僕は奥多おくだが運転する車の後部座席に乗っていた。

 奥多はタクシーの運転手だという。


 仕事の飲み会帰り、母が乗ったタクシーに鞄を忘れて、それを届けたのが奥多だったらしい半開きになったドアから吹き込む風に、前髪を煽られる。


 時刻は十一時半。授業の二限間目が終盤になる頃だと思った。目の裏に浮かぶ高校の風景を打ち消したくて、何か言おうと思った。


「プロの運転だ」

「プロって何だよ」

 と、奥多が笑う。車内に飾りは何もなく、車内は煙草と消臭剤の安いレモンの香りがする。


 僕たちが着いたのは駅のローターリーを抜けてすぐにある写真館だった。


 血が滲みそうなほどきっちりと前髪を分けた男の隣で、青いドレスを着た少女が微笑むレトロな看板が色褪せていた。自動ドアをくぐり、両脇に並ぶドレスがカーテンのように広がる店内に入った。


 髪をひとつにまとめた女性の店員がすぐに駆け寄ってくる。彼女に、僕と奥多はどう見えているのだろう。年の離れた兄弟か親戚か。親子にはとても見えない。


「何かお手伝いすることはございますか?」

 駅のアナウンスのような通る声で店員は言った。

「あの、ウェディングドレスのレンタルはややっていますか」

 奥多がそう言うと、店員の完璧な微笑みを崩さないままわずかに口角を下げた。

「失礼ですが、どちらのお客様が……」

 店員の視線が、僕と奥多の間で交互に揺れるのを見て、思わず笑いそうになる。


「ああ、私の、妻ですが」

 苦笑した奥多の顔に、まだ見たことがない仕事のときの姿がちらついたような気がした。


 店員は安心したように微笑んだが、今度は視線を僕一点に注ぐ。平日の昼間に制服を着たまま、二十代の既婚者の男と写真館に来る高校生。ミステリ作家でも辻褄は合わせられないだろう。

「奥様のお洋服のサイズは?」

 奥多が僕の方を見る。

「Mサイズ」

「馬鹿、何号かだよ」

 店員は苦笑して、

「サプライズでしょうか。恐れ入りますが、やはり御本人様がいらした方が……」


 僕たちは間抜けみたいに笑って、頭を下げた。店員が去った後、僕の肩のあたりに行き場を失ったような奥多の右手があるのに気づいた。

 馬鹿と言った後、僕を軽く小突こうとしてできなかったのだ、と思う。

 奥多はその手をポケットにしまい、僕たちは店を出た。



 ***


 十一月の海は冷たく凪いで、空との境がない。こんなところで結婚式を挙げる奴はいないだろう。


 僕と奥多はあの後二つの写真館を巡って、海沿いのコンビニの駐車場で昼食替わりの菓子パンをかじっていた。


「寒くなってきたな」

 そう呟いた奥多のセーターから出た首の回りは、骨の形が浮き彫りになって、確かに寒々しいと思った。肌は女のような白さではなく、どこか不健康な黒みがかった検死台の上の遺体の白さだ。


 波の音が聞こえるここで、奥多の肌の下の静脈が透けているのを見ていると、母の声が蘇ってきた。


 いつかね、ちゃんとした海に行くの。この街の、馬鹿なヤンキーが遊んでるような汚い海じゃなく、綺麗な青い海。いつ行けるんだろ。これを着られるうちに行きたいなぁ。


 皮膚の下の毛細血管のように、透明な光る糸が織り込まれた布。


 僕は手の中で空になったチョココロネの袋を潰した。

「奥多さん、家に帰ってもいいですか」

 奥多は目だけ動かしてこちらを見ると、何も聞かずいいよとだけ答えた。


 家族より、恋人より、共犯者の繋がりの方がずっと強い気がする。



 ***


 母のクローゼットを漁る僕の後ろで、奥多は居心地が悪そうに立っていた。

 カシミアのコートや化学繊維のスカートの感触を掻き分けて、ビニールのような音を立てる布に触れる。


「あった」


 ハンガーごと掴んで引き抜くと、白に薄水色のラメをまぶしたようなロング丈のワンピースが現れた。離婚してからすぐにフリーマーケットで母が買った、外国製のサマードレスだ。

 父さんのことからも僕の子育てからもぜんぶ解放されたら、これを着てひとりで海に行くのだと話していた。

 小学校を卒業したばかりだった僕は、自分が母のくびきになっているようで、無邪気に夢を語る背中に暗い気持ちになったのを思い出す。


 奥多は僕の肩越しに覗き込んで、

「うん、それらしいよ」

 と、呟いた。


 仄暗い洗面所に足を踏み入れるのは今朝ぶりだ。磨りガラスの向こうはかすかに結露し、澄んだ水底のような薄緑色の光が差し込んでいた。僕は母のサマードレスを抱え、奥多がドアノブを握る。


「開けるぞ」

 僕が頷くと、奥多は扉を押した。昨日のように影が倒れて来ることもなく、ドアは静かに開いた。こうなった母の姿を直視するのは初めてだった。


 うずくまった姿勢で小さく身体を震わせ、口を一周するように巻かれたタオルを唇で噛む姿が、屈んでパンを頬張る子どものようだった。目に牛乳のような膜が張って、髪に血がついて固まっていても、母は母のままだった。


「俺がやるよ」

 奥多は昨夜のように言って、僕に手を差し伸べた。


「気をつけて」

 僕は腕の中でくしゃくしゃになったドレスを手渡す。布地をたぐり寄せて、背中部分のファスナーを難なく見つけた奥多の手つきに、僕の知らない母とこの男の姿を見たようで、僕は磨りガラスに背を向けた。


 しばらく衣摺れの音が続いていたのが止み、風呂場の中から、幸太くん、と奥多の声がした。

 ドアを開けると、奥多が母と向き合うようにバスタブの中に座っていた。母はすでにワンピースをしっかり着ていて、背中だけが大きく開いている。


「俺が手抑えてるから、後ろのチャック閉めてくれないか」

 僕は乾いたタイルに膝をついて、ワンピースの金具を摘む。

 そのとき触れた母の背中が、指の腹で氷を撫でたように冷たくて、僕は一気にファスナーをあげた。奥多は一度解いたタオルで母の手首を縛り直していた。


「口はこのままでいいか……」

 そう言いながら、母の顔にかかった髪を指先で払う奥多の仕草が優しかった。

 なぜ、この男は母と結婚しようと思ったのだろう。



 ***


 夕陽に変わる前の太陽に、白いサマードレスの裾を透かせた母が、たどたどしい足取りでゆっくりと浜辺を歩いていく。


 ドレスは陽の下で見ると、純白ではなく薄水色に見える。

 ウェディングドレスの白は死に装束と同じ意味だと誰かが皮肉ったのをどこか聞いたが、死んでも生きてもいない花嫁が着る服は水色なのだろうか。


 頭に被せたヴェールは、家を出る寸前に僕が慌てて取りに行った新品のカフェカーテンだ。


「上手くいったな」


 煙草を歯に挟んだ奥多は笑う。奥多が前に立って手を引き、僕が後ろから支える形で、非常階段で母を運んだ。駐車場に降りて、後部座席に母を押し込むまで、幸い誰にも合わなかった。


 僕たちは浜辺に座って母の姿を見ていた。隣で僕も煙草をくわえていることに、奥多は何も言わない。

 海岸に他の人影はなく、砂に埋められた花火や缶の破片があるだけだった。

 遠くにホームレスの張ったテントがあり、垂れた幌に雨か海水かわからない水が溜まっている。


 湿った砂浜の起伏につまづきかけてはまた歩き出す母の影は、ステップを踏んでいるようにも見える。

 ひとりで歩けるようになったばかりの子どもを浜辺で遊ばせながら見守る親とは、こんな気分だろうか。


「結婚式って言ってもな、こんなことしかできないよなぁ……」

 煙と一緒に言葉を吐き出した奥多の乾いた唇を見ていると、ふと疑問が浮かんだ。


「奥多さんは結婚してたことありますか」

「あるよ」

 予想よりずっと簡潔な答えだ。


「いくつのときですか」

「二十二」

「大学卒業してすぐ?」

「いや、ギリギリで学生結婚だった」

 奥多はそう言って、痩せた肩を竦めた。


「子どもができたって言われて結婚したんだ。大学卒業してから嘘だってわかって、それでお互い一緒にいても話さなくなって、離婚した……」

 その目は母でも水平線でもない、ずっと遠くを見ている。第一関節から先が砂に埋もれた奥多の白い左手には、指輪の跡は探せなかった。

「……不良ですね、奥多さん」

 奥多はひとのこと言えんのかと笑って、僕の頭を鷲掴んだ。

 手の硬さに反して、込められた力はあまりに遠慮がちだった。

 大人が、息子でも何でもない十歳年下の人間に触れるときの力だ。


「奥多さんは、何で結婚しようと思ったんですか」

「それは、最初のときの話か? それとも翔子さんとの話か」

 母の名前を他人の口から聞くのはどこか気恥ずかしい。


「どっちも」

「さぁ、どうしてかなぁ……」

 海は日差しを反射して、燃えるように光った。太陽の表面だとも思う。


「母さんは、奥多さんのこと優しいって言ってましたよ」

「別に、優しくはない……」

 そう言って、奥多は煙草のフィルターを噛んだ。口元を手で覆うやり方を真似して、僕も母のものだった煙草を強く吸った。


 施設に連絡もせず、休日を潰してこんなことに付き合う奥多は、やはり優しくのだと思う。

 優しくて、でも、誠実な大人ではない。誠実でないひとの方が優しいのだろう。

 父は優しいよりも誠実で、だから母や、もしかしたら僕にも耐えられなかった。


 海の向こうに白い影が見えて、僕は思わず立ち上がる。指先からまだ火のついた煙草が転げ落ちた。


「向こうからじゃここまでは見えない」

 奥多は座ったまま、そう言った。目を凝らすと、小型のクルーザーにぼやけた人影が二、三揺れて見えた。


「こんな時期に船旅かな」

「散骨、だろうな」

 さんこつ、と問い返すと、

「死んだひとの骨を砕いて撒くんだよ。今多いらしい。骨だってわからないくらいに砕いて、遠い沖まで撒きに行くらしい。喪服じゃなく普通の格好で。サーファーや何かが驚かないようにな」


 ゾンビがもっと猛威を振るっていてくれたら、散骨より、穴を掘って死体を蹴落とし、そのまま焼くような野蛮な方法が主流になっていただろうか。

 旅行にでも行くような服装で、粉になった家族や友人を海に捨てに行く。海水浴の客を脅かさないように気遣いながら。

 あまりに虚しく、終末の風景とは程遠い。


 水平線に触れる部分が赤くなり始めた空を背景に、ウェディングドレスの母がぎこちなぬ踊る。この光景を見ながら、今地球が終わってくれたらと思った。


 奥多の方を見ると、座ったまま僕を見つめ返していた。

「行きましょうか」

「もう、いいのか」

 僕が頷くと、奥多は笑った。逆光ですべて黒目になったように見える目を細めて。


「じゃあ、行こうか」


 立ち上がった奥多が捨てた煙草は、湿った砂に触れて蝉のような音を上げた。

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