第12話 首の男
信じてもらえるだろうか、こんな不思議な話。
それは、ある夏のこと、仲間たちと海水浴へ行った時の体験談である。
スイカ割や花火大会も終わってしまった最後の夜に、僕はひとりで民宿を出て、夜の海にボートを浮かべた。特別な女の子と二人で乗る予定で、春先に量販店で買った二人乗り用のゴムボートだったが、結局、そんな彼女などできはしなかった。
夜の海は油を流したように黒く光って、とても静かである。僕は、手に取れるほど近くに見える大きな満月に向かって、時間を忘れるほどいつまでも漕いで行った。それから、適当なところで海面からオールを抜き、ボートいっぱいに大の字になった。
海面はどこまでも穏やかに凪いでいて、時おりそよぐ潮風がやさしく鼻を撫でていった。狭いボートからはみ出た両足の先が水をすくってくすぐったい。満天の星に抱かれるように漂っていると、まるで天国の海に浮かんでいるようだ。
ああ、気持がいいなあ……僕は思わず呟いた。
今年の夏も、たいした思い出はできなかったけど、まあいいや。
もちろん、ひとりで夜の沖に出て行くことに何かの意味があるわけではなかった。夏の終わりの余韻をひっそりと味わいたかっただけである。
――どのくらいの時間そうしていたのだろうか。
しばらくの間、その格好で眠っていたのかもしれない。星空は何の変化もないから、目を開けても時間の経過などさっぱりわからない。相変わらず、同じ海の上である。
しかし、何気なく視線を海面に落した時、僕はそこに奇妙な突起物を見つけて、思わずわっと叫んだ。よく目を凝らしてみると、ボートの縁からすぐ手の届く海面に、人の頭部が突き出ているのである。
こんなところまでひとりで泳いで来たのか。驚くよりも、そのことがまず不思議に思えた。
「こ、こんばんは……」
僕はその首に恐る恐る声をかけた。すると、相手は心から安堵したような声を出した。
「ああ、よかった。助かった」
中年の男のようである。僕は海面に向かってさらに尋ねた。
「一体どうしてこんな沖で泳いでいるんですか。しかも真夜中に……」
「泳いでいるのではありません。溺れているんです。助けてください」
しかし、どう見ても溺れているようには思えない。手足をばたつかせていないし、声の調子はあくまでも冷静だったからだ。まるで、海面の上にひょこんと頭だけが乗っかっているようにしか見えないのである。
「驚かれるのは無理もありません。実は私の体ははるか海底に転がってるのです。ギャングの抗争に巻き込まれて、手足を鎖で巻かれて海に放り込まれてしまったのです」
「でも、ちゃんと顔が浮かんでいるではないですか」
「それは私がろくろ首だからですよ」
意外な答えに、僕は絶句した。
首の男は顔を悲痛に歪めて話を続けた。「精一杯、海面まで首を伸ばして生き長らえているのです。その間、ずっとつま先立ちしているので、それももう我慢の限界になってきました。海の中は結構流れが強いし、時々魚が伸びきった首にぶつかって、これが痛いのなんの。とにかく、早くそのボートに乗せてくれませんか」
そんなこと、突然いわれてもにわかに信じがたい。僕は手を肩まで海に突っ込んで男の体を探ってみた。
なるほど、あごから下を撫でおろしてみたが、一向に肩にぶつからない。どこまでも首が伸びて、海の奥底まで続いているようである。
考えてみれば、深夜、海の沖でろくろ首と遭遇して恐怖心が湧いてこないのが不思議である。人懐っこい語り口もその理由のひとつであったろうが、実はすでにこの時、僕は相手の術中にはまり込んでいたようである。ほとんど、何の疑いもなく、早くこの首の男を助けなければならないと、気が焦った。
「しかし、海底まで潜って鎖を切るわけにはいかないし、どうしたものだろうか」
その心の逡巡を読み取ったかのように、男が答えた。
「私の頭をしっかり持っていてください。首を縮めて体を引っ張り上げますので」
なるほど、頭を拠点にして首を縮めれば体が浮いてくる。あまりにも当たり前の話だった。
僕はすぐに両手を海面に伸ばし、男の頭部を抱かかえるように掴んだ。しばらくすると、首の収縮するような感触がぐんぐんと腕を伝わってきた。
「ああ、見えてきました」
体がゆらゆらと揺れながら水面に向かってくるのがわかる。
まさに胴体が繋がろうかという時、僕は思いっきり頭を引っ張った。
が、それが間違いだった。すぽんという大きな音をたてて頭が胴体から抜けてしまったのである。僕は反動でボートの上に仰向けに転がった。
慌てて海面を覗くと、今、手の届きそうなところまで来ていた胴体が再び揺らめきながら沈んでいくのが見えた。
が、首はちゃんと両手の間に残っている。しかも、仰天のあまり大きく見開いた両目が何度も瞬きしていて、それで死んでしまったというふうではない。
僕はそっとその首をボートの上に降ろした。
「す、すみません。失敗してしまいました」
僕は心から詫びた。しかし、首はそのことを責める風でもなかった。
「いや、気にしなくてもいいよ。俺の頭と体は幽霊体で繋がっていただけで、本当の姿はこの頭だけなんだ。海に沈んだ胴体は、代わりを探せばいいだけのことさ」
「代わり?」
「そう、君が代わりになってくれればいいんだよ」
僕はこの時になって初めて、首の口の利き方がとてもぞんざいになっているのに気がついた。
と、同時に体が痺れてしまって、自分のものではないような不思議な感じに捕らわれていた。どうやら、首の男のマインドコントロールに操られてしまったようなのである。
気づくと、僕はボートの底板から自分自身を見上げていた。フラッシュのような閃きが頭の中で何度も点滅し、その度に、視点がくるくると入れ替わった。意識が首の男と同化していくようだった。
体を乗っ取られてしまうかもしれないという恐怖が、僕の心を一杯にした。
だが、それもしばらくすると、細くはかなくなってきた。
「俺の頭を掴むんだ。そして、お前の頭の上に乗っけろ。メスのかまきりがオスの上に乗ってそうするように、お前の頭を食ってしまえば、残った体は俺の物だ」
その声がだんだん遠くに聞こえている。
僕は両手を伸ばして、下に置いた首を掴もうとしている。抵抗も出来ないし、抵抗する意思さえおぼろげになっていた。もはや、僕は完全な操り人形だった。
その操り人形の手に、ずっしりとした丸い重みを感じた時、目の前が真っ暗になった。
「馬鹿野郎。どこを掴んでいるんだ」
けたたましい叫び声で、僕は瞬間的に意識を呼び戻された。
「目の上を掴んでどうする。前が見えないじゃないか」
今まさに、男の首を高く振りかぶって、自分の頭の上に載せようとしていたところだった。男はさらに大きな声を出して、僕に命令した。
「手を放せ、この馬鹿。ちゃんと持つんだ」
と、同時に、あっという悲鳴が聞こえた。僕はいわれた通り、両手を離していた。
どぼんという水の音で、僕の意識は完全に元に戻った。
弾かれたようにボートの縁にすがって、海を覗き込んだ。
丸い物体が左右にふらふらと揺れながら、底知れぬ暗闇の中に向かって、どんどん小さくなっている。その首は目をむいて何かを言おうとしているようだったが、それももうわからない。なにしろかすかな月明かりの中では、その残像も一瞬のまばたきにすぎなかったのである。
今思い起こせば、夢か幻のような出来事だった。
万に一つの偶然に救われて、僕は今もこうして自分自身でいられる。もちろん、それから何度新しい夏が来ても、海へ行こうという気にはならない。ひょっとしたら、あの首の男が今も海の中で、僕の事を執念深く待ち続けているかもしれないからだ。
文字通り、首を長くして……。
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