第九話 それぞれの思惑

 夕香せきかの突然の告白に、水月すいげつは開いた口がふさがらなくなった。


「私を、後宮の軛から? えいお兄様が? どういうこと……?」

「それは、今から順を追って説明致しますわ」


 ぐずる子供をあやす母のように、夕香が微笑む。たったそれだけで、水月は自分が平常心を取り戻しつつあることに気づいた。昔からそうだ。彼女の言葉は、雰囲気は、いつでも水月を落ち着かせてくれる。何度か深呼吸をし、自分が冷静であることを確かめてから、再び夕香を見上げた。

 夕香は一度小さく頷いてから、ゆっくりと話し始めた。


絳睿こうえい様のお母上である薊妃けいひ様は、元々ようにあった小国の出身でございました。恐らく、かなり高い身分にあったのだと思われます」


 りんの南に位置する瑤は、睹河原とがはらの民と南方の島国虎瑤こよう国の民が入り混じり、様々な文化と風習を持つ小国が集まった地域だ。常に争いが絶えない場所とされ、今も時折どこかの国が滅びては新しく建国されることを繰り返しているそうだ。


「瑤は争いの宿命にある地。薊妃様の故郷も滅び、琳の国境都市宵楼しょうろうに逃亡したそうです」

「それで、薊妃様は祖国を再興したいと思っていらっしゃったの?」


 そのために、琳の力を得るために後宮に入ったのかと思ったのだ。が、夕香は首を振った。事情はそれほど簡単なものではないらしい。


「その頃、宵楼は琳王の弟君である絳朱瓏こうしゅろう様がお治めになっていました。朱瓏様は賢明かつ慈悲深い方で、薊妃様を含めた瑤からの逃亡者を手厚く保護したそうです」


 琳の国境を護る最前線に立ち、勇ましさと誇りに溢れながら、異国の民を蔑視せず同じ睹河原の民として丁重に扱う。その懐の深さに薊妃は惹かれた。国境も立場も超え、いつしか二人は想いを寄せ合うようになったのだという。


「しかし、ある日事件が起きました。琳の官軍が朱瓏様を処刑するために宵楼に攻めてきたのです」


 その話は水月が生まれる前のことではあるが、僅かながら聞き覚えがあった。それほど有名で、世間を騒がせた事件だったのだ。

 朱瓏が処刑された理由は、彼が堕落した高官が疎ましく思うほどに賢明だったからだ。自分の信念を持ち、強い意志でもって佞臣を罰し優れた官吏のみを遇した。それを面白く思わない者が、異国からの難民を救っていることを国家転覆の準備だと言い、その建前でもって宵楼ごと朱瓏を滅したのだ。

 琳王は弟の死をどう思ったのか。宵楼の生き残りを手厚く保護するようにお命じになった。そして喪の明ける頃、薊妃を後宮に召し上げたのだ。

 一連の話を聞いた水月は、呆然とした口調で呟いた。


「じゃあ、薊妃様が望んでいらっしゃることは……」

「琳を滅ぼし、王族と高官を抹殺することです」


 夕香は強い口調で言い、直後視線を落として呟いた。


「薊妃様は、目的を達するために息子すらも道具として扱った。……水月様、絳睿様は自分は琳王の実子ではないとおっしゃったのです」

「?! どういうこと?」


 これには水月もたまげた。知らず息を潜め、慎重に問いかける。


「どうしてそのことをお知りになったのかまでは存じ上げませんが、絳睿様は自分は処刑を受けた絳朱瓏の息子だとおっしゃったのです。琳の王となり、母の復讐を果たすために生かされているのだと」


 王と高官を滅し、新しい国の王に最愛の人であり悲運の王族である絳朱瓏の息子を立てる。それが、薊妃の目指す復讐なのだ。そのために、仇の妻となってでもずっと絳睿を大事に育ててきたのだ。


「その事実を知った絳睿様は、何とか琳を滅ぼさない方法を考えようとしました。しかし、どう頑張ったところで薊妃様は復讐のために王族と高官を滅ぼそうとするでしょう。ならばせめて、自分が利用されないように、そして大切な義妹を逃がすために命をかけた計画を立てたのです」


 訥々と語る夕香。その最後の一言に、水月ははっと息を呑んだ。


「まさか、お兄様は……」


 口を押さえ、それ以上言葉にすることができない水月に対し、夕香は不思議なほど無表情のまま淡々とした声で話す。


「絳睿様は殺されたのではなく、自ら毒を飲んで亡くなったのです」


 ひとり決意し、誰にも知られることなく死ぬ算段をつけた。夕香が死後計画を知るように仕組んだ上で。


「私と明香めいかは、絳睿様の死後この計画を知ったのです。……止めることができなかったこと、本当に申し訳なく思います」


 夕香は瞳を伏せ、悔しそうな声で呟いた。水月は、最後に絳睿に会った日のことを思い出した。


『あの時、水月が生きていて本当に良かった。……願わくば、どうかこれからも』


 優しく、しかし悲しげだった兄の声。あの時、彼は既に死ぬことを心に決めていたのだろうか。


「せめて絳睿様のご遺志を叶えようと、私達は計画を実行に移しました。宮内外限らず様々な準備をしました。来る薊妃様の反乱の日、確実に水月様を玉華ぎょくか宮から逃がすために」


 明香が着せてくれた羃篱べきりや持たせてくれた龍琴りゅうきんの袋に色々仕込んであったのは、それだったのだ。来る途中に食料が隠してあったり安全に過ごすことのできる場所があったりしたのは、それが理由なのだ。夕香と明香の綿密な準備があったからこそ、水月は水鏡宮すいきょうぐうまで逃げることができたのだ。

 壮大な計画に驚きつつ、改めて水月は夕香に礼を言おうとした。だが、途中で何かに気づいたように大きく目を見開く。


「薊妃様が反乱を起こすのを知っていた、待っていたと言ったわよね? 王族が襲われることも……お父様が襲われることも知っていたの?」

「……」


 恐る恐る問いかけるが、夕香は何も答えようとはしなかった。水月は、努めて口調を穏やかなものにしながら言葉を重ねた。


「夕香と明香が私が水鏡宮に無事つけるように色々してくれたことは、本当に有難く思っているわ。貴女達がいなければ、私は今ここに生きていることはなかったでしょう」


 それは、紛れもない本心だった。たとえ燎がいたとしても、旅慣れない上、着の身着のままの水月では長く逃亡することはできなかっただろう。これまでの安全な旅路は、夕香と明香の周到な準備があったからこそのものだ。

 そこまでは感謝している。しかし、水月は首を振った。


「でも、そこまで分かっていながらどうして誰にも教えなかったの。私以外を逃がそうと、いえ、反乱を止めようと思わなかったの? せめて、私には教えてほしかった。後宮から逃げるのではなくて、お父様を、多くのお妃様と兄弟姉妹を見殺しにするのではなくて、もっと誰もが笑っていられるような……誰も死ななくていいような方法を探したかった!」


 最後は知らず大声で叫んで、ぎゅっと唇を噛んで俯いた。涙がひと雫、朱色の絨毯に零れ落ちる。

 ただの子供じみた八つ当たりだと、今更言っても栓のないことだと、水月にも分かっていた。それでも、できることなら教えてほしかった。何もかも終わってしまう前に。


(せっかく、変われるかもしれないと思ったのに)


 ようやく、水月にもできることがあるのかもしれないと思ったのに。誰もを不幸にしてしまう自分から変わることができるかもしれないと思ったのに。これでは、全く意味がないではないかと思った。これほどの罪悪感を持ったままでは。

 そう、水月は罪悪感を抱いていた。誰もを見殺しにしてしまったこと。曲がりなりにも琳の姫でありながら、全てを捨てて逃げたこと。これは、託された命。そう信じてここまで逃げてきたが、それが正しかったのかさえ最早判然としない。

 ぐちゃぐちゃの思考を隠すように、夕香から目を背け続ける水月。そんな彼女を、夕香は冷めた目で見つめていた。吐き捨てるようにぞんざいに告げる。


「そんなこと、どうだっていいじゃないですか」


 びくりと肩を震わせた水月は、思わず勢いよく顔を上げた。信じられないものを見るような目で夕香を見る。

そんな視線にも彼女は怯まなかった。ただ淡々と、当然のことのように告げる。


「水月様が琳を捨てたところで、王族全員を見捨てたところで、気にすることなど何もないではありませんか。少なくとも私は玉華宮も王族も嫌いですし、水月様が生きていればそれでいいと思っています。それとも水月様は、を忘れたのですか?」

「それは、覚えているけど……」


 水月は口ごもって再び俯いた。後宮での日々は、確かに忘れたいと思うほどに辛いものではあった。水月がそれを恨んだことも一度や二度ではないし、夕香や明香に酷く心配をかけたことも分かっている。

 しかし、水月は再び顔を上げた。縋るように夕香を見つめて訴える。


「それでも、琳王はたった一人の私のお父様で、私は蓮妃の娘……琳の姫だわ。私は紛れもなく王族として生まれ、王族として国を思う責務がある。どんなに疎まれたところで、それを捨てて逃げ出すなんてことは」

「それを、水月様にお認めにならなかったのが琳という国でしょう!」


 不意に、夕香が声を荒げた。悲しみと恨みが篭った瞳で、身を引き裂くような切実な声で叫ぶ。


「水月様がどんなに頑張っても、誰も琳姫として認めようとはしなかった。ただ占をさせるために後宮に縛り付けていただけ。敬うという言葉を知らず、水月様を慰みものにした輩など死んで当然です。そもそも、蓮妃れんひ様が亡くなられたのだって……」

「黙って!!」


 思わず、水月は強い口調で夕香の言葉を拒絶していた。はっと我に返ると、呆気に取られたような顔で夕香が見つめている。水月は視線を逸らし、早口で呟いた。


「ごめんなさい。ちょっと頭を冷やしてくるわ」


 このまま、夕香と話し続けられるとは思わなかった。無言で彼女の横を通り過ぎ、扉に手をかける。その時、思い出したように呟いた。


「夕香、最後にこれだけ聞かせて。明香は、生きているの?」


 それは、心の片隅でずっと懸念していたことだった。玉華宮に置いてきてしまった明香。夕香の話を聞くまでは、あの日死んでしまったとばかり思っていたが――。


「当然です」


 夕香の返事は、簡潔かつ揺るぎのないものだった。


「明香は、私が水月様のために宮中に残した懐刀。水月様を死なせることも、水月様を置いて死ぬこともこの私が許しませんから。いつか必ず再び会うことができますよ」

「そう……」


 水月は再び扉に向き直りながらも、僅かに安堵の吐息をもらした。今日一番の朗報だと思った。


(早く、明香に会いたい……)


 水月は心からそう願った。明香に会えば、また昔のように三人に戻れば、このモヤモヤした気持ちも消え去るだろうと思ったのだ。

 僅かに開いた扉から寒波が押し寄せる。心をも凍らせるような冷気の中、それでも僅かな希望と未来を奥底に隠して、水月は先に進んだ。己の心にも気づけないまま、誰に顔を合わせることもできないまま。

 じっと俯いて立ち尽くす水月を、回廊の橙の光だけが頼りなく照らしていた。

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