蓄音機

「素晴らしい発見ですよ、フロイライン!」

 今日の朝の挨拶は、いつもとは違うものだった。

 コルネリア・ハイドフェルトが、霧惑海峡の幽霊船に流れ着いてから数週間。幽霊船にたった一人住み着いている奇妙な男――自称・船長は、「おはようございます」と言い終わらないうちに、荒唐無稽な冒険譚を一方的に語りだすという、少々、というかかなり頭の螺子のゆるいところがある。

 ただ、今日は何だか様子が違った。普段よりも更に興奮している、というべきか。コルネリアは、少々引き気味に船長に向き合う。

「どうしたの?」

「どうしたもこうしたも!」

 伸びるに任せている髪と髭のせいで、ぱっと見る限りはみすぼらしく枯れた印象の船長であるが、コルネリアに応える声は、張りがあってよく通る。うるさいほどに。

「ああ、何故私は長年この船にいながら気づかなかったのでしょう。このようなものがあると知っていれば、真っ先にあなたにお披露目したというのに!」

「要点だけ喋って」

「申し訳ありません」

 コルネリアの指摘に、流石の船長も己が舞い上がっていたことに気づいたのだろう。わざとらしく――この男の所作がわざとらしくなかったことはないのだが――咳払いをして、ぴんと背筋を伸ばして言う。

「ついに、蓄音機が見つかったのです!」

「……は?」

 

 

「フロイラインは、音楽はお嫌いですか?」

「好きでも嫌いでもないけど、あなたは好きそうね」

「それはもう」

 船長は心底嬉しそうに頷く。

 今すぐにでも駆け出していきそうな船長の服の裾を掴み、「朝食が先」とコルネリアが宣言して、食事と身支度の時間を確保してから数十分後。船長に連れられて、コルネリアは幽霊船の、元々は客船であったのだろう区画に案内されていた。

 霧惑海峡で消えた船や飛行艇を継ぎ接ぎしてできたという幽霊船、実は船長も全ての区画を踏破しているわけではないらしい。ところどころが魄霧の中に没して腐食していたり、難破した際に本来あるべき通路が失われていたりと、足を踏み入れようにも踏み入れられない区域も多いのだという。

 今回見つけた部屋は、そんな、船長が調査しきれていなかった一角に存在していたという。

「こちらです」

 うっすらと霧に霞む通路の先。船長が、コルネリアの前で、扉を開ける。

 特に霧が入り込んでいるわけでもない部屋は、あちこちが埃にまみれてこそいたが、ほとんどは船が生きていた当時そのままであるように思われた。もしかすると、船長があらかじめ片付けていたのかもしれないが。

 その部屋の片隅に、蓄音機があった。コルネリアが幼い頃に、父の部屋で見たのとよく似た形をしていたが、同じ型であるかどうかを判断することはできなかった。

「ご覧ください、音盤もこれだけ揃っているのですよ!」

 船長は棚に収まった音盤の一枚を取り出して無邪気にはしゃいでみせる。その姿は、お気に入りの玩具を見つけた子供そのものだった。そもそも、この男の年齢も、顔を覆う長い前髪と髭のせいで、さっぱり定かではないのだが。

「その蓄音機、動くの?」

「はい、先ほど、動作することは確認いたしました。何か聴いてみますか?」

 みますか、という質問の形を取ってはいたが、船長はもちろんコルネリアの返事を待つつもりもなかったようで、手にした音盤をてきぱきと蓄音機に設置していく。

 船長の勝手さはいつものことなので、コルネリアもしぶしぶ部屋に置かれていた長椅子に座る。コルネリアの生命が船長に握られている以上、下手に彼の機嫌を損ねるのは得策ではなかったから。

 音盤に、針が落とされる。

 途端に、響きだしたのは、ヴァイオリンの音色だった。船長は、コルネリアの横に腰掛けながら、歌うような響きで語り始める。

「帝国国立楽団の弦楽四重奏、アーレンスの『ミスティアの使徒達』ですね。収録は九二五年ということですから、まさしくかの天才ヴァイオリニスト、『女神の弓』シュヴァルツマンが壇上に現れた頃で、この音盤も彼の技巧が――」

「少しだけ静かにしてくれない? 聴きたくてもよく聞こえないわ」

 申し訳ありません、と苦笑して、船長はそれきり黙った。

 女神ミスティアの使徒たちを題材に作曲された、全八楽章に及ぶ組曲を、コルネリアも知らないわけではない。中でも、巨人の足音を思わせる重たく響く低音から始まる『大地の使徒』は、国立放送を通してよく耳にする、最も有名な楽章だ。しかし、全曲を通して聞くのはこれが初めてかもしれない。

 豊かに響く低音に支えられ、ゆったりとした、どこか物悲しげなメロディが、狭い部屋の中に響き渡る。好きでも嫌いでもない、と言いながら、つい、コルネリアはその音の流れに耳を傾けていた。

 一楽章が終わり、次の楽章が流れ始めたところで、不意に、片方の肩に妙な重みがかかった。

「船長? ちょっと、何を……」

 ほとんど反射的に重みを退けようと肩をずらしてからそちらに目をやると、支えるものがなくなったからだろう、ずるずると船長が倒れこんできて、やがてコルネリアの腿の上に頭を乗せて、動かなくなってしまった。

 恐る恐る、長い前髪を少しだけずらしてみると、丸眼鏡の下に隠された両目はしっかりと閉ざされていて、コルネリアの呼びかけにも応える様子はない。肩が静かに上下しているところを見ると、単に、眠っているだけらしいが。

「あんなにはしゃいで人のこと誘っておいて、自分だけ寝るなんて」

 相変わらず身勝手な男だ、とは思うが、口からこぼれた言葉とは裏腹に、ことさら腹を立てる気にはならなかった。

 コルネリアは既に気づいている。コルネリアがここに流れ着いてから、この男がほとんど眠っていないことも。時々、目を閉じたかと思うと、すぐに飛び起きてしまうことも。

 しかし、静かに寝息を立てる船長は、普段見せているどこか箍の外れた調子がまるで嘘のような、安らかな表情をしていた。

 きっと、目が覚めたら、まずは謝罪の言葉から始まるのだろう。話の途中で突然眠ってしまったこと。こともあろうに、コルネリアの腿を枕にして寝ていたこと。何を考えているのかさっぱりわからない、頭の螺子のゆるい男ではあるが、そういうところだけは妙にけじめをつけたがるところがあったから。

 だから、それまでは。

「……どうか、いい夢を」

 眠りを忘れて久しい、孤独な幽霊船長の頭を撫でて。弦楽器の奏でる柔らかな旋律に乗せ、小さく、囁いた。

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