明くる日の、月へ《2》
◇
「人生なんてさ、こんなもんだろ」
踏ん張りの効かない足にむち打って、摩擦の弱い斜面を登る。月夜は腕の中でもがく気力さえ、もう残してはいないようだった。
「いまの月夜みたいに、全部がどうしようもなくなったら、暴れだしたくもなる。それで、ひとしきり暴れたら力尽きて、動けなくなる」
僕はポツポツと、自分の言葉を口にした。月夜は聞いてるかも分からない、虚ろな目で僕を見ていた。
「そういうときのために僕はいたんだよ。今までもずっと、そうだった」
人生の答え合わせみたいに、僕は、高架下で月夜がうずくまっていた時のことをまず思いだした。
「僕は、いつか君が崩れても大丈夫になりたかった。でも僕は弱くて、君を助けることなんかできなかった。それは、今も」
不意に、磯の香りが鼻をつく。下りになった勾配を全力で駆けて、山道を抜けると、石垣の向こうに夜空を宿した海が見えた。僕はまた、今日の夢を思いだした。
「最近、夢を見るんだけどさ」
月夜の虚ろな目は、海の方に向いていた。いつか、ガラスペンを見た時と同じように、水平線の向こうを見渡していた。
「独りで、月の海を漂う夢なんだ。僕はいつも、小説を書く時にそこへ行く。あそこは、僕の孤独の象徴。誰もいなくても、君がいなくても、自分はこの身一つで大丈夫だっていう証明だった。でも......」
震える足で石垣を上り、砂浜に降り立つ。淡くなった月明かりが、月面の世界を砂浜に投影していた。
「今日君が現れたんだ。あの月の世界に、僕の孤独をつき崩すみたいに君がやってきた」
──ここはまるで、月夜の世界だ。あのインクをこぼしたような、静謐な世界が拡がっている。夢よりも、もっと本当に、月のようだ。
「それで思ったんだけど......少なくとも僕は、ひとりじゃ生きられない。確かに、孤独は痛み続ける無形の臓器だ。それ無しには生きていけないのに、ずっと痛みに疼いている、不良の臓器なんだ」
月夜を砂浜に下ろして、少しだけ海の方を眺める。朝焼けの空が、一日の始まりと、僕らの道行きの終着を告げていた。
「それじゃあ、人は孤独のうちに生きるってことになるね。つまり孤独は自然体ってことでしょ。それなら、孤独に生きていけないなんて話になるのはおかしいよ。君がダメでも、私は大丈夫」
「じゃあ月夜は、永遠にひとりで痛み続けるの?」
「そうだよ。私はそれに耐えられる。君なんかよりずっと強いんだ」
「人と一緒には居られない?」
「当たり前じゃない。私と一緒にいるのは、異常なんだってば」
月夜と僕は、ぼんやり消えかかる月の上に立った。もう、違う方向を見てはいない。僕らは、同じ月の世界を目に写している。
「でもさ、月夜。僕はもうその言葉に答えてる。もう何年も前の話だけど」
月の世界が、剥がれ落ちていく。夜が終わっていく。僕は月夜を見た。夜みたいな瞳、三日月の体躯が滲んで、淡く見えた。
「それでもいいよ」
水平線の向こう、大きな光の塊が顔を出し、僕は眩むほどの光線を浴びる。目を細めながら、ポケットからガラスペンを取り出して、筆先をその光の一端にかざす。乱反射する光は真っ直ぐには伸びず、あらゆる方向に、無限の道をさし示していた。光の軌跡で宙空に言葉を描いた。最後の思い残しをかき消すように。
『夕陽は月の手を引いて駆ける。黄昏の底で闇に溺れる。夢中に夕陽は死にゆく。月がただ待っている』
書き終えた僕は、ペンを砂浜に捨て、朝日が示す光の道に向かって歩んだ。「夕陽!」叫ぶ月夜の声は、不安げな色を帯びていた。僕は振り返る。
「私、どうしたらいいの。だって、これからも傷つけるよ。夕陽は痛くないの」
月夜は、確かに人を傷つけるだろう。傷つけずにはいられないだろう。けれど、それはきっと、誰もが抱える痛みのひとつでしかないから、僕らはそれに無理なく耐えながら生きていく必要がある。でもそれは、なんて辛いことだろう。なんて息も絶え絶えの大仕事だろうか。本当はみんな、傷つける痛みにも、傷つけられる痛みにも耐えられない。耐えた振りをして、誤魔化して生きているだけなのだ。それじゃあ誤魔化せなかった僕達は、生きていけなくなるのだろうか。そんなのはきっと間違ってる。少なくとも、僕はそれを認めない。傷つけあう生き方を誤魔化すあの子に、ぎこちなく笑うことを強いる世界なんて、クソ喰らえなんだ。気持ちの昂りのままに、僕は叫んだ。
「痛くてもいい。それがつまり、生きてるってことだから。傷つくことは辛くても、怖くても、いつかちゃんと僕らの命になっていくよ。だから、月夜は月夜のやりたい事をして、僕も僕のしたい事を......小説を書いていく。それで僕達は、傷ついていく。死にたくなるほど欠けていく。でも、君も僕も、絶対に大丈夫なんだ」
「それはどうして」
「月夜、ここまで歩いて来られただろ。僕らは案外頑丈みたいだ。それに、もし崩れても心配ない」
明け空の薄明を背に、両手を大きく広げて立つ。僕は少しだけ目を瞑って、また、二人の人生を思い出した。そしてこれからのことを、少しだけ想像する。何も、先のことなんて分からない。でもどんな物語だって、最初は真っ白な紙を汚すことから始まるのだから。真っ白な将来に、これから綴っていけばいい。今は、心からそう思う。
「僕が、月夜を見てるから」
僕は身を翻して、光の道へ走り、跳躍した。海水が全身を打って、柔らかな泡に包まれる。浅い海底に落ちながら、僕は空を見た。これで全部、伝え終わっただろうか。月夜は分かってくれただろうか。冷えた頭で考えてみると、不安めいたものはポツポツと、気泡みたいに湧いてきた。海の中はやはり、孤独だった。孤独で、薄暗くて、寂しいと思った。
水底の静寂を引き裂く音がして、花火のように水泡が散る。僕に向かって、手が伸びる。それを引いて、僕は浮上した。濡れた頭を振って、目の前を見ると、ずぶ濡れになった月夜がいた。僕はつい可笑しくなって吹き出した。すると、月夜もつられて笑い出す。何が可笑しいのかもわからないままでも、楽しくて笑えた。月夜は僕の両手を取って、彼女の目の前に掲げる。
「私も、夕陽を見るよ」
月夜は軽やかに微笑んで、僕の小指にキスをした。
「これからも、そうやって笑ってよ」
手のひらに確かな温度を、答えと共に掴んでいた。僕らはこれからも、こうやって手を繋ぎ、ちぎれるほど引っ張りあって、生きていく。それはまるで、太陽と月の切り離せない引力のように。
月夜、硝子の筆先 葉月空野 @all5959
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