第8話 上司
北野は横腹を押さえながらトイレを後にした。
やはり血尿が出た。その原因がストレスだと言うことはよくわかっている。
営業部のフロアの手前で、課長の入谷が待ち伏せするように立っていた。北野は顔を伏せて素通りするつもりだったが、僅かに遅かった。
「北野君。今までどこにいたんだ」
入谷課長は北野に近づいてきて、その肩に手を置いた。北野の全身が痺れたように強張った。
「明日の企画会議の資料はできたのかね。先に目を通しておきたいんだがね」
左手で北野の肩をぐいぐいと揉みながら、威圧を与えているとしか思えない口ぶりで入谷が言った。入谷の表情は笑っているようにも見えるが、その腹の中はいつもわからない。
肩の手を振り払ってしまいたい衝動はあっても、そうする勇気はない。北野は、もう少しです、と小さい声で答えた。
「そうか、この前のように、私に恥をかかせないでくれよ。頼りにしているよ」
そういって、入谷はもう一つの手を北野の胸のあたりに突き出した。握手を求めているのである。マネージャーとして、部下に対して親愛の情を直接的に伝える、入谷独特の表現方法だった。
ところが、彼が北野に伝える感情は常に好意とはかけ離れたものだった。
北野は躊躇したが、あっという間に右手を捕まえられてしまった。
「そうそう、君はこの前の同期会で私のことをなんて呼んでいたかねえ」
刹那、握手した掌から激痛が神経の束を伝わって北野の脳を直撃した。全身の毛穴が開き脂汗がじわりと滲んだ。
入谷は上背でも北野を圧倒している。柔道三段だと聞いた事があるが、彼は野生のゴリラのような体躯をしていた。その握力に満身の力を集中して、北野の掌を捩じ上げているのだ。
「か、課長……お願いです。手を離してください」
「どう呼んだかと聞いているのだ」
「課長と……」
「いや違う。入谷だ。私のことを入谷と呼び捨てにしていたはずだ」
入谷の表情は依然として和やかに見えたが、その目はガラスの飾り玉のように無機質で底の見えない無気味さを秘めていた。
二人は今では上司と部下の関係だが、実は同期入社である。確かに酒の席の勢いで二三回そう呼んだかもしれないが、たまに集まる同期会で口を滑らしたとしても責められることではなかろう。
が、それは常識論に過ぎない。この男は一種のサイコだ。だから常識が通用しないのだ、と北野は入谷のことを思っていた。
「申し訳ありません……」
北野は膝をついて苦痛に全身を捩った。唇を噛んで悲鳴を押さえた。
ふたりの近くを通り過ぎる営業部の連中たちは、その情景を一瞥しながらも知らん顔をしていた。自分の仕事に忙殺されているのである。
北野は彼らに助けを求めることも出来なかった。彼にもサラリーマンとしての誇りがある。ささやかな自尊心と言うよりも、それをしてしまうと自分はこの会社の一員ではなくなってしまうのではないか、という恐怖かもしれなかった。
「もう二度と馴れ馴れしい口はききません、課長」
北野が声を振り絞るようにしてそれだけをいうと、やっと入谷の手の力が緩んだ。が、握手の手はまだ解いてはくれない。
名前を呼び捨てにしたなどというのは、ただの言いがかりに過ぎない。
入谷の北野に対する度を越えた憎悪の、根本的な原因は他にある。北野は社内結婚で今の妻を射止めたのだが、入谷も同じように彼女に気があったらしい。失恋とも呼べない些細な出来事だが、自己顕示欲の人一倍強い男だけに、その思いが入谷の異常な情念をさらに歪にしたようだ。
入谷は北野の結婚式が終わると、入社以来総務畑だった彼を、社内政治力を駆使して自分の課に呼び寄せ無理やり部下にした。北野は慣れない営業部で、すぐに膨大な仕事を押し付けられた。しかも、そこでの失敗はすべて北野のせいにされ、逆に仕事の中で成果をあげることがあれば、その果実は全部入谷に取り上げられた。
「君には僕の片腕になってこの営業部を盛り上げていって欲しい」
そういう入谷の言葉の裏で、陰湿で際限のないいじめが続いている。入谷の北野に対する関係は、すべて悪意で捏ね上げられているとしか思えなかった。北野は毎日、胃にいくつもの穴を開けられるようなストレスの中にいた。
「謝るのなら最初から気をつけることだ。会社には、順列、秩序というものがあるんだからね」
「は、はい」
「その秩序を崩してしまっては、組織は成り立たない」
「その通りでした」
「ううむ、元気がないなあ。君のそんな覇気のない態度が、営業成績に全部跳ね返ってるんだ」
「――はい」
「頼むよ、北野君。そうは言っても、私は同期の君のことを片腕のように信頼しているんだからね」
「――あ、ありがとうございます……」
入谷課長の掌がやっと離れた。
北野にはもう何の言葉も出ない。そこで入谷に少しでも気に入られる笑顔を返せたらいいのだが、そういう芸当は到底出来ないことだった。
入谷はやはり薄ら笑いを浮かべながら、何事もなかったかのように北野の側を離れた。
北野は課長が見えなくなるのを確認すると、自分の右手を別の手で抱えるようにしてその場にうずくまった。先ほどの激痛が再び、彼の掌を襲ってきたのである。
入谷課長は、デスクにいる時は、右手でゴムボールを握ったり離したりして、常に握力を鍛えている。しかも、視線は常に北野を捕らえていた。その握力が何のためのものかよくわかっているだけに、北野の胃はきりきりと痛んだ。まともな精神状態でいられるはずがない。
後になって、北野の右手の小指が折れている事がわかった。
が、人にその原因を尋ねられても、彼には本当のことを答えることは出来ないだろう。家族と言う重責を抱えている以上、この不景気な時代に、職場を失うようなマネは出来るはずがなかった。上司に逆らうことはそれだけの覚悟を必要とする。サラリーマンとはそういうものだ。
だが、入谷の北野に対するいじめは、最近になってどんどんエスカレートしていくようである。
すでに愛妻との間に出来たひとり息子が、今年小学校に上がる年になった。考えてみれば、北野の辛抱も尋常ではない。あれだけあからさまないじめに何年も耐えてきたのである。だが、入谷にとってみれば、北野のその辛抱強さ、ひたむきさがかえって憎々しく感じられるのかも知れなかった。
さらに近頃、入谷の狂気じみた悪意の集中が、北野本人だけではなく家族にまで及んでいるのではないか、という不安があった。庭に干していた洗濯物が地面に落とされ踏みつけられていたり、石を投げ込まれて窓ガラスを割られたりすることが、頻発しているのである。そんな時、北野はたまに奇妙な男の影を目撃することがあった。それが入谷のように思えて仕方がない。
また以前から、妻は無言電話に苦しめられていたのだが、その頻度も急に増えた。受話器を上げると荒い息遣いだけが聞こえると言う。その度に、妻はヒステリーのようになって受話器を叩き付け泣き喚いた。
間違いなく入谷は妻や子供の身辺にまで接近し、なにやら得体の知れない動きをしている。
それを北野は、いじめを受ける者だけの第六感で感じていた。互いにそこまで話をすることはないが、どうやら妻もかつての同僚であった入谷の姿を脳裏に思い浮かべているようである。
このままでいくと、何か途方もないことが起こりそうな気がする。何とかしなければいけない、そう思う毎日がずっと続いていた。
その日も遅い仕事がやっと終わった。最後にたったひとりにだけ押し付けられた書類の整理である。
北野はほっとため息をついた。冗談ではなく、今日一日が終わり、無事に家に帰れることに、感謝の気持ちすら湧いてくる。
ビルの窓の外から、暗く垂れ下がった空が垣間見えていた。暗く雨を含んだ密雲の流れでさえも自由に思えてうらめしい。
のろのろとした仕草でデスクの上の書類を片付けながら、ふと、もうここまでかな、と北野はそう思った。
仕事をやめると、本当に家族を路頭に迷わすような結果になるのだろうか。それだけが心配で今まで何も出来なかった。だが、必要以上に悲観的に成りすぎ、恐怖と不安の囚人になっていただけなのではないのか。
そう考え始めると、これまで維持していた気力が急に萎えた。
男らしくない、と罵倒されてもしかたがない。これ以上の我慢には、精神よりも体の方がついていけなくなっている。
北野は、包帯を巻いた小指に視線を落として、さらに考えている。
後は、妻が理解して許してくれるかどうかが問題だった。
それから数日、悶々と悩み抜く日々が続いたが、北野は結局、重大な決心をした。
その決断の翌日、久しぶりの休日をゆっくり過ごし、午後から妻の付き合いでデパートに行くことにした。
売り場の外れにあるゲームコーナーで息子を遊ばせながら、妻と二人でベンチに腰を降ろした。子供たちの喧騒と、ゲーム機の生み出す適度な騒音が、北野の張り詰めた気持ちをずいぶん楽にした。辞職の話を、家庭の中で大袈裟に切り出したくなかったのである。
妻を目の前にしてこれほど緊張するのは、彼女にプロポーズした日以来のことかもしれない。
話を切り出す前に妻の横顔を伺うように覗き込んだ。ふいに、子供から視線を北野に移した妻の表情は、彼の気持ちを見透かしているようにも見える。
「――仕事を止めたいんだが……」
北野の言葉は実に唐突なものだった。
妻は驚いたような顔をした。が、それもほんの一瞬の事だった。
「いつかきっとそう言い出すと、思っていたわ」
そう答えた妻の笑顔は、すでに何もかもを許してくれているようだった。北野は、言わなくてもいい言い訳をした。
「入谷の下では、もうこれ以上我慢が出来ないんだ」
「しかたないわね。あなたは、私たちのためによくがんばったわよ」
「この不景気だ。次の仕事がすぐに見つかるかどうかわからないが、なんとかしてみせるよ」
妻は、今度は声を出して笑った。
「そんなに慌てなくても、少しはゆっくりしたらどう。タケシが小学校に通うようになったら、私もパートに出ようかと思っているのよ」
「すまない……」
妻はそれ以上は何も言わない。
北野はこれまで頭の上にのしかかっていた幾重もの霧が一気に晴れたような気分になった。
よかった。
北野は妻の気持ちに心から感謝した。
が、その妻が突然、弾けるように立ち上がった。狼狽して、別人のように顔色が変わっている。
「どうしたんだ」
「タケシがいないわ!」
ほんのちょっとだけ目を離した隙のことだった。
「早く探して」
「わかった、君はここで待っているんだ。心配する事はない、きっとそこらへんで遊んでいるはずだ」
狭いゲームコーナーである。タケシの姿がないのは明らかだった。その事をもう一度確認すると、北野は妻を残して、まずデパートの迷子コーナーに駆け込んだ。
しかし、事はそんなに簡単ではない。タケシがひとりで黙って親の視野の外に出る子供ではないことはよくわかっていた。北野にはタケシがただの迷子だとはどうしても思えなかった。
とりあえず店内放送を頼んだ。スピーカーの声を耳の後ろに聞きながら、北野は各階のフロアを駆け回わった。
が、やはりどこにもいない。あれだけ走り回って探しても見つからない。
店員の情報を得た。嫌がる子供を背の高い男が手を引いて歩いていたという目撃談である。
入谷かも知れない、と、北野は背筋に氷を当てられたような恐怖とともに思った。ついに息子にまで手を出したのだろうか。もし、タケシになにかあったとしたら許さない。今までただ、恐れ、逃げていただけの相手、入谷に対して、初めて怒りの感情が湧き出してくるのを北野は感じていた。
が、それは杞憂でも、被害妄想でもなかった。
汗だくになって、再び妻の待っている場所に帰ってきたとき、そこにあの男が立っていたのである。予感は的中していた。
「か、課長……」
後は息が切れて声にならない。
妻は呆然として、入谷の巨体を見上げていた。タケシが泣きべそをかきながら入谷に手をひかれている。
「北野君、こんなところで会うとは、本当に奇遇だな。この子は君の子供かな」
「こ、子供を返してくれ」
北野は、思わず叫び声を上げていた。
「何を血相を変えているんだ。私はただ迷子の子供を保護しただけだよ。まさか君の子供だとは知らなかった」
「なぜこんなところにいるんですか」
「偶然だよ。変な目で私を見ないでくれ」
妻が泣き声を上げた。
「あなた、早く、タケシを取り返して!」
入谷がじろりと妻を睨んだ。
「北野君も北野君だが、君も君だねえ。少しは落ち着きたまえ。マドンナが狼狽していたんじゃ、絵にならないだろう」
「何をいっているの。この人は何をいっているの!」
感情のない爬虫類のような目が、北野とその妻を行き来した。
ふと、入谷の眉間にわずかに力が入ったように見えた。
「幸せそうだねえ、君たちは……」
たちまち、タケシの顔が歪んで蒼白になった。紫色に変色した唇から漏れる泣き声が声にならず、うううと喉の奥を鳴らしている。
子供の手を繋いだ入谷の腕が丸太のように膨れ上がった。
「止めろ、手を離すんだ!」
その時、北野は入谷に無我夢中で飛びつくべきだった。が、膝が震えた。口が枯れてもはや声も出ないし、体も動かない。
次の瞬間、くちゃという湿った音がして、タケシの目がひっくり返った。そのまま首を垂れ、骨を抜かれた食用肉のようにだらりと垂れ下がった。
「ほら、受け取れ」
入谷は、タケシの潰れた掌を握り締めたまま、体ごと前へ突き出した。
横に立っていた妻の膝ががくんと折れた。彼女にとっての限界はここまでだった。
北野は、デパートという衆目の中で、大切な家族を、たったひとりの男にどこまでも無残に扱われた。しかしその時、彼にできたことは、ただ、ひたすら妻と子供の体を抱きしめていることだけだった。人に助けを求めることも出来なかったし、すぐに医者を呼ぶことも忘れていた。
「どうして……」
――理由などない。
そういったのか、いわなかったのか。悪魔のように笑いながら、入谷は消えた。
残された北野は、自分の弱さをひたすら呪った。
数日後、北野は、いつものように、トイレを後にした。
やはり、今日も血尿が出た。が、その血尿を思いっきり出し尽くした。
思ったとおり、営業部のフロアの手前で、課長の入谷が、待ち伏せするように立っている。北野は入谷を正面に見据えて、立ち止まった。
「北野、今までどこにいたんだ。またトイレに逃げ込んでいたのか」
北野はその皮肉に無言で答えた。
入谷課長は北野にさらに近づいてきて、その肩に手を置いた。北野の全身が緊張して、ぴりぴりと震えた。
左手で北野の肩をぐいぐいと揉みながら、威圧を与えているとしか思えない口ぶりで、入谷が言った。
「企画資料を無くしてしまったそうだが、私に恥をかかせたまま、仕事を続けるつもりなのかね」
「今、辞表を提出してきました」
「……ほう」
入谷は感心したような声を出した。にやにや笑っている。
「それで、今日はいつになくすがすがしい顔をしているんだな」
「最後に課長にお聞きしたかったのですが、やはり私のことを憎んでいるんですか。もしそうだとしたら、はっきりと理由をいってもらいたかった」
「別に憎んではいないよ。君が何を不満に思っているのか私にはわからないよ」
「……」
「だが、会社を辞めたからといって、これで終わりだと思ったら大間違いだよ、君はどこまでも私の部下だ」
入谷は舌なめずりをしながら、もう一つの手を、北野の胸のあたりに突き出した。いつものように握手を求めているのである。
「さあ」
北野は躊躇する間もなく、あっという間に右手を捕まえられてしまった。
「君には私の片腕になって、ずっとこの会社でがんばってもらいたかったんだが、残念だったね」
「片腕……」
北野が呪文でも唱えるように、口重く答えた。
「そういう意味でしたら、私も大切な片腕を無くしました。その手術のために辛い思いもしました」
入谷の表情から笑いが消えた。
「これも課長のおかげですよ」
「ひいいいー!」
途端に入谷が信じられないほど無様な泣き声を上げた。
全身を捩って、握手した手を振り解こうとしたができない。北野のすべての指が第一関節まで入谷の手の甲にめり込んでいるのである。
「な、なんだ、この手は……」
「貯金をはたいて義手を買いました。普段ならたまごを掴むような芸当も出来るんですがね……」
北野の表情には、すでにいつもの怯えがない。
「……助けてくれ」
「もっと大きい声で言わないと聞こえませんよ」
「た、助けてー!」
北野はさらに力を加えた。
次の瞬間、入谷の右手が破裂して、果汁を散らすように鮮血が飛び散った。
大量の返り血を浴びながらも、北野の表情は、信じられないほど冷ややかだった。入谷の右手首から下はもはや形をなくしている。
「なれない義手で力の調節がまだできないもので、たいへんな失敗をしてしまいました。申し訳ありません」
入谷は蹌踉として二三歩後ずさると、自らが作り出した血溜まりに足を取られてひっくり返った。後はただ床の上で、悲鳴も出せずにのた打ち回った。
昼下がりのオフィスは騒然とした。周りの誰もが悪夢の中に叩き込まれたように呆然として、俄かに次の行動が出来ない。
北野だけが、凝然とそれを観察していた。
「あなたが今まで私にやってきたことの理由が今わかったような気がします。こうやって人を見下ろすって、とても気分がいいもんですね」
もう少しこの負け犬と付き合ってやるのも面白いかもしれない。
北野の中に、甘く、うきうきするような不思議な感情が込み上げてきた。
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