ねつとてのひら
「ああ、フロイライン。なんと苦しげな吐息でしょう。せめて、私がその苦痛を引き受けることができたなら」
芝居がかった船長の声は、それでも普段より少しばかり抑え気味だった。流石に、寝込んでいる人間の横で大音声を上げない程度の節度は備わっていたとみえる。
コルネリア・ハイドフェルトは、自室として与えられた客室の寝台に横たわり、布団と毛布を被っていた。
朝から何となく調子が悪い、と思っていたら、突如として視界がぐるりと一回転して、次の瞬間には寝台の上にいたのだ。おそらく、倒れたコルネリアを、船長がここまで運んでくれたに違いない。
体がだるく、頭がぼんやりしていて、しかし妙な寒気が全身を包んでいるところから、熱があるのだろうと自己診断する。
――きっと、気が、抜けてしまったのだ。
熱に浮かされた頭で、それでも妙に冷静な心地で自分自身を分析する。
嵐に呑まれ、霧の海に漂う幽霊船に流れ着いてから、幾度目かの朝。
自らを「幽霊」だと称する船長との奇妙な共同生活は、決して心休まるものではなかった。幽霊船に流れ着いたコルネリアに「二度と帰れない」と言い放ち、自由になる術は死して魄霧に還ることだけだ、と螺子の緩んだ笑みを見せる男は、控えめに見ても正気ではない。
ただ、船長は狂ってはいるが、その一方で極めて紳士的でもあった。
コルネリアの許可なしでコルネリアに与えた領域に足を踏み入れることはなく、コルネリアに何かを強要することもない。ただ、日々の食事と着替え、身の回りに必要なものを用意し、求められれば船の案内をし、コルネリアの話し相手をするだけ。「お客様」であるコルネリアが船上で、少しでも快適に、安らかに過ごせるように、と。
そんな、自由を奪われながら不自由の無い日々を送っているうちに、今まで張り詰めきっていた糸が、ついに緩んでしまったに違いなかった。
寝台の横で膝をついている船長は、煤けた丸眼鏡の奥からじっとコルネリアの顔を見つめて、絶えず言葉を投げかけてくる。
「苦しくはありませんか? 痛みは? 申し訳ありません、症状を楽にできるものがあればよかったのですが、生憎、薬の類は手元にはなく……」
「……大丈夫、大丈夫だから、船長。寝てれば、治るわ」
正直に言えば、何よりも、船長の過保護ぶりが鬱陶しかった。それに、弱っているところをじっくり観察されるのもよい気分ではない。船長に悪気などなく、純粋にコルネリアを心配しているだけなのかもしれないが。
「だから、仕事に戻って。辛くなったら、呼ぶから」
仕事、といっても、船長の仕事は誰が見ているわけでもない、ただの「日課」に過ぎない。何しろ、この船の上で生きている人間は船長とコルネリアだけだ。
それでも、船長は誰に求められるでもなく、日々幽霊船を見回り、自分たちの暮らしに使う場所を汚れ一つ残さず清掃し、服の洗濯をして、食事の準備をする。その他にも彼にしかわからない「仕事」が沢山あるらしい、ということは、船の上を高らかな足音を立てながら闊歩する船長の姿を見ていれば自ずと理解できることであった。
船長がいつからそんな生活を送っているのかはわからない。そもそも、この幽霊船が何なのかも、船長が何者なのかも、コルネリアは知らない。船長が、どうして、幽霊船の船長という荒唐無稽な妄想に囚われてしまったのかも。
――実際には、ほんの少しだけ、知っていることもあったけれど。
コルネリアは、じっと船長を見上げるが、船長の顔は今日も伸びっぱなしの前髪と髭とに覆われていて、表情を読みとらせてはくれない。やがて、中指で煤けた丸眼鏡を持ち上げた船長はゆっくりと立ち上がる。
「……わかりました、フロイライン。何か必要なものがありましたら、すぐにお呼びください。私にできることは、本当に、限られておりますが」
天井近くから放たれる船長の声は、酷く苦しげに聞こえた。自分が苦しい思いをしているわけでもないのに。
この男の考えていることは、コルネリアにはどうにも理解できずにいる。
狂っている、というのもそうだが、この男がコルネリアをどうしようとしているのかがわからない。大切なお客様、愛らしいフロイライン、と船長はコルネリアを称するが、果たして、霧の海の只中に浮かぶ幽霊船にコルネリアを捕らえることで、何をしたいのか。
わからない。どうしても、わからないのだ。
船長は、部屋の扉の前に立つと、長い腕を胸の前に寄せて、優雅に一礼する。
「それでは、おやすみなさい、フロイライン」
「ええ、おやすみ、船長」
二度、三度。後ろ髪を引かれるように振り返りながら、やっと、船長は部屋を出て行った。高らかな足音が遠ざかっていって、聞こえなくなったところで、コルネリアは無意識に詰めていた息を吐き出した。
どうしても、船長と相対している間は緊張を強いられる。ぼんやりとした意識の中でも、船長に気を許してはならないと、本能が警鐘を鳴らしているに違いない。
ただ――。
『おやすみなさい、フロイライン』
いつになく柔らかかった船長の声を思い出しながら、胸元の布団を顎の下まで持ち上げる。
船長にとって、コルネリアは一体何なのだろう。
「……おかしな人」
ぽつり、と。渇いた唇で呟いて、瞼を閉じる。
ゆらり、ゆらりと、世界が揺れる。ゆらり揺られてゆく先は、いつかの寝台の上。
『いけない子だ、コルネリア』
激しい熱、そして痛みが遅れてやってくる。一つ、二つ、三つ。頭の中で意味のない数字を数えることで、余計なことを考えないようにする。
覆いかぶさる「それ」は、赤黒く染まったあの日の顔で、わらう。
四つ、五つ、六つ。寝台も、壁も天井も、いつしか真っ赤に染まっていた。
『ああ、いい声だ、コルネリア』
『今日も愛らしいね、コルネリア』
『言うことを聞きなさい、コルネリア』
何度も、何度も何度も何度も、呪詛のように紡がれる名前は、本当に自分を指したものだっただろうか。自分と同じ名前を持つ、誰かの名前だっただろうか。
どちらであろうとも、置かれた状況が変わるわけではなかったのだけれど。
たった一つ、わかっていることは。
『もう離さないよ、コルネリア』
何もかもが、この身に圧し掛かり、痛みと熱とを与える「それ」のものであるということ。コルネリアという名前も、日々痛みと熱ばかりを刻まれていく肉体も、大切なことを知ることも許されなかった魂魄も。
そうだ、何も考える必要はなかった。ゆらり揺られるがまま、身を委ねていればよかったのだ。
――本当に?
いつかの記憶、赤く染まった世界を貫いて。
『フロイライン』
脳裏に焼きつく白と、声が。
「大丈夫ですか、フロイライン?」
声が、降ってくる。
重たい瞼を開けると、船長の顔がすぐ目の前にあった。思わず「ひっ」と息を呑むと、船長もびっくりしたのかぱっと顔を離し、髭に覆われた口をぱくぱくさせる。
しばし、お互いに、言葉を失って見つめ合う。と言っても、コルネリアからは、相変わらず船長の目は見えていなかったのだけれども。
やがて、口を開いたのは船長の方だった。
「き、許可なくお部屋にお邪魔して申し訳ありません」
髪と髭とで覆われた顔が、どのような表情を浮かべているのか、はっきりとはわからない。わからないが、酷く狼狽しているのだろうな、ということは、張りを失った声と長い体を縮める動きだけで十分伝わった。
「しかし、何度お声がけしても返事が無いものでしたから、声を出せないほどの変調に見舞われたのかと、心配になりまして」
「……そう。ごめんなさい、心配かけて」
誰かが、コルネリアのことを呼んでいるような気はしていた。ただ、それも深く重たい悪夢の中の出来事のように思われたのだった。あれは、もしかすると、船長の声だったのかもしれない。
ぼんやりとする頭を揺らし、ゆっくりと上体を起こすコルネリアに対し、船長は軽く咳払いをして、それから気を取り直したようにコルネリアに語りかけてくる。
「酷く魘されておりましたが、どこか、苦しいところでもありますか?」
「いいえ、いつものことだから。気にしないで」
悪夢はいつものことだが、いつもより遥かに酷い夢だったのは、きっと、熱のせいだろう。眠りから覚めたはいいけれど、依然コルネリアの意識は朦朧としていた。むしろ、眠りにつく前よりも悪化しているように感じられる。ただの風邪だと思っていたが、思ったよりも悪い病気を拾ってしまっていたのかもしれない。
このまま、徐々に具合が悪くなって、果てには命を落とすのだろうか。
そうしたら、船長は、また、一人になるのだろうか。
一人になった船長は、これから、どのように過ごして行くのだろうか。
そこまで考えて、コルネリアは「馬鹿馬鹿しい」と断じる。船長は最初から一人だったのだから、今までと同じ日々に戻るだけだ。そもそも、コルネリアを捕らえている船長の「これから」を心配するなんて、どうかしている。こんな支離滅裂な思考も、熱のせいだろうか。
ぽつぽつと、泡のように浮かんでは消える思考を掴みかねていると、不意に、船長が口を開いた。
「少し、お顔に触れても、よろしいですか?」
躊躇いを覚えながらも、一つ、頷いてみせると、船長はコルネリアの喉元に手のひらを当てる。死者を自称するだけあって船長の体温は妙に低く、いつもは不安ばかりを掻き立てられるものだが、今日この時ばかりはその冷たさがありがたかった。
喉に触れた手は、次にコルネリアの額と目を覆うように移動する。一瞬視界がひんやりとした闇に閉ざされたが、すぐにその心地よい闇が取り払われる。
「まだ、熱が高いようですね。こちらに、熱冷ましのお薬をお持ちしました」
「……薬は、無いんじゃなかったの?」
その問いに船長は答えなかったが、その声が、こちらを見つめる気配が、いたって穏やかであったから、コルネリアも、気にすることではないのだろう、と考えることにした。単純に、熱が上がっていて考えが上手くまとまらなかった、という方が正しかったかもしれない。
「水はこちらに。これで、少しでも、楽になればよいのですが」
粉薬と一緒に差し出された金属製のカップには、透明な水がなみなみと湛えられていた。揺れる水面に、喉の、否、体全体の渇きを思い出して、喉が鳴る。
毒――という可能性が頭の片隅によぎったものの、即座に否定する。コルネリアを苦しめたければ、毒などに頼る必要もない。船長がコルネリアを好きにするのは、至極簡単なことだったから。熱に浮かされて、体が思うように動かない今この瞬間ならば、尚更。
だから、舌の上に載せた薬は酷く苦かったけれど、水で一気に流し込む。カップの中の水をすっかり飲み干してしまうと、船長が水差しからカップに水を移してくれる。まだ、微かに残っていた苦味を一口の水で飲み下し、コルネリアは船長に向き合う。
船長は、床に膝をついた姿勢で背筋を伸ばしている。手を伸ばせばコルネリアに触れられる位置にいながら、コルネリアをどうするわけでもなく。
コルネリアは、重たい頭を枕に預けながら、こちらを覗き込む船長を見上げる。視界がぼやけて、ただでさえはっきりと見えない船長の顔が、それこそ白い霧に包まれているようだ。
「ねえ……、船長」
「何なりと、フロイライン」
「もう一度、さっきの、してくれない?」
さっきの、と船長がコルネリアの言葉を鸚鵡返しにする。確かに、これは自分の説明が悪かった。コルネリアは改めて、熱で上手くまとまらない思考の中から、それらしい単語を拾い上げる。
「手を」
「ああ」
その一言だけで、船長には十分伝わったらしい。一拍置いて、船長の手がコルネリアの額から目までを覆う。瞼にぐずぐず宿っていた熱が、肌に触れた大きな手のひらへと移っていくような感覚。船長の人より低い体温と、コルネリアの普段より高い体温を、肌を通して交換するような、感覚。
「……ありがとう、船長」
「礼には及びませんよ、フロイライン。何しろ、私は――」
言葉の続きは聞こえなかった。体の中を巡る薬のお陰だろうか、それとも視界を覆う冷たい闇のお陰だろうか。今までのそれよりもずっと柔らかく温かな、眠りの霧がコルネリアの意識を包み込もうとしていたから。
けれど、不思議と。
「おやすみなさい、フロイライン」
そっと囁く船長の声だけは、
「せめて、今、この時だけはよい夢を」
確かに聞こえた、気がした。
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