月夜


 ガラスペンを買った夜、僕らはどちらが言い出すともなく、近くの公園に向かった。 


「綺麗......」


 筆先の反射が、四阿あずまやの天井に小さな夜空を投影していた。綻んだ月夜の横顔を眺めながら、月夜に貰ったインクの瓶を月にかざす。


「これで、かぐや姫の続きを描いてみて」


 今思えば、この言葉は月夜の単なる無茶ぶりで、取るに足らない戯言だったようにも思う。でも、かぐや姫の続きと言われると、僕も気まぐれに色々想像してしまって、次第にそのあやふやな想像を形にしたくなった。


「いいよ、やってみる」


 月夜に言われるまま瓶の蓋をあけ、ガラスペンの筆先を月夜つきよで濡らす。拙い筆致で綴るのは、かぐや姫の幸せな終わり。はじめ、僕が小説を描くのは月夜のためだった。月夜は童話が好きで、その癖バッドエンドは嫌いだった。童話の中には寧ろ、バッドエンドに終わるものだって結構ある。それに、物語として完成しているし、僕みたいな素人が手を加えてかき乱すよりは、そのまま読むのが一番面白いに決まっている。それでも僕が描く話は、やたらプライドの高い人魚姫とか、街を燃やして暖かくしたマッチ売りの少女とか、嘘のカリスマが英雄になるオオカミ少年とか、いつだって定型の物語を馬鹿にしたような奴が主人公だった。そんな物語でも、月夜が笑ってくれるのは嬉しかったし、僕も案外面白かった。僕らはその日、夜明けまで物語を綴った。家にも帰らず、月夜と僕だけの空間を、インクとペンで塗り替えた。


「そのペンね、夕陽に似てると思った」


 夜明けの光がさし始めた頃、うわ言のように月夜は呟いた。


「脆く見えるのに簡単には壊せない。そういう風に、精巧に作ってあるでしょ? けど、いずれ絶対に壊れるから、壊れる前に手放したいんだよね」


「僕は別に、壊れたりしない」


「君はもう壊れかけてるよ。私は普通じゃないから、異常な人がよく馴染むんだ」


 明け方、四月の風はまだ冷たい。震える膝を抱えて座る月夜に、僕は自分のブレザーを手渡した。月夜はおずおずと受け取って、顕になった膝にブレザーをかぶせた。


「僕の普通は月夜だから。周りの人からすれば異常なのかもしれない」


「そうだと思う。でも、今なら戻れるよ」


「戻るもなにも、僕にとって僕はずっと普通だし、君も普通」


 朝日に晒された土の、かわいた匂いが喉に迫る。澄んだ空気の面は失せ、インクも随分目減りしていた。インクの瓶を振る月夜を見ていると、未だ四阿の空には星のような光が走って、まだ見ぬ物語が瓶の中から飛び出てくるような気がした。


「でも、普通な月夜が、僕の特別なんだよ」


 眩しい外の光に目を細めながら、虚空へ語るように呟いた。月夜は、何も答えてくれない。少しだけ月夜の方を見てみると、彼女は瓶の表面をなぞって、大切そうに両手で覆った。月夜と僕の距離感が、ようやく見えた気がした。僕はガラスペンをケースに閉まって、自分の鞄に入れた。


「失くさないでくれよ?」


「わかってる。ちゃんと預かっとく」


「その瓶さえあればまた、君に物語を描くから」


 約束を交わす度に、月夜と僕は離れていった。二人で集まって小説を書いたのも、結局これっきりだ。僕は月夜に近づこうとして、月夜はその逆に行こうとしていた。今も昔もすれ違う。僕らは分かりあっているようで、一度もわかりあったことなどなかったのかもしれない。

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