下
施設までは
空はすでに群青に塗り変わって、裾だけがまだ赤い。
ミラーに映る後部座席の母は、縄から抜けようと身をよじっているようだった。隣にはカフェカーテンが丸めて置いてある。
奥多も僕も何も言わない。
四年前、離婚届を出した日、夜の国道を走る母の車の中を思い出した。
僕に背を向けたまま、ハンドルを握る母は言った。
「幸太、これからお父さんがいないの嫌だ?」
僕は何と答えただろう。
覚えているのは、今と同じく、絶え間なく後ろへ流れて行く夜の風景を眺めながら、永遠に目的地に着かないことを願っていただけだ。
赤信号で停車する。ハンドルを掴む奥多の手は筋が浮いていた。
「奥多さん、ひとつ聞いてもいいですか」
「うん?」
わざと明るくしようとした声だとわかる。信号を見つめる表情がこわばっていた。
「下の名前なんて言うんですか」
小雨が降り出したのか、フロントガラスに小さな銀色の粒が張り付く。奥多はワイパーを一度動かして、
「……唯信」
「おくだ、ただのぶ?」
「うん」
「たが多くて呼びづらい」
「うるさいよ」
奥多は呆れたように笑って、片手で荒く自分の顔を拭った。
もし、母があのまま結婚していたら、僕は奥多を唯信さんと呼んでいただろうか。
いつか父さんと呼ぶ、その日が来るのを互いに探りながら。
そんな未来は有り得ない。
「施設についたら、幸太くんのお父さんに連絡しろよ」
僕は頷いた。水が尾を引くフロントガラスに滲む光が、赤から緑に変わった。
***
施設の駐車場に車を停めると、すぐに職員が現れた。車と同じ青い制服だった。
彼らは手際よく母を縛っていたタオルを外し、拘束衣のようなベルトを巻いていく。
その間中、母はなぜか僕に顔を向けていた。
黒目のない瞳に見られると、助けを求められているような責められているような気持ちになる。
まだ僕が泣いていないことを、母は知っているのか。
結婚式ごっこでは何の償いにもならないと言われているようで、見えない視線から逃れようと僕は俯いた。
奥多の片手が伸びて、僕のいつのまにか固く握りしめていた拳を上から握った。
浜辺で冗談めかして頭を掴まれたときより、ずっと強い。
この車から降りるまでは、僕たちは共犯者だと自分に言い聞かせた。
外に出るよう促され、僕たちは職員が差しかけてくれるビニール傘に守られて、施設の中に入った。
施設は天井が高く、どこまでも白が続いて気が遠くなる。
暖房の効いた広い廊下を、母は両脇を職員に固められて従順に進み、並んだ扉のひとつが開くとその先にきえた。
当たり前だが、一度も振り返ることはなかった。
すべてが迅速に進んだ。
職員からは、父が到着するまでの間ロビーで待つように言われた。
自動ドアの向こうの駐車場を見ていると、本格的に雨が降り出したらしく、濡れたアスファルトに車の設の照明が反射している。水の底にもうひとつの街があるようだと思う。
青い車両が出入り口の近くに停まって、中から数人の職員と、ぎこちなく車から降りる初老の男が出てきた。
ヘッドライトが照らす雨粒で、集団の姿がけぶって見える。
僕と奥多はウレタンが詰まった臙脂色の長椅子に腰掛けていた。
ロビーには僕たちと、斜め後ろの席で、肩を抱きあったまま石像のように動かない若い夫婦がいるだけだ。
口の中が乾燥して自分の心音が聞こえるのは、久しぶりに父ともうすぐ会うからだろうか。
「俺たち、何かいつもこうやって座ってるよな……」
奥多の低い声が静かに響いた。
「そう言えば、向かい合って座ったの、最初の食事のときだけだった気がします」
「そうだよな。後はいつも隣だよな。何でだろうな……」
沈黙を埋めるように、僕たちは言葉を紡いだ。
「昔、家族ゲームって映画があってさ。幸太くんの年じゃ知らないか。まぁ、そのドラマで、家族が自分の家の食卓で横一列に並んで、食事するんだよ。それがずっと気になってたんだ。全員カメラに顔が映るようにってのはわかるんだけど、家族なら向かい合って食えばいいのにってずっと思ってた……」
「そうですね……」
父が来れば、こうして話すことももうないのだろうか。
昔のドラマの奇妙な家族のように、相手の横顔しか見ずに並んで。
「幸太くん、ごめんな」
「何が、ですか」
「ぜんぶ、かな」
「楽しかったですよ」
奥多は小さく笑い声を出すと、目を固く閉じ、煙草を吸うときのように顔を手で覆った。
自動ドアが開く音がする。僕は一瞬身を強張らせたが、入ってきたのは職員たちと先ほど車両から出てきたゾンビだった。
息をついて、素早く動く職員たちの白い靴と、片足だけスリッパを履いたゾンビの脚の鈍い歩みを見ていると、頭上から「幸太?」っと声がした。
心臓が止まるかと思う。
顔を上げると、四年ぶりに見る父は少し髪が薄くなり、太ったのかベージュのセーターの腹がベルトの上に乗っていた。
父と立ち上がった奥多は静かに言葉を交わし、僕は座ったままその唇が動くのを眺めていた。ふたりが何を言っているのか頭に入らない。
自分が、ひどく幼い頃に戻ったような気がした。
話が終わり、奥多が一歩後ろに下がった。僕が立ち上がると、父は僕の両肩に手を置いた。
「大きくなったな、幸太」
何の躊躇いもない、親が子の肩を抱くときの力だと思う。
「久しぶり、父さん」
父は奥多に向き直ると、丁寧にこれまでの礼を言い、後は自分に任せてほしいと告げた。奥多の顔には何の表情もなかった。
「じゃあ、これで」
奥多は静かに会釈して、出口の方へ足を向けた。背後で職員たちの話し声がざわめくように聞こえる。
自動ドアの前で、奥多の影のような細い後ろ姿がこちらに向き直り、僕を見た。
「元気でな」
「はい。奥多さんも」
これで終わりなのだと思うと、あまりに呆気ない。
母も奥多も、まるで最初からいなかったようだと思う。
虫の羽音のような響きで自動ドアが開いたとき、背後から劈くような「危ない」という女の声がした。
振り返ると、背後にいた夫婦の女性の方が口を悲鳴の形に開いている。
それから、あと数歩の距離に、拘束されていたはずの初老の男のゾンビが職員たちの腕を振り払い、目前に迫っているのが見えた。
視界の端で父がわずかに動いたと思った瞬間、僕は強い衝撃に弾き飛ばされた。
耳の奥で、金属のような音が鳴っている。
ロビーの長椅子に倒れた僕の上にのしかかる重圧を感じて、噛まれるのだと目を瞑った。鋭い痛みはいつまでも襲ってこなかった。
目を開くと、何人もの青い制服が男のゾンビ の上にのしかかって押さえつけているのが視界に入った。
では、僕を庇うように覆いかぶさり、両腕で万力のような力で締め付けてくるのが誰なのか。その背中には、父にしてはあまりに細すぎる。
「痛いよ、奥多さん」
はっとしたように奥多が手を離し、僕は再び長椅子に頭を打った。
奥多の顔は蒼白だ。
出口から一体どんな速さで駆け戻り、僕を突き倒したのだろうか。
「幸太くん、大丈夫だな、どこも噛まれてないな」
僕が首を縦に振ると、奥多は電池が切れたように倒れこんだ。
硬い鼻梁が僕の肩にぶつかり、そのまま胸から腹へずるずると下り、僕の足元に崩れ落ちる。父が立ち尽くしたまま、僕たちを見ていた。
奥多の体温に、また四年前の記憶が滲み出す。家についてすぐ、母は僕を抱きしめてもう一度同じ質問をした。
これからお父さんがいないの、嫌?
「いやだよ、本当は……」
そう呟いた自分の声がかすれていて、頰の生温かさにも気付き、僕は泣いているのだと気づいた。
ロビーの喧騒が遠く聞こえる。
泣くのは、母が噛まれた後初めてどころか、父が出て行った日以来だった。
***
母が噛まれた日の夜のように、僕は携帯を片手に、風呂場の磨りガラスにもたれて座っていた。
違うのは日曜日の昼間であることと、目の前には洗濯カゴもタオルの箱もなく、がらんどうなことだ。
それどころか、この家の中に物はもうほとんどない。
僕はふた駅離れた場所にある、父のアパートに住み、高校にも電車で通うことになった。
クラス委員を殴って自宅謹慎になった二週間を僕は引っ越しの準備にあてた。
あと一時間で、父が僕と荷物を乗せるため、車で迎えに来る。
仄暗いが清潔な薄緑の光の中で、僕は携帯のロックを解除する。
ネットニュースの見出しに、昨日から騒がれていた「新不自由者治療に光明か 新薬は臨床実験もクリア」の文字が踊っていた。
そのまま画面をタップし、通信履歴から一度しか使っていない番号を出して、通話ボタンを押す。五回目の呼び出し音で相手が出た。
「お世話になっております、奥多でございます」
想像もしなかった明瞭な声に思わず息を呑み、それから噴き出す。
「仕事用の声だ」
そう呟くと、電話の向こうで二、三度ざらついた雑音が響き、
「うるさいよ……」
記憶の中のまったく変わらない、暗い声が聞こえた。
「仕事中でしたか」
「いや、まあ、そうだけれど、別にいい。客も乗せてないし、渋滞にはまってるから……幸太くんは今、お父さんのところか」
「まだ家です。あともう少ししたら父が来て、それで引っ越しです」
「そうか。何とかなってよかったよな」
電話の向こうで、奥多はどんな表情をしているのだろう。
「はい。でも問題があって」
「うん?」
「父のアパート、家賃が安いのでお風呂場がないんです」
奥多は何も言わない。僕は口の中で言葉を転がして、一度呼吸をし、言った。
「奥多さん家に風呂入りに行っていいですか」
長い沈黙の後、湿った笑い声が聞こえた。
「いいよ」
僕の笑い声が、狭い脱衣所に響いた。
「あぁ、渋滞動いたみたいだ。じゃあな、幸太くん、あと……」
そう言って電話が切れた。
僕は息をついて、携帯を耳元から下ろす。すかさず メールの着信音が鳴って、ショートメールが届いた。
『お父さんには煙草バレないようにな。』
たった一行だけ、そう書かれていた。片手でハンドルを握りながら、素早く打ったのだろうと想像すると笑えてくる。
風呂場からの光が水のように揺れていた。
夕凪の海のように、つま先で続けば波紋が起こりそうだと思う。
僕はドアを開け、薄めたハイターの匂いの満ちた風呂場に入った。タイルは乾ききっていて、靴下のままでも濡れない。換気扇の音が低く響いていた。
僕は空のバスタブに入り、胎児が眠るような格好でうずくまってみる。
母がやっていたのと同じように。目を閉じて、ここから出たらもう一度生まれ直すのだと想像する。
母も同じことを考えたのだろうか。バスタブから出て、母は何になろうと考えただろう。
インターホンのチャイムが鳴って、僕は目を開けた。
そのままの姿勢で少し待つ。
もう一度チャイムが鳴る。
僕は立ち上がり、バスタブをまたいで出る。
またチャイムが鳴った。
「父さん、今開けるよ」と声を張り上げる。
風呂場のドアを開け、脱衣所に出たとき、視界の端で何かが揺れた。
振り返ると、外し忘れていたシャワーカーテンが、新郎に上げられるのを待つウェディングヴェールのように揺れていた。
バスルーム・ウェディング・ゾンビ 木古おうみ @kipplemaker
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