青と赤
白い壁に、青い絵がかかっていた。
カンヴァスの上半分は、淡い青。白い綿のようなものが浮かぶそこには、名前も知らない、形すら現実のものではない鳥が飛んでいる。
カンヴァスの下半分は、深い青。その表面には光を孕んださざなみが立ち、それがカンヴァスいっぱいに描かれた「水面」であることを示している。
そして、青い絵を見上げている「それ」もまた、青い色をしていた。
髪の色は、淡い青。短く切りそろえられたそれは、柔らかく光を含んでいる。
瞳の色は、深い青。瑠璃を思わせるそれは、大きく見開かれて青い絵を映しこんでいる。
「セレスティア」
セレスティア、という名で呼ばれた「それ」は、ゆっくりと首をめぐらせてそちらを見た。声をかけてきたのは、白衣を纏った妙齢の女だった。先端があちこち跳ねた髪をがしがし掻きながらセレスティアを一瞥し、それから壁にかけられた絵を見やる。
「その絵が、気になる?」
「はい」
わたしと同じ色ですね、と。セレスティアが言うと、白衣の女は化粧っ気のない顔で満足げに笑んだ。
「この絵はね、一人の
「夢?」
「この絵を描いたのは、今はどこにもいない
オズワルド・フォーサイス。
名前と簡単な経歴だけは、セレスティアも知識として与えられていた。第二世代
そして現在は、
「全世界を狂騒に導いた『
として知られているということ。
『
「世界の敵。そうだね、その通りだ」
女は、苦笑を浮かべて後ろ頭をばりばりと掻く。
「ほんとにね、どうして、オズはあんな馬鹿なことをしでかしちゃったんだろうね。そんな大それたことをするような奴にも見えなかったんだけど」
オズ、と呼ぶ女の声には、「世界の敵」と呼ばれた人物に対するものとは思えない親しみが感じられて、セレスティアはつい首を傾げる。
「博士は、オズワルド・フォーサイスをよくご存知なのですね」
「
黄ばんだ歯を見せてセレスティアに笑いかけながらも、詳しいことは何一つ語らず、女は改めて絵に視線を戻す。
「……オズは、まあ、何つーか、天才だったの。
その一つがこの青い絵なのだ、と女は言う。
これは、オズが常日ごろから見ていた「夢」の光景だったのだ――と。
「描いた当人のオズと、この絵が好きだった相方のゲイルは、ここに描かれたものを『空』って呼んでた。霧の晴れた空は、きっとこんな色をしているんだ、ってさ」
「そら……」
見たことのない色をした風景。それを『空』と呼んだ男の姿を想像してみる。ぼんやりとした輪郭をしたその男は、頭上を厚く覆って晴れることのない霧を見上げている。
その向こうの『空』を、見つめている。
「『いつか、霧の向こうを見て、こいつの夢が正夢だって、確かめてやるんだ』――それが、ゲイルの口癖だった。オズは私の前では何も言わないでそっぽを向いてたけどね、多分、気持ちは同じだったと思うよ」
「しかし、オズワルド・フォーサイスは」
「うん。世界の敵は、英雄に討たれて、その命を終えた」
――そう。
セレスティアの知識によれば、「世界の敵」オズワルド・フォーサイスは、かつての相棒であったゲイル・ウインドワードに討たれた。元よりゲイル・ウインドワードは最速にして最強の
その事実について、二人をよく知るのであろう女は、特に何らかの私見を付け加えるわけでもなかった。女が二人の関係に何も感じていなかったのか、それともあえて何も言わなかったのかは、セレスティアには判断できなかったけれど。
しばしの沈黙の後に、再び、女の薄い唇が動く。
「実はね、オズが描いた絵は、これが現存する最後の一枚なんだ。私が知ってる限りでは、だけど」
「最後の、ということは、もっとたくさんあったのですか」
「絵はオズの趣味だったからね。でも、オズが死んだ後、全部、ゲイルに燃やされちゃった」
それはもう、執拗なまでに。ゲイル・ウインドワードは、オズワルド・フォーサイスの描いた絵を集めてきて、まとめて焼却してしまった。それは、今からちょうど一年前、ゲイル・ウインドワードがここ、時計台を離れる直前の出来事だったという。
「何故?」
「さあね。ゲイルはへらへら笑うだけで何も語っちゃくれなかったから。でも、想像することはできる」
女の瞼が、ほんの少しだけ伏せられる。
「今のゲイルにとって、この絵を見るのは、辛いだけだったんだろうな、ってさ」
その瞼の裏には、その時の炎の色が焼きついているのかもしれない――と、セレスティアは思う。己の瞼を閉ざしてみれば、そこにあるのはカンヴァスいっぱいの青を覆い隠すほどに赤く、赤く、辺りの霧を照らす炎の色。
そんな炎の前に背筋を伸ばして佇み、金色の髪を紅に染めて、ただただ、真っ直ぐに炎を見つめる一人の男を幻視する。
女王国海軍大尉ゲイル・ウインドワード。
かつての相棒を己の手で殺し、その相棒の遺したものすらも、炎の中に葬った
――そして。
「ま、ゲイルがどういう奴なのかは、これから嫌ってほどわかるさ。心配はいらない、そう悪い奴じゃないよ。
まさにこれから、セレスティアが対面する人物でもある。
写真で見る限り、朗らかそうな男だった。事実、時計台の
ただ、そのイメージに、青と赤の織り成す陰影が、加わる。
「……怖くなった?」
うんともすんとも言わないセレスティアに、不安を覚えたのだろうか。女が問いを投げかけてくる。それに対して、セレスティアは、率直に、首を横に振った。
「いえ、怖くはありません。しかし、これからお会いするウインドワード大尉への興味は増しました」
「はは、それでこそセレスティアだ。きっと、ゲイルとも上手くやれるだろうさ」
ばんばん、と乱暴にセレスティアの背中を叩いた女は、仕事に戻るのだろう、ひらりと手を振って部屋を出ていこうとする。その背中が扉の向こうに消える前に、セレスティアは「あの」と女を呼び止める。
「何だい?」
「この絵には、題はあるのですか」
唯一、ゲイル・ウインドワードの手を逃れたというその絵は、何を語るわけでもない。ただ、セレスティアとよく似た「青」を――遠き日に霧の海に沈んだ男の夢を、湛えているだけで。
同じ色をしているからだろうか、それとも別の理由からか。
どうしても、この絵について、もう少し知りたいと思ったのだった。
女は、セレスティアと壁にかかった絵を交互に見やって、それから口元の笑みを深めて言う。
「
呆然としてその耳慣れた響きを繰り返すセレスティアに、女は、とっておきの秘密を教えるように、声を落として囁いた。
「セレスティア、君の名前の由来だよ」
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