霧世界報告

青波零也

霧深き祭りの夜に

「セレス、絶対にはぐれるんじゃねーぞ」

 と、言われたはずではあったのだが。

 気づけば、セレスは一人、霧深い路地に佇んでいた。

 あちこちから人の声と笛と弦、太鼓の音色が聞こえてくる。しかし、頭上高くに広がる天蓋はすっかり光を失っていて、目に映るのは、闇の中に浮かんで揺れる、霧払いのランタンの灯りばかり。霧を見通す「目」を持つ翅翼艇エリトラから降りてしまえば、セレスもまたただの人間と何も変わらない。

 セレスは、壁を背にしてしゃがみこむ。相棒――ゲイルを見失ったのは、ほんの一瞬前だ。足の悪いゲイルが遠くまで歩いていけるとも思えない。下手に動くよりは、ゲイルが見つけてくれるのを待ったほうがよいはずだ。

 蔦模様のランタンを足元に置き、ほう、と息をつく。

 サードカーテン島唯一の町は、いつになく賑やかだ。普段なら誰もが眠りにつく刻限になっても、ランタンを手にした人々が談笑しながら目の前を行き交う。風に乗っておいしそうな匂いまで漂ってきて、腹がくう、と鳴った。

「セレスは、灯花祭は初めてか。まあ、時計台じゃ祭どころじゃねーよな」

 基地から町へと下りる車の中で、ゲイルが語ってくれたことを、思い出す。

「ハルモニア女王を称えて、国の永き繁栄を願う祭りだ。この島だと、昔からあった鎮魂の祭りと結びついてて、首都のそれとも毛色が違うみてーだけど」

 植物をモチーフとしたランタンは、かつて荒れ野であった国土に実りをもたらした女王一族を象徴するものなのだという。

「ほとんどの連中にとっちゃ、夜通し飲み食いして騒ぐだけの日だけどな」

 そう言って笑うゲイルの横顔は、不思議と、普段と違って見えた。口元は笑みを浮かべながら、魄霧汚染で褪色した淡い色の瞳は、遥か遠いものを見ているような。

「ゲイルは、お祭りが好きなのですか?」

 セレスの問いに対し、ゲイルは「そうだな」と笑って、セレスに視線を戻した。

「見慣れた場所が、違う景色を見せる。見慣れた奴が、その日だけは知らない顔をする。そういう日も悪くはねーよな」

 セレスは、ゲイルの服の裾の感触を思い出しながら、ちいさな手を握って、開く。まだ、ゲイルは来ない――。

 すると、不意に視界が明るくなり。

「君、迷子ですか?」

 頭上から声が降ってきた。

「はい、迷子なのです」

 顔を上げれば、知らない男が立っていた。霧払いの灯を宿す、花の蕾を模したランタンを手に、随分高い位置から眼鏡越しの細い目でセレスを見下ろしている。

 そして、セレスが顔を上げた途端、男は驚きをあらわにした。

「……あれ? 『エアリエル』の正操縦士プライマリ?」

 セレスは反射的に身を固くする。傍目には華奢な子供にしか見えないセレスが女王国海軍の特殊部隊員『霧航士ミストノート』だということ、しかも翅翼艇エリトラ『エアリエル』の正操縦士プライマリであることを知る人間はごく少ない。それこそ基地の面々と時計台の一部の人間だけだ。

 警戒の意志をこめて男を睨むセレスに対し、男は小首を傾げて頭を下げ、セレスと視線を合わせる。男の細められた目は、よく見ればゲイルと同じ、褪せた色をしている。霧航士ミストノートに特有の汚染症状だ。

「今日は、彼は一緒じゃないの? いや、彼とはぐれたから『迷子』なのか」

「彼……、ゲイルのことですか?」

 頷く男の顔を、セレスは知らない。ただ、声や喋り方、何より肌を通して伝わってくる魂魄波長には覚えがあった。一体どこで、と思いかけて、はっとする。

「もしかして」

「ああ、気づいてなかった? この前は通信越しだったもんね」

 膝をついた男は、ランタンを手にしていない方の手を胸の上に置き、恭しく頭を垂れる。

「久しぶり、『エアリエル』の片翼」

「お久しぶりです、トラヴァース中尉」

「トレヴァーでいいよ。もう軍人でもないしね」

 トレヴァー・トラヴァース。元海軍中尉、ゲイルと同期の霧航士ミストノートだ。と言っても、セレスが知っていることは多くない。翅翼艇エリトラ『ロビン・グッドフェロー』の操縦士であること。単純な操縦能力で言えば「最速」のゲイルすらも上回る、優秀な霧航士ミストノートであること。

 そして、数年前に死んだとされていた、こと。

 セレスは、トレヴァーをまじまじ観察する。ひょろりと縦に長いシルエットも、霧に溶けそうな色彩も、セレスが初めて知る、この男のかたちだった。

 そして、それはトレヴァーも同様らしい。細い目でセレスを眺めていたかと思うと、ふと思い出したように問いかけてきた。

「ねえ、君の名前を聞かせてもらってもいいかな?」

 そう、お互いに、翅翼艇エリトラに抱かれて、霧の海を舞う姿しか知らないのだ。

「セレスティア、です」

「セレスティア。いい名前だね、海の高みを飛ぶ君によく似合ってる」

 トレヴァーは穏やかに微笑む。かつて、セレスが通信越しに聞いた彼の声は、魂魄に焼きつくほどの熱狂に満ちていた。しかし、今、目の前にいるこの男の声は、気配は、その記憶が嘘であるかのように涼やかだった。

「改めてよろしく、セレスティア。一度、君と話をしたいと思っていたんだ。……でも、まずは君の相棒を探さなきゃかな」

「いいえ、ゲイルが探しに来ると思うので、待とうと思います」

 なるほど、とトレヴァーはくすくす笑って、セレスの横に座った。

 それから、しばらく言葉が絶えた。ちらりとトレヴァーを見れば、灯りに照らされる痩せこけた横顔は、聞こえてくる音楽に耳を傾けているようにも見えたし、先ほどのゲイルのように、どこか遠くを見ているようにも見えた。

 ただ、すぐにセレスの視線に気づいたのか、トレヴァーはセレスに微笑みかける。

「君、霧の海を飛ぶのは、楽しい?」

「はい。初めて翅翼艇エリトラに乗った時、これがわたしの『翼』だと思いました。わたしの体に欠けていたものを、取り戻したような心地がしたのです」

 だろうね、と。トレヴァーはくつくつと喉を鳴らして笑う。

「君の飛び方は、昔のゲイルによく似てたからね。あれも、君と同じ、飛ぶために生まれてきたものだった。霧の海を飛ぶ喜びを全身全霊で体現してた」

 言って、トレヴァーは再び遠い目になる。

 なるほど、彼は、セレスの姿に、霧の向こうに、今はここにいない誰かの姿を見ているのかもしれない。

 例えば、霧の海を駆ける、ゲイル・ウインドワードの姿を。

「トレヴァーは、ゲイルたちと離れて、寂しかったのですか?」

 つい唇から零れ落ちた問いかけに、トレヴァーは口の端を歪めて「そうかもね」と呟く。

「そう、彼らと一緒にいた頃は楽しかった。そんな時間がずっと続くと信じていたんだ」

 しかし、それも長くは続かなかったことを、セレスは知っている。

 内外の事件が積み重なった結果、トレヴァーは姿をくらませ、ゲイルは一度翼を失った。そして、そう遠くない未来には、霧航士ミストノートが必要とされない時代が来る。全ては少しずつ、しかし確実に変化しているのだ。

 それでも――変わらない思いもあると、セレスは信じている。

 トレヴァーは、セレスに横顔を晒したまま、ぽつりと言葉を落とす。

「実は、君と話をしたかったのは、他でもない、彼のことなんだ」

「ゲイルの?」

「そう。セレスティア、君は、彼の夢を知っているのかな、って」

 夢。その言葉は、セレスの中では青い色をしている。未踏の壁『迷霧の帳ヘイズ・カーテン』や頭上に広がる『天蓋』すらも突き抜けた、彼方の色。

 それは、ゲイル・ウインドワードという男が求めてやまない色。

「はい。ゲイルの夢は『青空』を見ることです。そして、わたしは、ゲイルの夢見た空を見たい」

 セレスは、頭上に広がる霧の天蓋を見上げる。霧の向こうの空の色を目に焼き付ける。それが、ゲイルが霧航士ミストノートを志した第一の理由で。今、セレスがゲイルの翼である、最大の理由でもあるのだ。

 トレヴァーは、「そっか」と吐息と共に声を吐き出して、晴れやかな笑みを浮かべる。

「なら、もう大丈夫だね。余計な心配だったみたいだ」

 言って、トレヴァーは音もなく立ち上がる。そういえば、この男が現れたときも、足音一つ聞こえなかったと思い出す。

 代わりに、遠くからセレスを呼ぶ声が聞こえる。ゲイルの声だ。

 トレヴァーもそれに気づいたのだろう、つい、とそちらに視線を向けて、セレスの耳元で囁いた。

「ねえ、今日ここでボクに会ったこと、彼には内緒にしておいてくれないかな」

「何故?」

「『化けて出るな』って言われたのにこんな所でふらふらしてるって知られたら、彼を不安がらせるだけでしょ」

 そんな彼の顔を見るのも一興ではあるけれど、とトレヴァーは笑う。怯えるゲイルを想像すると、セレスも愉快な気分になった。上手く笑えたかどうかはわからなかったけれど。

「じゃあね。もう、二度と会うことはないだろうけど」

「はい。どうか安らかに、トレヴァー」

「ありがとう、セレスティア。よい航海を!」

 祝福と共に、トレヴァーのランタンの灯りが消える。それと同時に、すぐそこにいたはずの男の気配もまた、霧に溶けて消えていた。

「セレス!」

 その不思議に思いを馳せる間もなく、霧の向こうに灯る光がセレスの名を呼ぶ。目を凝らせば、足を引きずって歩いてくるゲイルが、心底ほっとした表情を浮かべたのがわかった。

 セレスはその場に立ち上がって、ゲイルを迎える。肩で息をしているところを見るに、必死にセレスを探していたに違いない。

「悪い、セレス。大丈夫か? 変な奴に絡まれたりしてないか?」

「大丈夫です。変な人にも……」

 あれは、変な人、といえば変な人だったかもしれない。そんな風に思っていると、ゲイルが眉根を寄せる。

「誰か、いたのか?」

 問われたセレスは、ぱちりと一つ瞬きして。

「いいえ、誰もいませんでした」

 彼との約束どおりに、小さな嘘をついた。

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