる独特の香りは、不思議と水月の気持ちを明るく暖かくする。まるで、太陽を閉じ込めていたかのよう。現れた小さな房をまじまじと見つめながらそんなことを考えていると、皮を剥き終えた燎が手にした房をぽいっと口の中に放り込んだ。呆気にとられる水月を見て、彼がにっと口角を上げる。

 

「水月様も食べてみてください」

 

 言われて、水月も恐る恐る口に含んでみた。少しざらざらとした薄皮が歯に触れた後、粒々の感触と甘酸っぱさが口の中に広がった。

 

「美味しい……」

 

 思わず呟いた水月に、燎も満面の笑みを見せる。彼は嬉々として蜜柑の房を口に入れながら語った。

 

「琳に来る前に、じんを訪れた時に見つけたんです。疲れがとれて元気が出るそうなので、沢山食べてください」

 

 偶々見つけて買っただけだったのだが、役に立って良かったと燎は笑う。それで、水月は彼が元気づけてくれたのだと気づいた。

 手元に残っている蜜柑の皮を見る。水月の知らない異国の果実。まだ残るその香りを感じながら、水月は歩きながら考えていたことを口に出した。

 

「颯燎さんは、どうして旅をしていたの?」

 

 その言葉は、ずっと燎を避けていた水月が初めて興味を示した瞬間のはずだった。だが、夕食の支度を再開した燎は不満そうに唇を尖らせる。

 

「燎と呼んでください」

 

 駄々をこねる子供のような口調に、水月が目を丸くする。躊躇う様子を見せると、「そう呼ばないと答えませんよ」と悪戯っぽい口調で笑った。

 水月は暫くもごもごと口を動かしていたが、やがて恥ずかしそうに小さな声で囁いた。


「……燎、はどうして旅をしていたの?」


 燎は、少し驚いた様子で水月を見た。やがて今まで見た中で最も嬉しそうに笑うと、串焼きにしていた魚を見るともなしに眺めながら穏やかな口調で呟いた。


「正確には、旅ではなく訓練の一環だったんです。……一族の当主になるための」

「当主?」


 鉄瓶を火にかけていた水月は、焚き火を挟んで燎の向かいに腰掛けた。ぱちぱちと控えめな音を立てる焚き火よりもさらに小さく低い声に耳を澄ます。


「俺の家は少し特殊でして、国に属さず家が定めた主にのみ従うという家訓があるのです」


 古くから続く大きな家なのだそうだ。一族を纏める当主の権力が絶対で、仕える主も当主が決める。そうして様々な国の王や権力者に仕え、「睹河の陰の支配者」とも呼ばれた。

 そんな家で、どうして燎が当主になりたいと思ったのか。それはもちろん、水月のために他ならない。


「俺は水月様を主にしたいのですが、琳は悪い噂が絶えず当主が首を縦に振らない。だから、俺が当主になってやろうと思ったんです」


 琳の話を聞いて、水月は懐に仕舞ったままの巻物を意識した。今は父の死を悲しむべき時ではないと思っていたので、まだ中を見ていなかった。だが今、反乱に倒れた琳王にほんの少し思いを馳せる。

 燎の一族の当主の判断は間違っていない。琳は内部で暮らす者から見てもその衰退が分かるほどだった。蔓延る圧政。傲慢な宦官。この国に従っても未来はないと言われても、多くの者が仕方がないと頷いたことだろう。

 落日の都、絳玉。その頂点に君臨していた、何事にも関心がない怠惰の王と呼ばれた父。いつも無表情のまま玉座に座っていた彼は、何を考えていたのだろう。どんなことを思っていたのだろう。もう二度と答えを知ることができない問いと分かっていながら、それでも水月は考えずにはいられなかった。


「それで、どうして琳に来たの?」


 父への追憶に思考の半分を囚われたまま、水月は燎に問いかける。彼は少し苦虫を噛み潰したような表情になった。さらに低い声でぼそっと呟く。


「……仞にいた時、琳で大規模な反乱が計画されているという噂を聞いたのです」

「えっ?!」


 水月は目を丸くした。確かに用意周到な準備の上で起こされた反乱のようだとは思ったが、まさか他国にまでその情報が伝わっているとは。


「俺は水月様も危ないのではと、当主に言わず訓練も投げ出して急ぎました。が、間に合わず……。まさか、水月様があんな目に合おうとは」

「それ、お家の方は大丈夫だったの……?」


 当主も訓練も気にせず延々と水月のことを悔しがる燎に、思わず問いかけてしまった。燎はきょとんと目を丸くすると、自嘲するように笑みを零した。


「まあ、一族には相当叱られるでしょうね。多分もう俺は当主にはなれませんし、もしかしたら一族も追い出されるかもしれません」


 空恐ろしいことを言いながら、しかし彼は何でもなさそうに笑った。


「でも、もういいんです。最初から俺にとって重要なのは、水月様の傍に行くことでしたから。貴女を護ることができたら、俺はもうそれでいいんです」


 そう言って燎は立ち上がり、川魚の串焼きを二本手にとった。一本を水月に渡しながら、いつもの屈託のない笑顔を向ける。その笑顔を見ながら、水月が感じたのは夕食の前に貰った蜜柑の香りだった。

 燎は蜜柑のような人だと、水月は思った。太陽を閉じ込めたように明るくて暖かくて、水月の知らない遠い異国の香りがする。見知らぬ地を歩き、自分とは全く違う暮らしをしていたであろう燎のことが、水月は少しづつ気になり始めていた。


(燎は、今までどんなことを経験してきたのだろう)


 金銀の星が同じ火を囲む二人を見下ろしている。旅の中で、少しずつ開かれる心。その予感を感じながら静かに夜は更けていく。


 ――だが、この時水月は知らなかった。


 燎の「家」が、一体どういうことをしている家なのかということも、燎がいつ水月と出会い、どうして傍にいたいと思うのに至ったのかということも、欠片も気にすることなく会話を終えてしまったのだ。

 今宵は新月。月明かりのない闇の下、水月と燎の距離は近いようで未だ遠いままだった。


                   *


 小屋での野営から更に五日の時を経た夕暮れ、薄紅の空に闇の気配が忍び寄る頃に水月達は水鏡宮にたどり着いた。

 水鏡宮は睹河原とがはらの中央に位置する。どこの国にも属さない組織のひとつで、信仰と睹河原全ての民を保護するという誓約の元に独立と永久の中立を表明している。神龍を鎮めた巫女の末裔やその信奉者が中心になって設立したと言われており、それもあって女性が多く在籍しているそうだ。

 琳の東に連なる山脈の中にひっそりと紛れる水鏡宮東大門は、素朴ながら壮麗な造りをした建物だ。瑠璃の瓦に天に昇る龍の鬼瓦。白い漆喰の壁には紅い柱が連なる。重そうな石の扉は開かれ、その向こうには紅い欄干と瑠璃の屋根がついた白い石造りの回廊が伸びる。その回廊に揃いの白い巫女装束を纏った女性達が並んでいた。

 水月と燎が門に足を踏み入れると、居並ぶ女性のひとりが音もなく水月に近づいた。


こう水月様とお見受け致します」


 水月は女性を見て、きょとんと首を傾げた。


「私のことを知っているの?」

「大巫女様が“視”ました故」


 水月の問いに簡潔に答えると、女性は先導するように回廊を歩き始めた。その大巫女とやらのもとに案内されるのだろうと、水月もそれ以上は何も尋ねずに黙ってついていく。と、その時、回廊を息を切らして駆けてくる女性が見えた。

 女性は他の人と比べてふくよかな体つきをしていた。齢は三十半ばといったところだろうか。ざっくらばんに結い上げた黒髪。少女のように艶々とした黒瞳に笑い皺。月日の分の老いは見えるが、それでも昔と変わらない明るい笑顔に水月は思わず叫んだ。


「夕香!!」

「お久しぶりですね、水月様」


 水鏡宮の巫女装束を纏い、しかし変わらない笑顔で佇む夕香がそこにいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る