第4話 夜行バスで
バスの出発時間は午後五時半。仕事が終わって駆け込むにはぎりぎりの時間である。都会の停留所で三回ほど留まると、そのまま、目的地まで夜を徹してノンストップで走る。車中で一眠りすると、もうそこは都会から数百キロも離れた山岳の別世界だ。私は週末をそこのペンションで過ごす予定だった。妻は夏休み中の子供を連れて、一足先に現地で私を待っている。
手すりに手を伸ばして駈け乗ると、すぐにバスは発車した。まばらにしか客は乗っていない。適当な席を見つけて座った途端に、汗が噴き出した。息が切れて、胸がつぶれそうに苦しい。この前駈けたのはいつだったろう。思い出す事もできない。
都会を抜ける最後のバス停で、かなりの乗客が乗り込んできた。あっという間にバスは満車になった。
この季節、夕方の六時を過ぎると早くも日がどっぷりと暮れ、窓からは景色も見えない。
一通り客が乗ると、バスの照明が少し暗くなった。後は眠るだけだ。眠っているうちに目的地に着く。問題は、すんなりと眠る事ができるかどうかだった。私は、いつも使っている睡眠薬と水筒を鞄から取り出した。
ふと気づくと、目の前に一人の男が立っている。
「ここ空いていますか」
私は頷いて、窓際へ少し詰めた。男は、コートを脱ごうともしないで、ふわりと座席に座った。若い男だったがひどく痩せていて、女性のように端正な顔だちは、近頃流行のミュージシャンのようにもみえた。
どうもすぐには眠れそうにない。私は、男に変に気を取られてしまう前に睡眠薬を飲み乾すことにした。
悪夢を見た。
ただ、その悪夢がどんなものだったのかは覚えていない。夢と現実の狭間の中から唸り声が徐々に大きくなって、目を開くとバスの中だった。その時やっと、自分が今どこにいるのかを思い出す事ができた。
唸り声は耳元から現実の音となって聞こえていた。寝入る前に隣に座ってきた若い男だ。額に珠のような脂汗をにじませて、苦痛にその顔を歪めていた。
「だいじょうぶですか」
私は思わず声をかけた。
「申し訳ありません。起こしてしまって」
「どこか痛むんですか」
「いえ、乗り物酔いです。先ほど、食事を食べ過ぎました。食べ物が胸につかえている上に、体調も良くなかったものですから」
それだけ言うと、男はしゃべれなくなった。自分の口元を指差して、何か言いかけているが言葉にならない。私はそのジェスチャーをすぐ察して、鞄の中からビニール袋を取り出した。
それを手渡すと、男はあわただしく口に近づけた。
「げげえーっ」
すさまじい勢いで嘔吐した。
ビニール袋が赤い液でいっぱいになった。なんと、男の吐いたのは大量の血である。
私は、かつて医療現場に関係する仕事に就いた事がある。その浅はかな経験からしても、これほどの血量を吐き出すような病気はいくつも思い浮かばない。そのどれだとしても、直に命に関わるものばかりである。
男は、血の入った袋の口を固く縛りながら、コートの下に隠すように入れた。
「乗り物酔いどころではない。すぐバスを止め、救急車を呼びましょう」
話し掛ける自分の声がかなりうわずっているのがわかった。ところが、男は案外落ち着いている。
「いえ、本当に構わないのです。もうじき、バスが着きますから、それまでの辛抱です。ご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした」
腕時計を見ると、午前五時になっている。そろそろ最初のバス停に着く頃だった。
すでに朝だったが、あたりはまだ暗い。だがバスのゆれ具合で、ここが田舎の道である事がわかった。
「本当に大丈夫なのですか」
「大丈夫です。ただの乗り物酔いです」
実をいうと、もし彼が死を前にした病気だとしたら、もはや手後れであろうと私は思っていた。彼があくまでも大丈夫だといい切るのなら、これ以上事を荒立てない方がいいのかもしれない。
それに話をしている間にも、男の顔つきは見る見る平静に戻っていくようだった。少し安心して、私はさらにしゃべりかけた。
「次で降りると、ご自宅は近いのですか」
「はい」
「そうですか、それならいい。ご自宅までお送りしたいところですが、私の行くのはそこからまだ二時間先のバス停ですので……」
「いえ、ご心配には及びません。ところで、こちらへは観光しょうか?」
唐突な質問に私は、ちょっと面食らってしまった。
「ええ、週末を田舎で過ごそうと思いまして」
「そうですか…」 男は、頬をわずかに崩していった。「僕は逆です。週末になると都会の喧燥が恋しくなるのです。何しろあまり人がいない田舎の山中に住んでいるものですから」
私たちの会話はその程度で終わった。それからほんの数分で、男の降りるバス停に到着したからである。
バスから降りかける男の背中に、私はもう一度声をかけた。
「いらぬおせっかいに聞こえるかもしれませんが、まず病院へ寄られた方がいいでしょう」
「ありがとうございます」
振り返った男の表情に、初めて屈託のない笑顔が浮かんだ。
そのバス停では、乗客の半分以上が降りた。窓を覗くと、男の姿は人の集団と暗闇に紛れてもう見分けがつかない。この季節、朝がなかなかこない。
バスはすぐ次の目的地を目指して走り出した。私は睡眠不足のために貧血のようにくらくらしている頭で、ふと考えた。
「ひょっとしたら、乗り物酔いというのは、本当の事だったのかもしれない」
あの時、さっきの男が笑った口の端から、糸切り歯が異様に長く、そして、あまりにも不自然に光って見えたからである。
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