第10話 存否の恋
朽ち果てた研究室の扉を開くと、突然かび臭い匂いが鼻を突き、吉田はくしゃみをがまんできなくなった。部屋の中は、じめじめとした陰湿な暗さである。
外からの光にまぶしそうに目を細めながら、多羅尾博士が振り返った。
「風邪でもひいたか」
言いながら、入ってくるなりくしゃみを連続させている友人に、ティッシュの箱を投げた。吉田は答えない。質問をするのは、こちらの方だと思っている。
吉田は大きな音を立てて鼻をかんだ。
しばらく見ない間に、多羅尾はますます痩せて、その外見は決して健康的なものだとは思えない。
「急用だというから仕事を休んで来たんだ。心配しているんだぞ」
「まあ、すわれよ」
多羅尾は実験台の上の小物をさっと片付けると、吉田を手招きした。それからビーカーの中に湯気のたった黒い液体を注ぎこみ、吉田の方に差し出した。その香りはどうやら、コーヒーのようである。
ビーカーを受け取ってはみたが、吉田はどうも口をつける気にはならない。
「さっそくだが」と、多羅尾が切り出した。「『猿の手』って、聞いた事があるか?」
「いや、初めて聞くが……」
「文系にしては、物を知らないやつだな」
多羅尾と吉田は学生時代からの知り合いである。物言いも遠慮がない。
「『猿の手』といえば、怪奇小説の古典だぞ。それが実在するとしたらどうだ。すごい事だろう」
多羅尾は、実験台の上においてあった桐の箱をおもむろに開いてみせた。中には、奇妙なものが入っていた。毛むくじゃらの手のミイラである。これが猿の手だといわれれば、確かにそうとしか見えない。
「これは、古流密教に伝わる祭具として、ある古寺に代々封印されてきたものだ。古今の文献研究の結果、猿の手は世界中にあらゆる形で存在すると睨んでいたが、このとおり、日本にも現存していた。これは大発見だぞ」
「すまんが……」と、吉田は冷ややかである。
「その、猿の手とはいったい何なんだ。俺にはまずそこがわからないんだが」
それまで宙を泳いでいたような多羅尾の目線が、はっと吉田に向いた。
「W・W・ジェイコブズという作家が書いた怪奇小説によると、猿の手は人の望みを三つまで叶えてくれるという」
吉田はうんざりしたような顔になった。
「おいおい、そんな夢みたいな話、まさか科学者のくせに信じているわけじゃないだろうな。もっともそのお伽噺が真実だとしたら、これほどすばらしい宝は世界中にないだろうがな」
「宝なんかじゃないよ。不幸を呼び込む悪魔の道具さ」
吉田は怪訝そうに眉をしかめたが、多羅尾はまったく意に介さない。
「ある貧乏な老夫婦がインドを経由してこの猿の手を手に入れたが、まず、最初の願いは大金がほしい、というものだった。まあ、一般的な人間の欲望としては順当なところだろう。もちろん、彼らはこの猿の手の魔力ですぐに大金を手にする事ができた。だが、それは、遠くに住む一人息子を交通事故で無くすという不幸と引き換えだった。息子の死のおかげで多額の生命保険が手元に入ってきたのだ」
「なんて事だ」
「次に老夫婦がしたのは、その一人息子を生き返らせてくれ、という願い事だった。もちろん、彼らの大切な息子は生き返ったさ。墓の下から土を跳ね除け、醜悪な姿に変わり果ててね。その化け物が、両親の家へ帰ってきたとき、彼らは三つ目の願いを口にせざるを得なくなった……」
「ちょっと待ってくれ」
吉田はその時、ある事に思い至って、慌てて口をはさんだ。
「まさか、お前。芳江を生き返らせようとしているんじゃないだろうな!」
多羅尾の口元が引きつったようになった。笑っているのである。それは悲壮な決意を秘めた笑いだった。
「この猿の手を保存していた古寺に原始仏教の古経典が伝えられている。その一節に、『猿の手、存否を生すもの也』とあるが、『存否』とは、存在を否定されるべきもの、であると説明されている」
「何を言っているんだ」
突如、吉田の頭の中が霧に包まれたようにおぼろげになった。意識が少しずつ薄れていくのがわかった。多羅尾の話を聞いているうちに、いつの間にか、ビーカーの飲み物に口をつけていたのだ。おそらく薬が入っていたのだろう。
芳江という女性は、かつて彼らの共通の友人だった。そして、ふたりがお互いをライバルと認めて競い合った高嶺の花でもあった。
ただ、彼女は自らの意思を明らかにすることもなく、数年前に不慮の事故で他界した。その後長い間ふたりはその不幸を嘆き悲しんだが、吉田よりもさらに多羅尾の落胆はひどいものだった。そのうち彼は世を捨てるようにして、芳江の眠る地へ隠遁した。
吉田は常にそんな多羅尾の行動に心を痛めた。芳江が死んでしまってからの彼の懸念は今ではすでに友人、多羅尾の事だけになっていたのだった。
目が覚めると、吉田は後ろ手に縛られて、研究室の湿気た床の上に無造作に転がされていた。
猿の手を握り締めた多羅尾の目は、もはや焦点を失っていた。
「芳江に対する愛が、俺の方が強いのか、お前の方が強いのか、今試されるときが来たようだな。世界中のどのような不幸と差し替えにしても、俺は芳江を愛することができる。それをお前に教えてやろう」
「多羅尾、馬鹿な事は止めるんだ。芳江はすでに人間じゃない。ただのゾンビだぞ」
叫びながら、吉田は冷たい床を伝って聞こえてくる無気味な足音に気づいていた。それは、地の底から這い出してきた異形の足音だった。まさに、今ここに決して存在してはならないもの、芳江という女性に化体した化け物のものである。
吉田は、奈落に引っ張り込まれるような衝撃に、全身の震えを止める事ができなかった。その足音は、恐怖と絶望しか運んでこないだろう。
しばらくして、足音が研究室のドアの向こうで止まり、濡れ衣を叩きつけるような音がした。忌まわしい化け物が、ここへ入ってこようとノックしているのだ。
かつて、この猿の手で一人息子を亡くした老夫婦の三つ目の願いが何であるのか、今や吉田にはわかっている。だが、もはや多羅尾の理性は取り返しがつかないほど歪んでしまっていた。その老夫婦の愛情は本物ではないと、狂った激情で思い続けてきたに違いない。
吉田の腸を捩るような、やめろ、という叫びもむなしかった。多羅尾は嬉々として、その扉を開け放ってしまったのである。
そのとたん、吐き気を催すほどの腐臭が研究室に満ちた。
ドアの外から、泥まみれの肉塊が入ってきた。それが一歩動くたびに、腐敗ガスが漏れ、泥か、腐った肉体の一部か、または蛆虫の群れか、わけのわからないものを振り落としていった。その醜悪の寄せ集めのようなものが、変わり果てた芳江の姿だとは、どうしても考えられなかった。
その化け物を目の当たりにして、さすがの多羅尾も一瞬たじろいだ。
吉田は、その感情の動きを見逃さなかった。
「多羅尾、願いは三つだ。今、幾つ目か知らんが、もし最後があるとしたら、その願いは、彼女の存在を否定する事だ。わかるな、消えろと願うことだ」
多羅尾は吉田を振り返りもしない。一つ目は、芳江を生き返らせること、そして二つ目はその芳江が彼のことを未来永劫愛するようになること。三つ目は、彼女を元の美しい芳江に戻すことだった。が、その前に、いかに自分の愛情が強いものだったか、ライバルの吉田に見せつけなければならない。
その一時の優越感を味わうことこそが、多羅尾の最大の目的だった。
多羅尾は、吉田の目の前でまずその化け物を抱擁した。
「あら」
と、芳江の声が肉隗の奥から聞こえた。
「これが、願いをかなえる猿の手なの?私の願いを言ってもいいかしら」
多羅尾が気づいたとき、猿の手はすでに化け物の手の中に移っていた。
「その化け物から猿の手を取り返すんだ」
吉田は叫んだ。
なんてことだ、化け物の願いなんて、もしあるとしたら、ただひとつに決まっている。
……が、すでに遅かった。
ほどなくして、地上の生き物はすべて死に絶えた。
存否たちの支配する世界になるのにそれほど長い時間はかからなかった。
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