疾風は歌う

 ゲイル・ウインドワードにとって、飛ぶことは歌うことと等しい。

 

 目を閉じれば、頭の先から体の隅々までが本来の形を失って、身を預けている翅翼艇エリトラと混ざり合うような錯覚に陥る。この「一つになる」感覚が、ゲイルは好きだった。人の体から解き放たれて、翼持つ船へと変貌していく。全身の何もかもが、船のために作り変えられてゆく、その感覚が。

 霧を蹴り、船体から伸びる青の飛行翅を一つ、打ち鳴らす。

 長い尾を振って、翅翼艇エリトラ『エアリエル』は一息で海の高みへと登りつめる。

 全てが白く塗りつぶされた魄霧の海は、左右どころか上下すらも曖昧だ。それでもゲイルの体になった『エアリエル』は、確かに「上」を目指して速度を上げていく。誰よりも速く、誰よりも高く。今はまだ届かなくとも、頭上を閉ざす天蓋の「向こう側」を見据えながら。

「ゲイル、聞こえるな」

「おう、ばっちりだぜ、オズ!」

 そっと耳元で囁くように聞こえる相棒の声は、普段通りの緊張に満ちていた。複座型翅翼艇エリトラ『エアリエル』のもう一人の乗り手オズワルド・フォーサイスは、何度出撃しても魄霧の海の張り詰めた空気に慣れることはないようだった。

 ―慣れるようなものでも、ないんだろうけれど。

 つい、口元が歪む。何しろこれから始まるのは、戦いだ。どちらかが霧の海の底に沈むまで続く戦い。

 それでも、ゲイルの心を満たしているのは恐怖や緊張、戦意ではない。

 この身を一隻の船と変え、四枚の翅翼を羽ばたかせて自由に飛べる、ということに対する高揚と歓喜なのだ。

 つい、唇から歌がこぼれる。歌詞のない、誰のものでもない歌。それは『エアリエル』を通してだけ聞こえる、風の歌だった。

 翅翼艇エリトラと同調する際、霧航士ミストノートの感覚も船を通した、常とは異なるものへと変貌する。特に、ゲイルが強く感じるのは聴覚の変化だ。魄霧機関の唸りが、船を叩く空気の塊が、時には行き交う機銃の音すら、一つの旋律を持った音楽として感じられるようになるのだ。

 ゲイルに音楽の良し悪しを判ずるような学はない。だが、それが快いものかどうかは、心が教えてくれる。

 翅翼が風を切り、霧を裂いて高みへと至る旋律。それこそが、ゲイルが最も快く感じる歌であった。

「前方に敵機発見。戦乙女ヴァルキューレ、『白の』ロスヴァイセが接近中」

 気持ちよく歌うゲイルに対し、オズはいたって冷静なもので、『エアリエル』の広域探知による索敵を開始している。真っ白な視界の中に、オズが分析した情報がいくつも表示され、敵機が接近していることを告げている。

 ゲイルは速度を上げながらも、ふと歌うのをやめてオズに問う。

「今日って、どうして出撃がかかったんだっけ?」

「ええ……、今更それ言うのか……? 出撃前ミーティングで散々言われただろ……」

 オズの声が明らかな引きっぷりで応える。どうやら、単純にゲイルが忘れているか、それとも話を聞こうとしなかったかのどちらかだろう。もしくは、そのどちらも。耳に入っていても全く頭に入らない事項というのは数多い。特に、酒と女と空飛ぶこと以外のことを覚えているのは至難の業だ。

「とりあえず、相手が戦乙女ヴァルキューレのねーちゃんたちだ、ってのは今わかった!」

 ゲイルとは正反対に、耳に入りさえすれば何でもかんでも記憶できるという有能な相棒は、大げさな溜息と共に言う。

「もう、お前はそれでいいよ。どうせ、相手が誰でも、俺が言うことは一緒だ」

 言葉こそ深い諦めをはらんでいるようだったが、それでいてゲイルの魂魄に直接伝わってくるのはオズの温かくくすぐったいような感情だ。それは、もしかしたら「信頼」と呼べるようなもの、だったのかもしれない。

 つい操縦席の上で身をよじるゲイルに対し、オズはいたって淡々とした調子で、翅翼艇エリトラ間通信を開始する。

「トレヴァー、回り込んで『蒼の』を妨害してくれるか」

『了解、任せて』

 どこからともなく、微かな含み笑いと共に、声が返ってくる。

 ほとんどの戦闘艇がそうであるように、翅翼艇エリトラも主に二隻一組で行動する。『エアリエル』から与えられる視界に僚機の姿は映っていないが、おそらく「そこにいる」はずだ。『エアリエル』とつかず離れず、お互いを邪魔しない程度の位置に。

 単騎で敵陣に切り込め、という無謀ともいえる指示を二つ返事で引き受けた僚機『ロビン・グッドフェロー』のトレヴァー・トラヴァースは、通信越しに甘く囁いてくる。

『ゲイル、ボクが傍にいないと寂しいんじゃない?』

「ねーよ。さっさと行け変態」

『寂しがらなくてもいいんだよ、ボクはどこからでも君のことを見つめているから。そのぴんと張った羽、しなやかに伸びる尾の先、大事なところまで全部、全部さ』

「やめろ、サブイボが立つ」

 しかも、実際にどこから見ているのかさっぱりわからないのが更に怖い。トレヴァーの駆る隠密攻撃翅翼艇エリトラ『ロビン・グッドフェロー』は、規格外の性能を持つ『エアリエル』の探知網すらも欺く隠密能力を誇っている。

 ただ、すぐ横、それこそ船体を掠めるかのように、何か―それこそ、空気の揺れすらもほとんど感じさせない「何か」が、行き過ぎたのは、わかった。

 トレヴァーは同期の中でも飛び切りの「精密さ」を誇る優等生だ。『ロビン・グッドフェロー』より遥かに速度で勝る『エアリエル』に衝突しない程度に肉薄する、という曲芸もわけなくこなしてみせる。

 その腕については文句はない。文句はない、けれど。

「そのまま戻ってこない方が俺様の心に優しいんだけどなー」

『聞こえてるよ、ゲイル』

「聞こえるように言ってるに決まってんだろ!」

『ふふ、素直になれない君もかわいいよ、ゲイル。その口をボクのもので塞いであげたいくらいに』

「オズ! 手っ取り早く、この変態撃ち落としてくれ!」

 心底からの望みを吐き出すゲイルに対し、オズは呆れた調子で「誰がやるか」と返してくる。『エアリエル』の航法士兼銃手は、どこまでも真面目であった。

「トレヴァーも。ゲイルをからかうのはいい加減にしろ」

 オズの呆れ声に対し、はいはーい、と全く反省の見えない返事と共に、今度こそトレヴァーは黙った。と言っても、通信は繋がっているから、おそらく、ゲイルが下手なことを言えば再び鳥肌ものの言葉を並べ立ててくるのだろう。トレヴァー・トラヴァースとはそういう男だ。海の上に限って、ではあるが。

 ともあれ、トレヴァーが行ったからには、こちらも仕事を始めなければならない。

 具体的には―既にすぐ目の前に迫っていた、純白の鎧騎士の相手を。

「よーう、白いねーちゃん! 久しぶり!」

 風の音色に託した旋律混じりの声は、果たして、槍を構えた白騎士にも届いたらしい。緊張と、微かな苛立ちの混ざった少女の声が魂魄を震わせる。

『来たな、ゲイル・ウインドワード……!』

 戦乙女ヴァルキューレ。それは女王国にとっての翅翼艇エリトラ同様に、敵国たる帝国の秘密兵器といえる代物だ。

 大型の翅翼艇エリトラ程度の巨大な機関鎧は、その巨大さをものともせずに乗り手の意のままに動く。また、人型であるということは、手足を持ち、それらを器用に操ることができるということだ。どのような場面でも、それぞれの場に応じた活躍ができる、というコンセプトなのだろうとオズが分析していたのを思い出す。

 そして、戦乙女ヴァルキューレもまた翅翼艇エリトラと同じく、個体ごとに性質が微妙に異なる。

 目の前の『白の』ロスヴァイセについては、ゲイルもよく覚えている。名前は今言われて思い出した体たらくではあるが、翅翼艇エリトラと違って「飛ぶ」ために洗練された形状でないにもかかわらず、『エアリエル』に追随するそのずば抜けた機動力と機体制御力は、ゲイルの記憶の中に鮮烈に焼きついている。

 自然と、口元が笑みの形になる。そんなゲイルの高揚に応えるかのごとく、『エアリエル』の唸りも一つ増したような気がした。

 誰よりも速く、誰よりも高く。そうして、遥かな高みを飛ぶことを望むゲイルにとって、自分と並び立つ者と競い合うのは、何よりもの喜びなのだ。

「オズ、俺様はどうすりゃいい?」

 相棒に形式的に問うてはみたが、答えは既にわかっている。

 ゲイルの背中を守るオズは、小さく笑った、のだと思う。耳に届く風の歌声の中に、微かな震えが混ざったから。

 そして、凛と響く声で、言い切るのだ。

「好きに飛べ、ゲイル」

 だから、ゲイルは、答える代わりに高らかに歌う。

 

 ゲイル・ウインドワードにとって、飛ぶことは歌うことと等しい。

 故に、戦場にはいつでも、疾風の歌が響き渡る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る