現在、夢追い

 教室のドアを開けると、噎せ返るほどの喧騒の気配に、少し息がつまりそうになる。苦しい気持ちで自分の席に座っていると、場違いな気がして居たたまらない。そんな感覚にも、もう慣れてきた頃だ。重いリュックを机にかけて、文庫本サイズの小説を開いた。本で顔を覆いながら、視線を方々ほうぼうへめぐらしてみる。クラスメイトたちはなにも、ただ騒がしい訳じゃないことが一目見てわかった。彼らは、青春をしている。真っ当な高校生活が楽しめている。たったそれだけのことが、僕と彼らを明確に区別している、レッテルのように見えた。

 目線を本から上げて、教室の隅においてある、人気のない席に目をやる。空っぽの席は、朝がもたらす暖かな日差しをちょうど避けていた。あの席はいつも、空白に見える。僕の平凡な日々にぽっかりと空いた違和感。虚ろな穴のような孤独。今朝の夢を、否が応でも思い出した。

 予鈴が鳴ると、教室一ダルそうな目をした担任が、心配になるくらい適当に出欠をとる。


たちばな 月夜つくよ......欠席か。他に居ないやつは居るか。おう、後ろの......館山たてやまが居ないのか。あいつも風邪をひくんだな」


 担任が、大して面白くもない洒落を言う。そんな洒落を馬鹿みたいに笑うのは、館山くんを知る一部の人だけだ。彼女のことはもう誰も、気にとめない。彼女が学校を毎日欠席することは、親しい友達と毎日会えるのと同じくらい当たり前になっている。彼女のいない教室が浸透した、味のないガムみたいな空間。そんなもの、吐き捨てたくて仕方なかった。

 本鈴と共に一日が始まる。僕は億劫で、机の上に突っ伏して、静かに目を閉じる。いつものように、退屈な授業は眠って、チャイムの音で起きるのを繰り返す。昼休みにはパンをかじり、食べ終わってから終礼のチャイムが鳴るまで、また夢を見た。夢は、月の夢ではなかった。あの美しい世界を訪れるには、僕の心はざわつきすぎていた。放課後になっても、僕はまだ机にへばりついていた。もう帰るどころか、動くことがダルくてしょうがない。十分くらいそのままでいると、項垂れる僕を叱咤するみたいにスマホが鳴った。ディスプレイには、月夜からのLINEの通知が表示されていた。


『今から来てよ、喋ろ。最近何してるの?』


 ♢


 学校から月夜の自宅までは、そう遠くない。途中で見舞いの品を買いにローソンに寄っても、三十分かからなかった。『橘』の表札が見えて、自転車を降りる。玄関の横に自転車を止めて呼び鈴を押すと、忙しない足音のあとに扉がひらいた。


「来た......本当に来たんだ」


 月夜は、サイズの大きい黒Tシャツと中学の体操ズボンという、ちぐはぐな格好をしていた。恥ずかしそうにズレたシャツの肩口を引きよせながら、「どうぞ」と片手で家の中を示す。ローソンの袋を手渡しながら、僕は玄関に入った。玄関にはやたら犬や猫の置物が多くて、月夜の格好みたいに雑然とした印象を受けた。


「ジロジロ見ないでよ、恥ずかしいな」


 月夜は怪訝な顔をして、僕の足を踏む。


「家の中? 君のこと?」


 僕は軽くあしらって、かなり冷めた気分で聞いた。月夜は「両方に決まってるでしょ」と言ってからまもなく、「バーカ」と悪態をつけ加えた。


「おじさんとおばさんいないの? あの二人、いつなら居るんだよ」

 

「また旅行だってさ。仲良いのよね、昔から。私のことはあんま、どうでもいいみたい」


「それ、自業自得だろ。......昔からの」


 月夜は首筋を掻きながら、キッチンの冷蔵庫をあけた。後ろから中身を覗き見ていると、ハムとかチーズとか、調理しなくても食べられる食品が山のように押し込まれていた。「シャワー借りていい?」と聞くと、こちらを見ずに片手をひらひらと振る。少し遅れてから、月夜は思い出したようにこちらを振り向く。僕はリュックからフェイスタオルを取り出して、月夜に見えるようひらひらと振った。

 シャワーを終えて浴室を出ると、脱いだ制服の横に白のプリントTシャツが置いてあった。手にとってよく見てみると、いつか僕が月夜に貸したシャツと同じだったので、遠慮なく着ることにした。シャツには、月夜の匂いが残っていた。僕は、どんな顔をすればいいのか分からなくて、自分の匂いを纏ったタオルで頭を掻いた。


 ♢


 月夜の部屋は整然としていて、かざりっけのなさは僕の部屋といい勝負をしてる。オフィスみたいな部屋の本棚には、部屋の雰囲気に似合わないポップな絵柄や古風な表紙の、様々な童話が置いてある。机の上にはA4の紙と、小洒落たインク瓶が置いてあった。


「あ、預かってたやつ返すね、もう要らないし。あと私もシャワー浴びてくる」


 月夜はおもむろに机の上のインクを僕に投げて、部屋を出ていった。一人になるのを確かめてから、インク瓶に目を落とす。インクには、『月夜つきよ』という名前があった。名の通り、それは月夜つきよの色をしていた。静寂を、孤独を包み込むような......彼女のような色。五年経っても、その魅力が磨り減ったようには感じない。瓶の縁を、親指でひとつ撫でた。未だに僕を引き込む透明感が、何度でも、あの頃感じ取った夜の匂いを思い出させる。月夜の横顔を、思い出させる。月夜が部屋に戻ってくるまで、インクを眺めながら、月夜つくよのこと、月夜つきよの夢、学校での生活げんじつを考えていた。時々、記憶の映像は朧になって、大事なことを忘れていく自分の無力さに気がついた。頬が少し、濡れている。気づくと視界は、下手な水彩絵の具みたいに滲んでいた。




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