過去、夢喰い《1》

「ねえ、泣かないでよ」


 背後のドアから聞こえて立ち上がると、月夜は珍妙なものを見るような目で僕を見た。


「邪魔で扉が開けられない」


「泣いてない。よく見てみろ」


「よく見た。やっぱり泣いてるんだけど。『よく見てみろ』」


 月夜はわざと復唱しながら、四角い手鏡を僕の鼻先に突きつける。目を細めながらそれを受け取って見てみると、確かに自分の顔は涙に濡れていた。ただでさえ情けない顔が、より深い情けなさで上塗りされている。彼女は呆れ顔で、僕に聞こえるように大きなため息を吐く。


「『よく見てみろ』」


「わかった、それはわかったから。泣いて悪かったよ」


「悪いなんて一言も言ってないけどね。ただ扉開けるのにだっただけ」


 そうかよと悪態づいてから、カーペットの上に膝を折って座った。


「ベッドの上でいいのに、余計な気を遣わないで。というか、シャワーは借りれるのにベッドには座らないってなんなの?」


「誰かのケツが乗ったベッドって嫌じゃないか?」


「まあ、夕陽のケツにウジが湧いてるとかなら話は別だけど」


 ムッとして、彼女の方を少し睨む。月夜は形の良い唇を尖らせ、興を削ぐ音色の口笛を吹いた。仕方なく、自分のケツを触って確かめてから、ベッドの上に腰を下ろす。月夜はオフィスチェアを回しながら膝をかかえて座り、何かの文章を打っていた。風呂上がりの柔らかな匂いが、微かに鼻をかすめた。


「これねー、新しい彼氏。もうちょいで話終わるから待ってね」


 聞いてもいないのに語られた事実に、頭を殴られたような衝撃が走る。もう毎度のことではあるはずなのだけど、慣れないものはどうしても慣れない。


「僕へのあてこすりかよ、笑えないね」


「夕陽は繊細だもんね。まあ、じきに慣れるよ」


 諦観交じりの口ぶりで、月夜が言う。僕は憤りも、蔑みも感じなかった。膝を抱え、機械的に文字盤を叩く月夜の楽しそうな表情を見て、ベッドの上に身を投げた。


♢


 彼女が学校に来なくなったのは、中等部の終わり頃。何かがプツリと切れたかのように、月夜は学校から姿を消した。その日の放課後、すぐに電話をかけて月夜に話を聞いた。月夜の話は要領を得なくて、通話の間に同じ言葉をなんども繰り返した。それでもいつかのように、弱々しい雰囲気はまるでなかった。


『慣れない無茶しちゃった。やっぱ、人との関わりなんてさ、たくさんあっても辛いだけだね』


 月夜はあまりにも無感情な声をしていた。悟った風な口調や、いやに落ち着いた間のとりかたは、人間離れした人の話し方みたいで不気味に感じた。月夜はあの時から、どこかが決定的に壊れている。高校も、結局同じ学校にはいられなくて、地元の適当なところを一緒に受けたは良いものの、それっきりだ。進学して間もない頃には最低数の単位だけは確保していたけれど、二年になってからはそれもない。或いはもっと前から、彼女は壊れていたのかもしれない。

 中学に上がってから、月夜は。その気になれば、友達を作るなんて彼女には容易なことだ。ただ、それをしない方が、彼女には懸命な選択だったと思う。その行為には多かれ少なかれ、月夜を綻ばす危険性を孕んでいたからだ。それでも、彼女が他人と関わるのに理由があるなら、僕が阻むいわれもない。月夜の交友関係は間もなく拡がっていった。彼女は、僕なんかよりずっと人に順応する力がある。今までそれを駆使しなかっただけで、彼女が人を集めるのは、いわば自然の成り行きだ。僕は正直、心配していなかった。 


 ただ、月夜が居なくなる想像は、幾度も繰り返した。けれど、不安から目を逸らして、僕は、日々の流れに甘んじる方を選びとった。その方が楽だし、もしも上手くいったなら、そこにはむしろ希望だってあった。そんな、僕の半端な期待と怠惰が、月夜を潰したも同然だった。その罪をどう拭っても、結局、月夜が元に戻るわけじゃない。僕は、どうすることも出来なかった。


 彼女が居なくなるまでの五年間、僕と月夜の関係は、ある意味では進展したけれど、本質的には何も変わらなかった。手を繋いだり、キスをしたり、セックスをしてみても、愛が深まるだとか、もっと好きになるとか、そういうことは感じない。どちらにとっても、お互いがあたりまえに隣にいる。それだけの関係で、僕も月夜も満ち足りていた。


 僕は中等部の終わりに、月夜の元を訪れた。おじいさんの家には、大抵、月夜以外に人がいない。おじいさんなりに気を使ってのことらしいが、彼女の実家とよく似て殺風景な家は、刺すような空気を孕んでいるようにみえた。月夜は家に入ってすぐ、僕の体を求めてきた。彼女は、虚構を模倣したがっていた。いくつかの物語の中では、なにか有意味な風に男女が交わるシーンがある。僕たちはそのシーンの意味を知識として知っていたし、信じていた。

 その日抱いた彼女は、いつもより淡い感じがした。艶やかな髪を撫ぜ、白い頬の輪郭に指を滑らせる。首筋の脈に顔を寄せ、月夜の不鮮明な拍動を感じながら、中を推し開いていく。そうして抱いた体の細い線をなぞりながら、彼女の存在を確かめたくて、何度も名前を呼んだ。月夜は、薄らと微笑むだけだった。


「月夜、生きてる?」


 重なっているのに、足りなくてもどかしい。月夜の体を満たす自分の感触さえ曖昧なのは、どう考えても異常だった。

 月夜の瞳に問いかけた。何故、月夜がこんなに淡いのか。


「死んでるよ。わかるでしょ」


「死んでない。生きてる、ちゃんとここにいる」


 腰から胸にかけて、ガラス細工のような体躯に手を触れる。月夜の体は、死の淵から死へと跨いだ生き物のように脆弱に震える。冷えた汗が流れる。


「ほら、死んでるでしょ。夕陽は今、死体とヤってるの。こういうのなんて言うんだっけ」


「うるさい」


「怒らないでよ。別に、死んでいるだけなんだから、動くこともしゃべることもできるよ」


「君は死んでなんかいない。心を病んでるだけだから。人は、体が動いたり、心が動いたり、そうできるうちはずっと、どうしようもなく生きているんだ」


 自分で言いながら、まるで、うそつきになったような気分だった。そんな常識めいたことで、彼女が『死んだ』ということを否定できる気がしなかった。見え隠れする彼女のロジックが、僕みたいな常人の論理なんて玩具みたいなものだと、嘲笑っている気がした。


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