第13話 約束
最後の春、バイトで溜めた金でやっと中古の軽四を買った。就職活動にも便利だと考えたからだが、世の中の不景気はどうしようもなく深刻だった。車の機動力も空振りのまま、あっという間に夏休みになってしまった。
将来の不安を感じながらぶらぶらしているわけにもいかず、結局、サークルの夏合宿に遅れて参加することにした。就職も決まらず、気晴らしのドライブしか役にたたない車に乗って、思いついたように街を離れた。
山奥を抜けて目的の合宿所に向かう途中、国道からかなりはずれた場所に、たまたまだが僕の田舎がある。両親は早くから都会に移り住んでいるから、田舎といってもそこの家を継いでいるのは叔父夫婦だった。
ふいに懐かしさが酸味になって鼻を抜けた。ついでに寄ってみよう、と誘ってみる。助手席に乗せた奈緒子は何もいわずに頷いた。
彼女は同じサークルの同期で、構えて付き合っているわけではなかったが、最近では多くの時間を一緒に過ごしていた。そろそろけじめをつけなければいけない頃だとわかっていながら、お互いにそれを言葉に出せないままでいる。僕たちは惰性の日々にどっぷりと浸かっていたのだと思う。
ろくな舗装もない谷底の細道を延々と走り、いくつもの山陰を抜けたところに、箱庭のように小さな村が見えてくる。その見慣れた景色の中に、叔父たちのすむ古い大きな家はあった。
「サトシ、大きくなったなあ」
連絡もしない、突然の訪問である。叔父夫婦は目を丸くして驚いている。
子供じゃないんだから。
いいながら朽ちたようにくすんだ大構えの敷居をくぐった。たったふたりで暮らすには大きすぎる屋敷だ。
「その人は?」
と、叔母がいつも変わらない優しい笑顔で尋ねた。
「友達」と答えると、奈緒子はぺこりと頭を下げた。
この年で、まるでガキのような口のききかただ。自分でもわかっているが、そういう接し方が彼らを喜ばせるということも知っている。
「泊まって行くんでしょう」
「いや、二三時間休んだらもう行くよ。今日中に向こうの国民宿舎でみんなと合流したいんだ」
「それなら、夕ごはん食べていけるわね」
叔父が、「叔母さんは、お前が来た早々、帰る話ばかりしている」と笑いながらいった。
ずっといてくれと、いわんばかりの愛情が溢れている。しばらく会わないうちに、ふたりともまた年をとった。それを見るのが淋しくて逆にあまり長居はしたくないな、と思う。
そこは、都会の猛暑とはまったく別世界の場所だった。
僕は広い居間の真ん中でひんやりとした畳に頬を当てて横になった。横で奈緒子が膝を崩して休んでいる。
障子を開け放した縁側から、透明な空気を通して濃紺の山々の稜線がはるかに見渡せた。雲が少しずつ厚くなってきたようだ。
「いいところね」と奈緒子。
「うん」
「叔父さんたちふたりっきりなの? 子供は?」
「いないんだ」
叔父夫婦が僕のことをいつでも自分の子供のように可愛がってくれるのには理由がある。昔、小さな子供を亡くしたせいだ。僕と同い年のひとり娘だった。
僕は立ち上がって、隣の仏壇の引き出しから古いアルバムを取リ出した。小学生まで住んでいた家だから、勝手はよく知っていた。
再び畳に転がってアルバムを開いた。その横で奈緒子が覗いた。
「昔の写真だけど、僕の写真しか残ってないんだ。でも、よく覚えているよ」
セピア色の写真の中では、叔父たちも信じられないほど若い。
「女の子の写真は処分してしまったのかもね。きっと辛かったから……」
「そうかもしれない」
「好きだった?」
「まさか、お互い小さな子供だぜ」
奈緒子の言い方がおかしくて思わず笑った。
その女の子と下の村道によく自動車を見に行った。田舎の道に車が走ることなどたまにしかないが、それを道脇の草の上に一日中座って待った。そんなことがふたりの遊びだった。
いつか大きくなったら僕が車に乗せてやる、と約束もした。そういう些細なことはよく覚えているのだが、不思議なことに彼女の名前や顔は思い出せない。
その子は、あるとき突然、行方不明になった。
村中でさんざん探したが、結局山奥で死体になって見つかったらしい。知らない車に乗ってどこかへ連れていかれたという噂も聞いた。
しかし、どうしてこんなことを今思い出すんだろう。
今となっては、それらは全部、遠い記憶の中にある。夢のようにあやふやなこともいくつかあるが、あらためて両親や叔父夫婦にそれを確認したことはない。僕の心の片隅にあるひっかかりを解くだけのために、叔父たちにとってはすでに終わってしまったことを蒸し返さないほうがいい。彼らに辛い思いをさせるだけだろう。
たまに帰ってくると、その度に心の底にたまったものを穿り出されるようなきっかけが見つかる。故郷というのは不思議なところだ。
ぼんやりとそんなことを考えていると、ふと辺りがどんよりと暗くなっているのに気づいた。
垂れ下がった空に黒い密雲が駈け抜ける。奈緒子がのろのろとした仕草で縁側に立ち、まるで呪文でも唱えるように、雨が降るよ、といった。
「ここらへんの雨はときどき鉄砲水のように激しいことがあるんだ。ぐずぐずしないほうがいいみたいだな」
スイカを盆に載せて入ってきた叔母には申し訳なかったが、碌な話もしないで慌てて食べた。厚い雲の陰が、その理由を知った叔母の横顔をさらに暗くした。
ごめん、と僕はおどけたように両手を合わせた。
「また来るよ」
「嘘ばっかり」
叔母は唇を尖らせ、すぐに叔父を呼びに出た。叔父は僕たちのために、川魚を釣りにいっていたらしい。釣果もなく慌てて帰ってきた。
「もう行くのか」
「うん。土砂降りの山道をこの軽四で運転したくないからね」
中古だが愛着のある自分の車のことをそういって笑いながら、僕は逃げるように屋敷を出た。
叔父たちは今にも落ちてきそうに低く流れていく雲を見上げながら、「泊まって行けばいいのに」と繰り返す。
ところが車の前まで来たとき、奈緒子が急に、やっぱり行きたくないといいだした。
その様子があまりにも異様だったので、見送りに出てきた叔父夫婦も驚いたような顔をしている。そのうち、ぽつぽつと雨が降ってきた。
「何いってんだ」
「この車、変なものが乗っているわ」
「変なもの?」
彼女の霊感癖がこんなときに出てこようとは思いもしなかった。僕は苛々しながらいった。
「またあれか、何かが見えるってやつか。いいから早く乗れよ。雨が強くなってきたじゃないか」
「いやよ、きっとこの近くの地縛霊だと思うわ。そうでなかったら、何かもっと危険なもの。助手席に、それがじっと座って待っているのが見えるのよ」
「僕には何も見えないよ」
「その席には乗れないわ。そこは私の座るところじゃない、彼女はそういっている」
「こんなとき何を馬鹿なことをいっているんだ」
奈緒子は霊感が強い。人はそういい、自らもそのことを認めているようだが、僕は信じてはいなかった。霊感といっても、多くは彼女のヒステリー体質が原因している。僕は冷静にそう思っている。時に見せる彼女のそんな不可解さが、僕を嫌な気持ちにさせてきたのも事実だった。
僕は構わず車に近づいて、フロントガラスを覗いた。もちろん、何もいるはずがない。ドアを開くと、黒く淀んだような空気を感じて、一瞬息ができなくなった。だが、炎天下にずっと駐車しておいたのだ。熱気が篭っているのは当然だった。
中に入って運転席に座り、エンジンをかけた。叔父が外から覗き込んでいった。
「もう少し待ってみたらどうだ。通り雨ならすぐ止むぞ」
雨脚が強くなってきた。
奈緒子はびしょぬれのまま外で震えている。叔母がその肩に傘を差しかけた。叔父が心配そうに顔を歪めてガラスを叩いた。
と、そのとき石つぶてを投げつけるような雨粒が落ちてきた。
ボンネットに落ちた雨は太鼓を乱れ打つように踊り狂い、その激しさでガラスの向うの視界が煙って見えなくなった。凄まじい雨量に一瞬鼓膜が痺れ、海中に投げ出されたかのような錯覚を感じた。
「なんだこの雨は」
戦慄はそればかりではなかった。
助手席に、黒い影がぼんやりと浮かび上がってきたのである。
一瞬で僕は理解した。
それは、あの死んだ女の子に違いない。大きくなったら車に乗せてやるよ、と僕は確かに彼女と約束した。
ドアを開いてすぐに外に飛び出せばよかった。しかし遅かった。深海の水圧に押し付けられたようにドアはびくとも動かなくなっていた。そのうち、ハンドルを握った手が瘧のように痺れ、全身の感覚がなくなっていくのがわかった。
フロントガラスの向うは滝の裏側に潜ったような大量の水流で分離され、まるで車中という狭い空間だけが切取られたように思えた。僕はそこに完全に閉じ込められた。
「助けて。叔父さんたちの子供がいるんだ。ここにいるんだよ」
僕は叫んだ。
「お前のことを私たちの子供のようにいつも思っているよ」
豪雨の中から、叔父の声がかすかに聞こえた。
「そうじゃない、女の子だよ。あなたたちの子供だ、僕のことじゃない」
「私たちに女の子はいないよ、サトシ、何をいっているんだ」
「僕が子供の頃、死んだはずだ。あの女の子だよ」
その時僕は、女の子が山で死んだことと、女の子と道路でいつまでも自動車を待っていたことの記憶が前後していることに、はっと気づいた。
「まさか……」
「昔から子供はいないのよ。私たちはふたりだけなのよ」
叔母の声がおぼろにそう聞こえて、後はさらに大きくなった雨音に掻き消された。
その間――不気味な影の塊は徐々に輪郭を整え、その異形を僕の目の前ではっきりと浮かび上がらせようとしていた。
僕はもうどこにも逃げられなくなっていた。
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