第3話 学閥

権田原泰三は、高等裁判所の裁判官を経た後、弁護士として独立して数々の有名事件を手がけ、現在では、司法界における実力者としてその名を知られている。裁判官としては、まだまだ経験の浅い森末にとってはかつての上司で、雲の上の人でもあった。

 二人の間には、鍋がぐつぐつと滾っている。森末は、その鍋越しに手を伸ばして権田原に酌をした。

「お久しぶりです」

「いや、君の活躍はいろいろな方面から耳に入っているよ」

 森末は恐縮していた。

 しばらくの間、地方裁判所勤務時代の思い出話で座が盛り上がったが、権田原の様子がどうも釈然としない。

 久しぶりに鴨鍋をおごるから、一緒に食べに行こうよ、といってこの料亭に誘われたのだが、森末は、その権田原に他意があるとは思いたくなかった。もっとも、このような料亭で裁判官と弁護士が同席するという事は、プライベートな用件以外にあってはならないことである。

「ところで……」

 アルコールも程よく体に回ってきた頃、森末の不安が現実になった。権田原の話題が突然変わったのである。

 彼は、この酒席の本当の理由を話し始めた。

「君が今手がけている、藤澤医院の医療過誤事件のことなのだが……」

 森末はうろたえた。

「権田原先輩、それは聞かなかった事にしていただけませんか。私は裁判官、あなたは弁護士。これ以上そのことに触れると、法律を犯す事になりますし、何よりも司法に携わる者として、倫理に著しく欠ける行為になります」

「それはわかっている」

 権田原は厳しい口調で言い切った。

「わかっているが、世の中というものはそういう杓子定規だけで動くものじゃない。君も知っている通り、藤澤医院の、藤澤先生は我々O大学青葉寮の先輩に当たる人だ。君も同じ寮から出たエリートとして、横の繋がりを大切にしてはどうか、とそう言っているだけなんだが」

 特別に意識していたわけではないが、権田原は青葉寮で森末の五期先輩に当たる。医療過誤を起こして起訴されている藤澤医師が同じ大学、同じ寮の出身者であることも知ってはいたが、森末は、それらの事実が司法判断に予断を与える材料になるなどとは一度も考えた事はなかった。

「仰っている意味がわかりません。私は裁判官として、憲法と法律にのみ拘束されているだけです。当然、自分の良心に従って、どんな権力にも独立して職権を行わなければなりません」

 森末の頬が熱を帯びているのは、酒のせいばかりではない。思わず座を跳ね除けて、立ち上がろうとした森末の片手を掴んで、権田原が穏やかに言った。

「まあ、そんなに興奮することではあるまい」

「不愉快です。このような席に来るべきではなかった……」

 世の中の仕組みの中に、学閥という得体の知れない人間関係が存在することは公然の事実である。特に、O大学、青葉寮出身者という学閥はこの国の中核を動かす人々の中で、もっとも強力な連帯意識として、政経、官界、医学会などあらゆる方面で根強く存在していた。森末も当然、そのことは知っている。

 が、司法判断にまで、学閥が顔を出してくるとは……その唾棄すべき現実を目の前にして、森末はたとえようもない怒りを感じていた。

 しかし、ひとつだけ救いがないわけではなかった。森末は問題の青葉寮を半ばで退寮しているのである。彼は経済的な理由からO大学を退学し、後年、別の方法で修士資格を得、独力で司法試験に合格したのだった。だから、O大学の学閥とは無関係だと、理屈をつければつけられないわけではない。

 ところが、権田原はすでにそのことも承知していた。

「君も青葉寮では新入生歓迎コンパに出て、同じ鍋をつついた仲間のはずだ」

 それは、青葉寮名物「闇鍋」のことである。あるいは、「闇汁」ともいうが、学生達がお互いに材料を持ち寄って同じ鍋に入れて煮、灯りを消した中でそれを食う。これを称して、彼らは「同じ釜の飯」ならぬ、「同じ鍋を食った仲」といい、寮生の仲間意識を深めているのである。

 青葉寮では、「闇鍋」を学生集会の打ち上げ、あるいは大学祭、運動会などという大きなイベントとは、まったく関係無しに、突然開催する。寮生たちにとっては不意打ちのような儀式だった。

「いいかい、問題は、O大学を卒業したかどうかじゃないんだ。同じ鍋を食った仲間かどうかということだ。どうやら君は、卒業まであの寮にいなかったために、卒業の日に申し送られる青葉寮の大事な秘密を聞いていなかったらしい」

「今さらそれを聞いたところでどういうことでもないでしょう。もし、学閥とやらを根拠に、裁判の結果を変えろというのなら、それはもはや、人間の道をはみ出した行為だ」

 その時、権田原の顔が凄みのある笑顔で歪になった。

「だから、私たちはすでにその道をはみ出した仲間なんだよ」

 権田原は続けた。 

「いいかい、O大学の前身はもともと医科大学で、闇鍋は、彼ら医大生が解剖実習の後、伝統的に繰り返された儀式だった。医者という特権階級に仲間入りするためのね。今でも、青葉寮で闇鍋の材料を持ち寄るのは、医学部の連中だ。そして、その事実は、卒業と同時に、我々の変わらない繋がりを確認するために、卒業生たちに告げられる事になる。不幸な事に、君はその時に青葉寮にいなかったというわけだ」

「何のことかよくわかりません」

「世の中は、不思議なつながりを持った一部の人間が動かしている。それが真実なのだ。君にもそういう本当のエリートに早くなってもらいたいのだよ。まあ、落ち着いて鍋でも食べたまえ、頭もすっきりするだろう」

 権田原は鍋に箸を入れ、ほかほかの肉を頬張りながらうれしそうに言った。

「ここの料亭の主人も、やはり私たちの青葉寮の後輩なんだ。今後は贔屓にしてやってくれ」

「これが鴨肉ですか」

 どうも食感が違うような気がする。

「おいしいだろ、ここの肉は……」と、権田原はテーブルの上の肉をせわしなく鍋へ運んだ。

「もちろん、今回の仕入れは藤澤医院なんだけどね……」

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