第15話 双頭

 最初に変だと思い始めたのは会社でのことだ、と友人は言った。仕事中に常に誰かに監視されているような視線を感じるのだと。

 ひとりになったとき、思わずそれを感じて振り返っている。そこに誰もいないことを確認して、始めて異様な雰囲気に背筋が凍るような気持ちになる。そんなことを何度も繰り返したらしい。

 ある日の深夜、夜食を買いに独身アパートを出た。電柱からぶら下がった裸電球の薄暗い一本道をひとりでとぼとぼと歩いていると、ふと耳の片隅に変な気配がする。

 振り返ろうとして、彼は愕然とした。なんと、すぐ横にもうひとつの顔があったのである。

 彼は大声を出して、腰を抜かした。あまりの恐怖で心臓が止まりそうになったが、勇気を振り起こしてよく見ると、それは自分の顔である。首が、片側の肩からにゅっと生えていて、それをすぐ横で見ているのだ。まるで肩口に鏡を立てたようにも思える。

 昔の外国映画にひとつの体に首がふたつついている「双頭の男」という化け物の話があったが、それが現実になったと思えばいい。もちろん暗闇の中で、もうひとつの自分の顔が、耳と耳をくっつける距離にあって普通の神経でいられるはずがない。彼は半狂乱のようになってアパートへ駈け戻った。


 彼から最初の電話があったのはその夜ことである。

 呪われているのだろうか、と彼は今にも泣き出しそうな声を出した。

「で、相手はどんな様子なんだ?」

「おれに気づいていないようだ」

「人に見せたのか」

「バカな、こんな無様な姿を人に見せられるわけがないだろう」

 今だにひとり暮らしであるということが、明らかに災いに拍車をかけている。おそらく、このままでは精神が際限なく内向していくばかりだろう。

 が、その狂乱も日がたつにつれて徐々に落ち着いてきた。最初は、首が消えたり現れたりしていたが、だんだん現れている時間も長くなり、慣れてくると、恐怖もあまり感じなくなってきたのだという。

 しかも実害があるわけではない。空気のように、そこに首があるだけなのである。だが、いつまでもこの状態のままというのは鬱陶しいことには違いないだろう。

 幽体離脱のできそこないだろうか、と彼は思ったそうだが、私はノイローゼだろうと考えている。一人でいるときにしかそれは現れないというからである。それにもうひとつの自分の首とコミュニケーションが取れるわけでもない。

 つまり、幻なのだ。

「ドッペルゲンガ-という現象を知っているか?」

 と、彼が受話器の向こうでそうも尋ねた。部分的ドッペルゲンガ-とでもいうべき現象ではないだろうか、というのだ。

 もちろん知っている。ドッペルゲンガーを目撃するのは、死の直前であるとも聞いたことがある。だが、もともとそれは西洋から来た迷信の類に過ぎない。

 もっとも、そういう根も葉もない迷信に関連付けようとすることからして、精神がかなり衰弱してしまっている証拠だったのであろう。

 

 友人からの電話は毎日のようにかかってきた。

 そのうち、ふと私は電話の向こうの声が妙に虚無的で、いやに投げやりな話し方になってきたのに気がついた。そしてある日、彼はついに自殺を口に出し始めたのである。いよいよノイローゼがひどくなってきているのだ。

 早いうちに、一度会って話をしなければならないな…と、そう考えていた矢先のことだった。

 その夜も、彼から電話がかかってきた。だが、声の調子がいつもとぜんぜん違う。

 なんと電話口の相手は、もうひとつの首が現れた話を最初から始め出したのだ。まるで今初めて、私に電話をかけてきたかのように……。

 私は、そこですべてが分かったような気がした。つまり、今の声の主はまったく別人格なのである。この「双頭の男」の正体は、明かなニ重人格だ。ひとつの人格がもうひとつの人格を幻影として見ていて、分裂した人格がそれぞれを意識するという奇妙な関係になっているのだ。

 ただ、今回の人格が、前の人格と違うところは、もうひとつの首に体までのっとられてしまっていることである。体をのっとられた方は、もうひとりの自分のすることを横から観察するしかない。

 しかも、別の自分は明らかに自殺を考えている。彼はそれを見ながらにして、止めようがない、というのだ。

「それにしても、体を乗っ取られてなぜ、電話することができるのだ?」

「今やつは眠っている。体を操れるのはその時だけだ。今度目を覚ました時、やつは自分の命を絶とうとするだろう。やつの体は俺の体なんだぞ。わかるだろ」

「事情はわかった、とにかく今は下宿にいろ。すぐいくから」

 まだ、最終電車に間に合うはずである。受話器を投げ出すようにして、私はすぐさま自宅を飛び出した。

 一刻を争う事態になっているようだ。すぐにでも友人に会って、症状がひどければ今夜の内に親族を呼び出し、今後の相談をしなければならないだろう。早ければ明日、それなりの病院に連れていくことになるかもしれない……。 

 友人の町の駅に降り立った私は、同じ事ばかりを繰り返し思いながら、全力で駈けた。




「おい、いるのか!」

 友人の下宿の前で大声で叫ぶと同時に、私は友人の下宿のドアを力いっぱい開け放った。

 一瞬目のくらむような明るさ。畳の上に、赤い血が点々と落ちているのが分かる。包丁が、そこに投げ出されていた。部屋の真中に友人が片耳を押さえてうずくまっている。その手が血に染まっていた。

 遅かったか…私は唇をかんだ。

「大丈夫か」

 無我夢中で駆け寄ったが、妙なことに友人は笑っていた。ついに気が狂ったのか。

「ああ、大丈夫だよ。やつは消えたよ」

「どうしたんだ。いったい何があったんだ」

「やつは本気で自殺しようとしやがった。庖丁を持ち出して、腹を刺そうとしたんだ。だが、体はあいつに操られていうことを聞かない。それで、俺は最後の手段を使ったのだ」

「最後の手段?」

「――横向きざまに、あいつの耳たぶに噛り付いてやった……」

「なんだって!」


 ……というわけで、友人の片方の耳たぶは根元から千切れてしまった。本当は誰に噛み切られたものなのか、私には今だに不思議で仕方ない。

 だがその後、幸いにしてもう一つの首が現れたという話は聞かないのである。

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