第14話 岬の選択
夏も終わりに近づいたひなびた海辺の町で、私を含めた数人の気ままな遊び仲間は、一軒の古い民宿を見つけた。
今思えば、海水浴場からその民宿に向かう道すがら、すでに私はあの僧形の男に出会っていたのである。
夏の開放感を味わい尽くそうとしている若者の集団と、見渡す限りの水平線に太陽が弱々しい赤みを落とそうとする景色の中、その薄汚れた男の存在はまったく異質な点描だった。
「え」と、私たちは男を一斉に見た。
「あそこへ行ってはいかん」
男はその言葉を二度繰り返した。すれ違いざま振り返ったその淀んだ声が、月日を経るごとに耳に残って離れない。
景色の中からすべての音が削り取られたような沈黙が流れた。蝉の鳴き声も、漁船のエンジンの音も、鳥の声もすべてが消えた。
私たちは、不思議な時間の中でしばらく呆然と立ち尽くしていた。
「あの岬だ、あそこへは行ってはいかんぞ」
言いながら、男は海に向かって指を突き出した。私たちの民宿とは逆の道の果てに、遠目で見ても高く切り立った岬が、漣のきらめきをあびてぼんやりと浮かび上がっている。
「なんだよ、クソ坊主」
誰かが叫んだ。
その声を合図にするように、再び静寂が破れた。
遠くで汽笛が聞こえてくる。蝉の声ももとの煩わしい喧騒に戻った。
なんだ、あれは……。気持ち悪いんだよ……。
という仲間の声がぽつぽつと耳に入ってきた。気がつくと、男はもう長い影だけを引きずって海に向かって小さくなっている。
悪夢から目が覚めたように我にかえると、不思議な事にもうあの男の顔も声も思い出せなくなっていた。彼女が水着の体を寄せてくると、私はその腰に手をまわして彼女をさらに引き寄せた。
私たちはどの瞬間でも、若い時間を自由放埓に浪費することだけで、何もかもが手一杯だった。だから、その奇妙な出来事は、その時の私たちにとっては、どこの町にでもひとりやふたりいるただの変人との、些細な邂逅以上の出来事ではありえなかった。現に、民宿に到着してみんながそれぞれに部屋割りを済ませた後、私はすぐ彼女を呼び出して、あの岬に行ってみようと声をかけていたのである。
あそこから見る夕日は信じられないほど綺麗に違いない。夕食前に帰ってこよう。
そう言った僕の言葉に、彼女も何の躊躇もなかった。結局、他の仲間には黙ったままで二人は外へ出た。思ったよりも、岬が遠かったのには閉口したが、日没に間に合う事が出来たのは幸いだった。いや、振り返って思えば、それがこの思いがけない悲劇の始まりだったのである。
岬は犬の鼻のような格好で、まるで空をかき割るように突き出ていた。そのさらに突端に腰ほどの高さの手すりがある。私たちはそこで夕日に近づくぎりぎりのところまで歩を進めた。おそらくそこよりも大きな太陽を見ることができる場所は、この海岸には何処にも存在しないに違いない。それは心のすべてを奪われて立ち尽くすほど見事な夕日だった。
その美しさに溶け込もうとするように、ただ黙って水平線を見続けて、どのくらいの時間がたったのだろうか。永遠のようにも思えたが、実際には日没までの時間などあっという間のことである。その前に、私には彼女にどうしても伝えたい事があった。それは、この圧倒的な大自然を背景にすることで、もっとも劇的なセレモニーになるはずだった。
私の手のひらには、この時のために準備していた物が握られている。
「実は、君に聞いてもらいたいことがあるんだ。僕は君と結……」
そういいかけて、ふと足元を見ると、想像を絶するほどの断崖絶壁である。遥かな下のほうで、波頭が轟音を立てて砕け、それが霧のように煙って見える。
何気なく視線を落としたのが間違いだった。私は、次の言葉を口にする前に、頭がくらくらするのを感じていた。
「気をつけて。ここは危ないよ」
が、次の瞬間、横に振り向いた私の視界から彼女が消えていた。
刹那、何事が起こったのかわからなかった。ただ私は、反射的に片手をかき回すような仕草で突き出していた。その指の端に、何かが触れるのを感じて無我夢中でそれを掴んだ。
彼女の悲鳴が、胸元からせりあがるように聞こえて、初めて私はその時二人に起こった出来事を理解した。彼女は足を滑らせて、崖から転落しかけたのである。私はその彼女の手首を掴み、腕一本で彼女の体をぶら下げていた。
私は、もう片方の手で、さらに二人の人間を支えるために手すりを掴んでいる。だが、掴んでいるのがやっとで、ぴくりとも身動きできない。たとえ女性だとはいえ、人間ひとりを片手で引き上げる事など到底無理であろう。
「なんてことだ!」
「た、助けて!」
だが、私にできるのことは時間稼ぎに過ぎない。脂汗が額を伝い、上を向いた彼女の泣き顔に滴る。
「誰か……」
助けを呼ぼうとしても、声が出ない。大声を出す力が、命を支える握力を消耗してしまいそうで恐ろしかった。
「大丈夫、人が来てくれる……」
その言葉か聞こえたのか、聞こえていないのか。彼女はすでに私の絶望を敏感に読み取っていたのかも知れないが、その私を叱責する力はすでになくしているようだった。あの端正で誰よりも美しかった顔が、死に直面した恐怖で、ますます歪んでいくだけである。
しかし、すぐに私の体力に限界が来た。
もはやこれまで、と思ったときである。頭の後から、あの声が聞こえてきた。ここへ来る前にただ一度だけ聞いた声。
「何をしている」
あの僧形の男だった。男は、まるで今、地面から涌いて出てきたかのように、私たちの忌まわしい災難を前に立ち止まっていた。
「は、早く助けてください。手を貸して……」
私はうめいた。が、二人の人間がまさに死にかけているという現実を目の当たりにしながらも、男は一向に手を差し伸べてくれようとしない。
「だからここへは来てはいけないといったのだ。ここは、怨念が渦巻く呪縛の岬。自殺者の回心を呼びかける立て看板を見なかったのか」
と、吐き捨てるように言って手を合わた。
後はただ「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、経を読むばかりである。
立て看板などに気がつくはずがないではないか。ここへ来るまで、私の頭は彼女と、彼女との将来のことで一杯だったのだから。
私は最後の体力を振り絞って、さらに泣き叫び、命乞いをした。
「自殺なんかするつもりはないんです。どうか、助けてください、助けてください」
「すまぬ。手を出すと、わしまで引きずり込まれてしまうのだ」
男は合わせた手を解いて、
「女の足元を見ろ」と指差した。
彼女の腰のあたりにひとつの顔がぼんやりと浮かんでいた。目玉のない眼窩だけの顔である。それはもはや人間ではないものだった。その化け物が、彼女の体に両手を回して張り付いているのだ。
さらに驚いた事に、その男の足元を掴んでいる、もうひとつの化け物がいた。
そして、その化け物の体にぶら下っているまた別の化け物……次から次へと、明らかにこの世の者ではない異形が互いの足首や太ももにしがみつき、鎖のように連なって海面までぶら下っている。
それは、亡者の連鎖である。崖を下って海面に没し、さらに海底のどこか永遠の彼方に、一列の数珠繋がりのように連続していた。まるで、死者との綱引き、あるいは、地獄に向かって投げた地引網を引っ張っているようなものだ。
亡者たちの尽きることのない未練のおぞましさ、生を引き込もうとする欲望に、私は悲鳴も忘れている。もちろん、無限に続く亡者の列を、私ひとりの生きた者の力で引き上げる事は絶対に出来ない。
「亡者の繋がりを断ち切る事はできない。今すぐに決めるんだ……」
男は私の顔を覗き込むようにして叫んだ。
選択肢は少ない方がいいに決まっている。もちろん、私も男と同じように、瞬時に問題をそこまで絞り込んでいた。
すでに私に残された選択は、二つにひとつしかない。
繋がった二人の手と手。彼女と私の手のひらの間には、先ほど手渡そうとしていた婚約指輪が挟まれていた。それは最後の愛の絆。
生きるか死ぬかという瀬戸際にあっては、恐怖すらちっぽけな感情に過ぎない。
「断ち斬るのは、どちらの手首だ!」
まさに男は、背伸びするようにして、不気味に黒光りする巨大な鉈を振りかぶっている。
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