ペンギン
何だか、今日は朝からオズのテンションが低い。
いや、オズのテンションが低いのはいつものことではある。朝から爽やかに笑っていることなんて、俺の覚えている限りでは一度もない。というか、そんなオズを見かけたら真っ先に医務室に引きずっていく。絶対に頭を強く打ったに違いないから。
だから、オズが苦虫を噛み潰したような顔をしているのはそう珍しくもないのだが、普段よりも更に顔色が悪いような気がして、つい、もそもそと不味そうに飯を食ってる奴に声をかける。
「どうかしたか? 何か暗えぞ」
「ああ……、ゲイル」
返ってくる声も、妙に重い。皿の上の豆をフォークで突き刺……そうとして、持ち前の不器用っぷりで何度か失敗しながら、オズは唸るような声音で言う。
「嫌な夢を見たんだ」
オズが、変わった夢ばかり見ているのはよく知っている。一度見たものを忘れられない、という難儀な「欠陥」を持つこの男は、どうも、眠っている間に浮かんでは消える夢まで忘れることができないらしい。
というわけで、昨夜の夢がどれだけ嫌だろうが何だろうが、オズはそれを克明に思い出すことができてしまう。寝てるときの夢なんて一度も覚えてた例のない俺に、オズの悩みはどこまでも理解できない。
理解できないが――、興味はある。
「どんな夢だったか、聞いてもいいか?」
「他人の夢の話なんて、面白くもないだろ。いつもの青い夢でもないんだから」
青い夢というのは、オズがよく見ているという夢で、「霧のかかっていない青い空」の光景だ。もちろん、霧の向こう側に広がる空が、本当に青いかなんて誰も知らない。知らないけれど、オズはそれを疑わないし、俺も疑っていない。
そして、その夢こそが、俺たちが今こうして
が、それはそれ、これはこれ。
「そうでもないぜ。お前が、あの夢以外にどんな夢見てるのかって、今まで、聞いたことなかったしな」
オズ――オズワルド・フォーサイスは、それこそ十年来の俺の友人で、かけがえのない相棒だ。ただ、俺がオズについて知っていることは、そこまで多くはない。俺が忘れてしまっているだけというのもあるが、そうでなくとも、オズは基本的に口数の少ない男だ。俺が話しかけなければ黙々と絵を描いているし、自分から口を開くことがあるとすれば、それは「報告」か「連絡」か「説教」なのだ。主に一番最後。
というわけで、この機会に、俺が知らなかったことを教えてもらうことにする。俺たち二人の間には「相互理解」が必要だ、これから先、お互いの命を握って霧の海を飛び続けるためにも。
……とかなんとか色々言い訳を考えてはみたが、実際のところ、この無愛想な野郎が、どんな荒唐無稽な夢を見たのか気になっただけだ。
オズは、少しだけ顔を上げて、俺を見た。長い睫毛に縁取られた紫水晶の目に、俺の姿が映りこむ。色の薄いきめ細やかな肌といい、すっと通った鼻筋といい、細く小さな顎といい、相変わらず綺麗な面をしている、と思っていると、その形のよい唇から、つくりものめいた顔に似合わぬ低い声が飛び出す。
「夢の中で、俺は――ペンギンだった」
「ペンギン」
あれだ、海辺にいて、黒くて一部白くて、ぺたぺた歩くあれだ。俺でも流石に知っている。オズ曰く鳥類らしいが、正直俺はあれが鳥であることを未だに疑っている。確かに嘴はあるが、形が鳥じゃないだろ。何か直立してるし。
俺の戸惑いに気づいているのかいないのか、皿の上の豆をフォークで転がしながら、オズはぽつぽつと、ほとんど独り言のように言葉を続けていく。
「気づいたらペンギンだった。それはもうまごうことなきペンギンだった。この時ばかりは、俺の記憶力と頭の固さを恨んだ。何しろ骨格から筋肉から羽のつき方まで、何から何までリアルにペンギンだったから」
「お、おう」
ペンギンの体の仕組みなんざ知ったこっちゃないが、言いたいことはわかる気はする。オズは、昔から何かを一から想像するのは苦手だから、夢の中でも何であろうとも、自分の持つ知識の中からどこまでも「正しい」ものを引き出してきてしまうに違いない。
それがたとえ、ペンギンであろうとも。
「ペンギンの俺は、前を歩くお前を必死に追いかけてた。だけど、当然ながら俺の足は不自由すぎて、どうしたってお前には追いつけない」
「ペンギンだからな」
「そう、ペンギンだから」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、徹底的に茶化してやりたいところだったが、「ペンギン」という言葉を呪詛のように繰り返すオズの表情はあまりにも真剣で、言葉を差し挟む余地が全く見当たらない。
「それでも必死に、何とかお前の背中を見失わないように歩き続けた。そうして、歩いて、歩いて、歩き続けて、やがて海岸線に辿りついた」
そこには、見慣れた一隻の
魄霧が寄せては返す地の縁で、俺は『エアリエル』に乗り込んだ。
「お前を乗せた『エアリエル』は音も無く浮かび上がって、俺はその場に取り残された」
かつん、と。何度目かもわからない、フォークが皿を突く音。見れば、皿の上にたった一つだけ残った豆が、未だオズのフォークから逃れ続けていた。
……いくらなんでも不器用すぎないかこいつ。
「俺は慌てて後を追うために、海に飛び込んだ」
――でも、すぐに気づいた。
「ペンギンは、飛べない」
至極当たり前のことだ。けれど、オズにとってその事実はあまりにも重たいものであったらしい。ただでさえ低い声が、更に、沈む。
「奴らは霧の海に浮かびはするが、飛ぶことは不可能だ。ペンギンは鳥でありながら、飛ぶための機能が備わっていない」
だから、どうしたって俺はお前に追いつけないのだ、と。
霧の海にたった一羽漂うばかりで、高く、高く、霧の向こうに消えていくお前を見上げていることしかできなかったのだ、と。
言ったオズは、ついに皿の上に転がる豆を捕まえることに成功した。フォークの先端に突き刺さった豆を一瞥して、やはり不味そうに口に含む。不味けりゃ食わなきゃいいのに。
一つ、二つ。咀嚼して、飲み込んで。
「……そこで目が覚めた。嫌な夢だった」
溜息まじりに、そう、言うのだった。
そんなオズに対して、俺は、何一つ気の利いた言葉が思いつかずにいた。
夢、ではあったのだろうが、それがオズが常日頃から抱えている鬱屈を形にしたものであることは、いくらなんでも、鈍さに定評のある俺にだってわかっちまったから。
そう――オズは、飛べない。
飛べない、のだ。
これだけは、どうしようもない事実として、俺たちの前に立ちはだかっている。
オズには、致命的なまでに
かろうじて『エアリエル』を浮かばせて、真っ直ぐ飛ばすくらいはできる。ただ、それは正直、
その事実が明らかになった時、こればかりは生まれつきの性質だから、と。オズは鈍く笑ったものだった。きっと、笑いたくもなかったのだろうけれど、そうするしかなかったのだと思っている。
ああ。
何だか、無性に、腹が立つ。
オズがそんな暗い顔してることも、俺が、オズにそんな風に思われている、ということも。
何もかも、何もかも。
「……そうは、ならねえよ」
「ゲイル?」
オズが、伏しがちの目を上げて、不思議そうに俺を見る。つくりもののごとく整いながら、唯一、左目の下の黒子だけが非対称性を加えている、見慣れた顔。
その顔を真正面から見据えて、はっきりと、言い切ってやるのだ。
「俺様がお前を置いてくわけねーだろ! お前が飛べなかろうと、ペンギンだろうと。首根っこ引っつかんででも、連れて行くに決まってる」
だって。
「お前は、俺様の『目』だ。そこにいてくれなきゃ、困る」
俺は確かに、一人でも飛べるかもしれない。
だが、俺の行くべき場所を真っ直ぐに見据えていてくれるのはお前だけなんだ、オズ。
「ゲイル」
ぽつり、と。俺の名前を呼ぶ声がした。
オズは、今度こそ、ほんの少しだけ――そう、十年以上こいつを見てる俺だけがかろうじてそれとわかる、笑みを浮かべて。
「……ありがとう」
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