第9話 呪いの樹
ひどい失恋だった。救いようのない絶望が、美佐の感情を麻痺させた。
そのうち絶望は憎しみへと変化して心を蝕んでいき、最後には、タカオに対する復讐心だけが残った。
その夜、美佐はたった一人で樹海の中に分け入った。彼女の儀式は絶対に他人に見られてはいけないものだった。
樹海は日中でも光を通すことがなく深閑として、どこまでも陰鬱な死臭の漂うような世界である。実際、数え切れないほどの命がこの中で消えていったが、その事実さえも多くは闇の中に消えた。。
美佐の姿は奇妙である。
素足のまま純白の着物に身を包み、二本の蝋燭を白い鉢巻でしっかりと頭にくくりつけて、手には呪文のようなものを彫り込んだ小さな玄翁と、わらで作ったひと型を持っていた。頭から照らす蝋燭のわずかな明かりは、彼女の歪んだ顔を地獄から来た鬼のように浮かび上がらせていた。
もちろん、恐怖心さえもすでに無くしてしまった彼女に、自分のしていることを冷静に判断できるはずはない。ただ、抗いがたい狂気が彼女を突き動しているだけだった。
足元はおぼろげだったが、しばらくすると美佐は迷うことなく地図通りの場所に出た。その地図には「呪いの樹」の在処がはっきりと書き記されてある。彼女が全財産をはたいて呪術師から買い取ったものだった。
まさに今、美佐はその呪いの樹を目の当たりにしていた。
樹齢も測れないほど、古く鬱蒼とした大樹である。暗闇の中での僅かな灯りでは、全貌はわからない。だが、その幹には数え切れないほどの傷跡あり、五寸釘や朽ちたわら人形が点々とぶら下がっているのがわかった。
美佐は木肌を撫でるようにしてそれを確認すると、持参したひと型を目の高さに構えた。五寸釘を懐から取り出し、ひと型の中心に当てて、おもむろに玄翁を振りかぶった。
ひと型は、タカオの分身である。
次の瞬間、そのひと型は「呪いの樹」にしっかりと釘で縫い付けられた。こーん、こーんという響きが、まるで悪魔の悲鳴のように、いつまでも樹海の湿った空気を震わせた。
これで、確実にタカオの命は絶たれたはずだった。
呪術殺人……それが、愛憎の果てに、美佐が自ら出した答えである。
美佐が生きている目的はただひとつだった。タカオが死ぬのをその目で確認する事である。
ところが、彼はなかなか死ななかった。
タカオの通勤路に身を隠して何日も見守ったし、時には無言電話で彼の声を聞き、気配を窺った。が、数日が過ぎ数週間が過ぎても、タカオは一向に死ぬ様子がなかった。それどころか病気になったり、事故にあったりする不幸もないようだった。
もちろん、呪術師に問いただしてもみた。すると、呪術師は、
「そんなはずはない。あの樹の魔力は絶対である」
と反対に怒りを露わにし、取りつく島もない。
美佐は途方にくれた。
彼女は、未来を引き換えにするほどの大金を払って、あの地図を手に入れたのである。今さら騙されたなどとは考えたくはなかった。
再び、美佐の果てしない感情の浪費が始まった。
タカオに対する憎しみは、一人暮らしのアパートの部屋で際限もなく攪拌され、その渦の中で、さらに何ヶ月もの時間が無為に過ぎていった。
そしてある日の昼下がり、ついに美佐は、この世から自分を完全に消してしまうための準備を始めた。もはやこれ以上生きていても仕方がない、と思い尽きたのである。
後に残ったのは、身の回りの簡単な整理に過ぎなかった。
彼女がその作業を淡々と進めているとき、ふと、部屋のドアを叩く者があった。
他人に顔をあわせるぐらいなら、今すぐ窓から飛び降りてしまったほうがいいかもしれない。彼女は発作的にそう考えたが、まだ、タカオに対する怨みを書面に残してもいないことに気づいた。いつ死んでもいいと思ってはいるが、煩わしくても、そういう形式だけは揃えておきたかった。世の中に未練を残すような演出をするのも、タカオに対する当て付けとしてきっと効果的であるに違いない。
そんなことを考えている間にも、
「申し訳ありません。このドアを開けていただけませんか」
という声がする。男の声だった。
ドアまで行くのが言いようもなく億劫だった。だが、それ以上に目の前の面倒な出来事を早く片付けてしまいたかった。
「なんでしょう?」
彼女はやっと声を搾り出した。ドアの隙間を作りながら、目だけを外へ向けた。
水牛のように妙に四角い顔面をした、中年の小男がそこに立っている。
「私はこういう者です」
男は言いながら、美佐が顔半分を覗かせた隙間から、折れ曲がった名詞を捻り込むように差し込んできた。
思わずそれを受け取ったが、目をそこに落とす気にもならない。美佐はその手を背中に回して、名詞をうしろへ投げ捨てた。
「押し売りならお断りよ」
「いえ、違います。一言お礼がいいたくて……」
「お礼?」
「あなたは、私の命を救ってくださいました」
だが、美佐にはまったく覚えがないことだった。
人に対する憎悪だけで、かろうじて生き長らえているのである。今ではその憎悪は、世の中のものすべてを憎む気持ちにまで大きくなっている。例えば今、すぐ目の前で自殺をしようとする他人がいたとしたら、彼女はためらわずに、その行為の手助けをしてやることだろう。
「どういうこと、あなたなんかに会ったこともないわ」
男はその言葉を無視するように、まったく一方的にしゃべった。
「あなたに一刻も早くお礼がしたかったのですが、その機会をずっと図りかねていたのです。実は、私の本意はそのことではありません。あなたを遠くから見守っているうちに、私の心の中で、あなたのことをさらに知りたいと言う欲望が涌いてきたのです。失礼ながら、今のあなたがどういう気持ちでいらっしゃるか、私にはわかっているつもりです。あなたを捨てたあのタカオという男は、犬にも劣る畜生です。もうこれ以上、あんな男に関わるのはやめてもらいたい」
美佐は混乱した。何がなんだかわからなかった。
男は、ドアの隙間から、今度は豪華な花束を差し出してきた。男の決心を秘めた荒い息遣いが、美佐の耳に伝わった。
「――今ではあなたを愛しています」
男はそういうと、突然両目を潤ませた。
「私の一生をかけて、あなたを幸せにしたい。お願いです、このドアを開けてください。もし、あなたが今、絶望の淵にいて、最悪の選択を考えているのなら、どうか思いなおしてもらいたいのです」
その熱い気持ちは、美佐の胸に確実に伝わってくるようだった。男は、やさしさと誠意を込めた目をしていた。その瞳に嘘があるとはどうしても思えなかった。
いつの間にか、美佐はドアを開け放ち、男を部屋に迎え入れていた。
「ありがとうございます」
「わからないわ」
美佐は不思議だった。彼女がなぜ男の命を救ったかと言うことである。
「それは、三ヶ月前でした」
男は慇懃な物腰でソファーに座り、さらに話を続けた。
「私は趣味の山歩きを始めたばかりでした。その日、きっと初心者の気の緩みがあったのでしょう、尾根から尾根に亘る縦走の途中、いつの間にか集団からはぐれ、道を失ってしまったのです。私はそのまま遭難し、数日の間、山中を彷徨いました。空腹のため体力も限界に達し、絶望でわずかな気力さえも崩れそうになった時、あの音が耳に聞こえたのです」
「あの音?」
「あなたがわら人形を打ち続ける音でした」
美佐はあっと小さな悲鳴を上げた。
「私にとって、あなたの白無垢は天使の姿のように見えました。激しく一途な瞳は、生きていく気力を呼び戻してくれました。もちろん、あの時、わずかな灯りの中に浮かぶあなたを見ていて、何をしているのかわからないはずはありません。だから私は樹の陰に隠れ続けていたのです。儀式が終わった後、私は無言であなたの後を追いました。私は、そうして死の淵から生還する事が出来たのです」
なんということだろう、一人の人間を確実に殺すために行った行為が、別の人間の命を救うことになろうとは。
美佐はあまりにも不思議な偶然ただ驚いていた。。
「美佐さん、今の私は誰よりもあなたのことを理解しているつもりです。どうか私の気持ちを受け取ってください」
男がテーブルの上に滑らすように差し出したのは、小さなケースである。きっと指輪が入っているのだろう。
美佐はいつの間にか微笑んでいた。自分がまだ笑い方を忘れてはいないことに気がついて、また驚いた。
「あなた……」
「――権田原……権田原正三です」
「権田原さん、お茶も出していなかったわね」
美佐は穏やかにそう言うと、すっと立ち上がった。
タカオが死ななかったのは、あの儀式を人に見られていたからだった。復讐に絶望するには、まだ早かったのである。タカオに対する憎しみが、再び、滾るように溢れ出た。
もちろん、美佐はお茶を作りに台所へ行ったわけではない。
再び男の前に現れた彼女は、自然、あの夜と同じ形相になっていた。手には包丁が握られている。
愛してもいない、憎んでもいない。美佐は、そう言う男に躊躇はなかった。
「な、なぜですか?」
権田原と名乗る男は、後ずさりしながら、ただ、うめいた。なぜ……それを何度も口にした。
あの禍々しい姿を見られた事こそ、呪わしい。呪詛は無効になり、タカオは平然と日々を暮らしている。
しかし、もし権田原がブ男でなかったら、もっと違うロマンチックな展開になっていたのだろうか?
だが、それも、空想に過ぎない。もはや、どうすることもできない狂気が部屋中に満ちているのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます