第七話 神域にて花園の過去を思う

 水鏡宮すいきょうぐうは、睹河原とがはらの中央を走る山脈の内に存在する。睹河全体を円形に巡り、「神龍の顕現」と謳われる山脈は古くから畏れられる神域であり、山脈はもちろんその内にひっそりと建つ水鏡宮を訪れる者も滅多にいなかった。

 ここは伝説の権化。神龍と巫女の存在を密やかに、しかし確かなものとして伝える地。その本拠地たる水鏡宮は全域にわたって人の気配が薄い。回廊を巡らせた山道を一歩進むごとに足元に霧が立ち込める。周囲は終始薄靄の向こうにありながら錦絵の如く変化に富み、突然現れる奇岩や滝、花畑の平台や人為的に作られたとしか思えない石窟の数々は、まさに夢か仙郷かといった様子だ。

 それら全てに目を奪われながら、水月すいげつ夕香せきかと並んで歩いた。後ろにはりょう。彼もやはり当たり前のようについてきて、珍しそうに辺りを見回している。「訓練」であちこち旅をしているという燎も、水鏡宮には来たことがないのかもしれない。

 深まる夜闇をかき分けるように進む道。微かな葉擦れの音が心地よく耳を打つ。頬に触れる冷たい風に乗って、何処からか細い琴の音色が響いた。

 夕香は、それらの音に聞き入るように暫く押し黙っていた。が、ふと水月の方を見ると感慨深げに目を細めた。

 

「見ないうちに随分美しくなられましたね、水月様」

 

 水月は細い指で頬を搔くと、夕香を見て少し口角を上げた。

 

「夕香は変わらないわ。昔も今もずっと綺麗よ」

「あらまあ、水月様ったら」

 

 くすくすと笑う水月に、夕香も困ったように微笑む。その笑顔も昔と全く変わらない。柔らかで凛としながら、見ていると明るい気持ちになれる。一緒にいるとほっとするような彼女の雰囲気は、後宮にいた時も水月の支えだった。流行りの長い裙を嫌って健康的なくるぶしを晒して歩き、いつも何処にいても堂々としていた彼女には度々勇気づけられたものだ。

 現在、夕香は水鏡宮の巫女服を身に纏っている。慣れた様子で着こなす彼女に、水月は首を傾げた。

 

「もしかして、夕香は水鏡宮にいたことがあるの?」

 

 水月の問いに、夕香は驚いたように目を見開いた。やがて僅かに瞳を伏せ、穏やかな声で言う。

 

「私は明香を産む前、ここで大巫女様と蓮妃れんひ様にお仕えしていたのです」


 今度は水月が驚く番だった。ぎょっとして夕香を振り仰ぐ。

 

「大巫女様とお母様に……?ということは、お母様もここにいたことがあるの?」

「ええ、蓮妃様は水鏡宮でも力ある巫女だったのですよ」

 

 懐かしそうな語り口は、千年は昔の物語のように現実味がない。水月は母のことを殆ど知らなかったから、特に。

 

「蓮妃様はとてもおおらかな方でした。私が宮の外で恋をして明香を授かった時も、お妃様が大巫女様に取り計らってくださらなければ産むことができなかったでしょう。妹が言うならと許して下さった大巫女様も、当の蓮妃様まで陛下と大恋愛をして宮を飛び出した時は流石にお怒りのようでしたが」

 

 夕香は、在りし日の蓮妃を思い出して思わず声を立てて笑いそうになった。彼女はおおらかという言葉では収まりきらないくらい、とても自由で変わった人だった。巫女としての腕は大巫女に並び立つほどで多くの人に期待されてもいたが、その分この小さくも守られた場所での生活を狭苦しく思っていたのだろう。いつでも無邪気に外の世界に憧れ、籠の中の小鳥のように自由を求めていた。

 夕香が明香を身ごもり、堕ろすか水鏡宮を出るかを迫られた時の蓮妃の言葉が忘れられない。

 

 『産みなさい、夕香。子を成した後も私に仕えるといいわ。姉様には私から言ってあげるから。愛する人の子を産むのが女としての幸せなら、宮の者もそれを得られなくてはならないでしょう?』

 

 私も貴女の子を見るのが楽しみだわ。そう言って、彼女は水鏡宮の離れで夫と暮らすことも許してくれた。

 そして、蓮妃は自らも己の愛する人を見つけた。ただひたむきに自由を求めた彼女は、無垢な少女のように恋に溺れた。姉の反対も押し切り、己がどれだけ守られていたのかも知らないまま水鏡宮を飛び出した。その結果が、後宮での出来事だった。

 今でも、夕香は時々自問する。蓮妃の、敬愛する主の人生は幸せなものだったのかと。全てが彼女のせいではないし、後宮のせいでもない。しかし余りにも短い主の生を思うたび、悲しみと悔しさが身を焦がす。同時に、せめて水月だけは幸せになって欲しいと願うのだった。

 誓いと深い情愛を込めた熱っぽい視線を向ける夕香などつゆ知らず、水月は彼女の言葉に驚いたようにはっと息を呑んだ。

 

「大巫女様が、お母様のお姉様……?」

 

 驚く水月に、夕香は微笑んで頷いた。二人は、とても仲の良い姉妹だった。天真爛漫な蓮妃を大巫女はとても大切に思っていた。水鏡宮の女主としての運命が決まっていた大巫女にとって、蓮妃の自由な心は誰よりも大切にしたかったのかもしれない。蓮妃が亡くなった時の大巫女の嘆きも大きかったと聞いている。

 夕香がそのような話をすると、水月は瞳を伏せて呟いた。

 

「私、大巫女様の気分を害さないかしら……」

 

 正面できゅっと握り締めた手。不安げに揺れる声。水月は、母が死んだことを自分のせいと思っている。それを知っていた夕香は、元気づけるように水月の背を軽く叩いた。

 

「心配なさらずとも大丈夫ですよ、水月様。大巫女様は、姪に会うのをとても楽しみにしていらっしゃいましたから」

「そう。伯母様、なのよね」

 

 思わぬ肉親の存在に、水月は不安ながら心なしか浮き足立っていた。父も母も亡くなり、後宮の兄弟姉妹も皆殺しにされて、もう水月の家族はいないものだと思っていたので。

 

 (どのようなお方なのだろう……)

 

 木々のざわめきの向こう。高く低く響く琴の音が導く神秘の宮の主を思い、期待と不安に心臓を高鳴らせながら水月は夜の山道を登っていくのだった。

 

                  *

 

 山道を上り下りして二刻余り。水月達はようやく水鏡宮にたどり着いた。

 水鏡宮は山頂ではなく、山脈の向こうに存在する。自然によってできた木々の門を潜り、ようやく視界が開けた時、水月は呆然と正面を見た。

 

「ようこそ、水鏡宮へ」

 

 夕香が微笑んで手を差し伸べた先に広がるのは、まさに桃源郷といった光景だ。山中にあってなお燦然と輝く姿。濃藍の屋根瓦は月の光を帯びて艶やかに輝き、白壁を彩る紅の柱は龍の姿を模して宮を護る。連なり重なった建物の頂点が大巫女の座す場所。周囲に張り出す離宮には紅玉のような提灯が灯り、そこかしこから細い琴の音が絶えず響いている。

 足を止め暫し壮麗な宮の姿に見入っていた水月だったが、夜風に紛れて何かが頬に張り付いたのを知りぴくっと肩を震わせた。そっと手で摘み取り、きょとんと首を傾げる。

 

「……花?」

「水月様、どうかなさいましたか?」

 

 そう声をかけながら近づいてきたのは燎だった。彼は水月の手の中を覗き込み、「へっ?」とどこか気の抜けた声を上げた。そのくらい驚くべきものだったのだ。

 

 ――それは、とても小さな桜の花弁。

 

 冬に入ろうとするこの季節には存在し得ないはずの薄桃の花。その花弁が一枚、水月の手のひらにちょこんと乗っかっていたのだった。

 静かに月の光を浴びて白く輝く花弁を燎も呆気に取られたように見ていたが、ふと穏やかに目を細めて囁いた。

 

「そういえば、ここ水鏡宮は『桜花宮』とも呼ばれているそうですよ」

「燎……?」

 

 水月が燎を見上げる。彼は何かを懐かしむように空を見上げ「桜は好きなんです」と笑った。

 

 ――その時、ひとつの光景が脳裏に甦った。

 

 それは、舞い込む春の嵐。視界を埋める薄紅の桜吹雪。縁側に並んで見上げた、淡い光を零す朧月。隣に座った少年が俯いたまま、じっと水月の龍琴りゅうきんに聞き入っている。頑なに顔を上げようとしない彼に、幼い水月は小さな微笑みを向けた。

 

 『ねえ、貴方は月の巫女と龍のを知ってる?』

 

 龍琴の音色とともに誰かが教えてくれた遠い物語が紡がれた時、少年が顔を上げて中空にぽっかりと浮かぶ月を見ていることに気づいた。ぼさぼさの黒髪の向こう、不思議な真紅の瞳が月光を帯びて艶やかに輝く。その顔に目で見て分かる表情はなかったが、ひたむきな姿は初めて彼に年相応の「少年らしさ」が宿ったように見えた。

 今、燎はあの日の少年と似た表情をしていた。彼よりずっと大人だし、瞳の色も違うけれど。ただひたむきに、一心不乱に何かを求めているような顔がとてもよく似ていた。

 何処か遠くを見つめているかのように夜空を見る燎に、水月はそっと声をかけた。

 

「もしかして、燎ってあの時の」

「水月様ー? 入りますよ?」

 

 問いかける前に、夕香が水月を呼んだ。彼女が重たそうな木戸を開けるのを見て、慌てて駆け寄る。その時にはもう、水月の頭の中は大巫女に会うことでいっぱいだった。

 故に、彼女は気づかない。燎があのひたむきな眼差しを水月に向けていることも、そんな彼を夕香が暗い瞳で見ていることも。

 星陰る夜、ただ淡い月明かりだけがそれぞれの過去と同じだった。

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