海の果て、辺境の地へ

 かの基地への船旅は、そりゃあもう辛気臭いったらなかった。

 忙しなく働く乗組員は誰一人として俺とどうでもいい世間話に興じてくれることもなく、魄霧機関の唸りと船体を叩く風の音だけが延々と鼓膜を揺らしている。

 ――まあ、連中の気持ちもわからなくはない。

 今、この船が運んでるのは、女王国の秘密兵器たる翅翼艇エリトラ一隻に、その乗り手である霧航士ミストノート一人。それも、ただの霧航士ミストノートじゃなくて、女王国の誇る『救国の英雄』ゲイル・ウインドワード様だ。もし下手を打てば首が飛ぶじゃ済まされない、機密中の機密といっていい。あくまで客観的に見れば、だが。

 ああ、ああ、本当に嫌になる。俺様だって、好きで『英雄』なんて肩書きを背負ってるわけじゃないってのに。

 することもないから、力の入らない足をぶらつかせながら、窓の外を見る。霧を見通す加工を施されているはずの窓越しにも、天蓋まで聳える濃霧の壁としか見えない迷霧の帳ヘイズ・カーテンが、遥か彼方まで続いている。

 世界の果て。この世に存在する全てのものを拒む、未踏の壁。

『いつか、帳をぶち破って、その向こう側に行くんだ!』

 頭の中で高らかに叫ぶ馬鹿野郎の声を、首の一振りで打ち消して。

 そのすぐ近くにぽつりと浮かぶ島が徐々に近づいてくるのを眺めながら、せめて、これからの日々が今までより少しはマシになることを、祈らずにはいられなかった。

 

 

 サードカーテン基地。

 女王国最西端に位置する島に築かれたそれは、その名の通り「第三の帳」の観測拠点だ。帝国との戦争が過熱していた頃も、くそったれカルト『原書教団』が暗躍していた頃も平和そのものであったこの基地では、未だ謎に包まれた帳の正体を探るべく、日夜観測が続けられているのだそうで。

 しかし、時計台から遥か離れた辺境かつ戦とは無縁の土地柄ながら、秘密裏に特殊部隊員たる霧航士ミストノートを一人と翅翼艇エリトラを一隻抱え込んでいる、ということは俺ら霧航士ミストノートの間では常識だった。

 何故か、って?

 サードカーテン基地司令、女王国海軍大佐ロイド・グレンフェルが、それはもう変わり者でお人よしの元霧航士ミストノートであり、同時に凄腕で知られる霧航士ミストノート専門の教官だからだ。

 船から下ろされたタラップの不安定さに内心びびりながら、杖で体を支えて何とか地面に降り立てば、見覚えのある顔が待ち構えていた。

 灰色の髪を撫で付け、ミラーシェードの色眼鏡をかけた、車椅子の伊達男。その姿はほとんど記憶の通りだが、海軍将校の軍服を隙なく着こなしているところは、記憶と微妙に違う点だ。俺が最後に見たこの男は、確か小洒落た私服姿だったから。

 伊達男――基地司令ロイドは、同じ男でもどきっとするような色気のある微笑みを浮かべて、穏やかでありながらよく通る声で言う。

「お久しぶり」

「おう、久しぶり、ロイド」

「あら、ちょっと見ない間に随分しょぼくれちゃったわね、美男が台無しよ」

 やっぱり、その言葉遣いは相変わらずか。

 ロイドは、上も下もろくでなし揃いの霧航士ミストノートの中じゃ稀有な真人間と言っていいが、喋り方だけはちょっと、というか相当個性的だ。ここまでべったべたの女言葉は、今日日女の口からも聞かないぞ。

 ともあれ、わざとらしい言葉遣いに応えるように、俺も大げさに肩を竦めてやる。

「ちょっとって言うけど、数年は会ってねーだろ」

「それもそうね。その数年の間に、色々あったものね」

 そう、色々あった。ありすぎた、と言ってもいい。

 笑ってみせたつもりだったが、つい、苦いものがせり上がってくる感覚に、唇を噛む。

 ロイドはしばし色眼鏡越しに俺を見つめていたようだったが、やがて、車椅子を軽やかに操って俺に背を向ける。両の足を失って長いロイドにとっては、もはや車椅子が足そのものだ。自分の両足と杖、三本あっても体を支えきれてない俺より、ロイドの方がよっぽど身軽かもしれない。

「話は後でたっぷりしましょう。まずは、部屋に荷物を置いてきたらどうかしら」

「ああ、そうする」

「じゃ、司令室で待ってるわ。部屋への案内は、そこの彼に任せてあるから」

「あ?」

 言われて、初めてその場にいたのがロイドだけじゃなかったことに気づいた。いや、元々後ろでは俺と一緒に連れてきた翅翼艇エリトラ『エアリエル』を降ろす作業が続けられてたんだが、そうではなく。

 ロイドの後ろに、ぴんと背筋を伸ばした野郎が控えていたのだ。

 燃えるような赤毛をきっちり肩の上で切りそろえ、赤を基調としたチェックのベストに、きっちりアイロンのかかった真っ白なシャツと、ベージュのパンツ。私服のセンスからして、いかにも神経質そうなお坊ちゃんである。

 そんなお坊ちゃんが、俺に向かって敬礼をしてみせたわけだが、おい、やたらと角ばった動きだぞ。大丈夫か?

「よ、よよよよろしくお願いします、ウインドワード大尉!」

 あっ、ダメだな。これはめちゃくちゃ緊張しているやつだ。

 それでも、先ほど船に乗り合わせていた連中よりは気概があるらしく、びしっと敬礼した姿勢のまま、何とかかんとか言葉を吐き出そうという努力を見せる。

「あのっ、そのっ、自分はっ」

「えーと、ジェム、だったよな。ジェレミー・ケネット少尉。第三世代霧航士ミストノート翅翼艇エリトラ第八番『オベロン』の操縦士」

 第三世代の連中とはほとんど面識ないんだが、それでも顔と名前くらいはわかる。特に、こいつだけは妙に印象に残っていた。その、やたらときらきら輝く橄欖石の目とか。

 すると、奇妙なことにジェム青年はぱっと笑顔になり、目の輝きが数段激しくなる。

「ご、ご存知でしたか!」

「まあ、そりゃ、流石に……。お前、霧航士ミストノートの間でも話題だしなあ」

「ああっ、なんと恐れ多い! 憧れのウインドワード大尉とこうして面と向かってお話しできるどころか、名前まで覚えていただけていたなんて! ううっ、今日この時まで生きていてよかった……」

 やばい、眩暈がしてきたぞ。

 今まで俺を目の前にして、この手の反応をする輩が皆無だったとは言わない。が、ここまで強烈な奴は初めてだ。

 内心どん引きではあるが、ほとんど初対面かつ、これから毎日顔を合わせることになるだろう相手だ。何とかかんとか笑顔を取り繕って、目の前のきらきらお目目と向き合う。

「や、そんな大げさな。俺様だって、お前と同じ霧航士ミストノートだぜ? これからこの基地で一緒にやってくんだし、肩の力抜いてくれよ、な?」

「はいっ! 大尉のご意向とあらば、全力で肩の力を抜いて参ります!」

 全く力抜けてませんね。人の話を聞いてるようで全然聞いてないタイプだなこの新人。

 俺の呆れ顔に全く気づいていないらしいジェム青年は、船から降ろされた俺の荷物を軽々抱えると、とてつもなく爽やかな笑顔で俺の前に立つ。

「それでは、お部屋までご案内いたします!」

「お、おう、頼む」

 はいっ、と元気な返事と共にジェムは歩き出した。相変わらずの妙に角ばった動きではあるが、一応、俺に歩調を合わせてくれる程度の気遣いは持ち合わせているらしく、やけにほっとする。

 きっと、悪い奴じゃあないんだろうなあ。このテンションについていけるか、今からめちゃくちゃ不安でたまらないが。

 すると、ジェムが不意に俺の方を振り向いた。きらり、橄欖石の目が光る。

「あのっ」

「な、何だよ」

「ウインドワード大尉の、これまでのご活躍についてお話を伺ってもよろしいですか? 特に、霧惑海峡での戦乙女との決戦! 『エアリエル』がまさしく一陣の暴風として霧を裂いたというお話を聞いて、一度大尉ご本人から当時のお話を伺ってみたいと思っていたのです!」

 思わず「うっ」と呻いてしまったことは、許してほしい。

 正直めちゃくちゃ逃げたかったが、これから同じ基地で働く以上、ジェム青年の追及が今ここで逃げただけで終わるわけがない。

 ついでに、そのきらきら輝く目から視線を逸らすのも、それはそれで、とっても罪悪感が湧くわけでして。

 

 

「勘弁してくれ」

「うん、私もちょっと反省してたところ。今のあんたにいきなりジェムと会わせるのは、刺激が強すぎたかなーって」

 長い付き合いなだけあって、ロイドは俺様のツラとこの一言だけで、げっそり度合いとその理由をごくごく正確に理解してくださったとみえる。

「いやー、あの新人、元気すぎねー……?」

「元気なのはいいことよ、その元気が空回りさえしなきゃね」

 つまりジェム青年はめちゃくちゃ空回りするタイプなんだな。よくわかった。言われなくてもわかってたけど。

 座りなさいよ、とロイドが勧めてくれたので、ありがたく用意されていた椅子に座る。このろくに力の入らない足では、ずっと立っているのは辛かったから。

 司令室には、俺とロイドだけしかいなかった。多分、俺に気を遣って人払いをしてくれたのだと思う。ついでに散々俺の話を聞きたがったジェムも、ロイドが一睨みで追い出した。ロイド曰く「ジェムがいると話がこんがらがりそうだから」。遺憾ながら俺も同感と言わざるを得ない。

 ロイドは「悪い子じゃないんだけどね」と、期待の新人に対するフォローになってないフォローを付け加えて、改めて俺に向き直る。

「で、どういう風の吹き回し? 我らが英雄様が、こんな、なーんにもない辺境基地に転属してくるなんて」

「言わなくてもわかんだろ、我らがロイド先生なら」

「まあ、ね。あんたが時計台にいられなかったってのは、わかるわ」

 そう、俺は逃げたのだ。時計台から。もっと正確に言うなら、俺様を『英雄』として祭り上げようとするお偉方から。

 けれど、逃げるって言ったって、逃げる先は限りなく少ない。何しろ、霧航士ミストノートは――特にゲイル・ウインドワードとかいう「飛び狂い」は、どこまでも、どこまでも、飛ぶために最適化されたナマモノだ。そんな俺様が翅翼艇エリトラまで取り上げられてみろ、今度こそ発狂して霧の海に飛び込むぞ。俺はやる。マジでやる。

 そんなわけで、時計台から逃げ、かつ霧航士ミストノートの肩書きと『エアリエル』を捨てない、という条件を突き詰めたところ、サードカーテン基地にたどり着いた、ってわけだ。

 教官の座を一旦は退きながら、なお教え子に目をかけてくれているロイドには、本当にどれだけ感謝しても足りない。

 ロイドは、机の上の資料をぱらぱらとめくりながら、露骨に眉根を寄せる。

「あんたのここしばらくの記録は読ませてもらったわ。……話には聞いてたけど、ほんと、あれからすごい持ち上げられようだったみたいね」

 俺は、その言葉に何と応えるべきかわからなくて、つい、組んだ指の先を見下ろしてしまう。

 確かに、霧航士ミストノートゲイル・ウインドワードは客観的に見れば『英雄』と呼ばれるようなことを成したんだろう。それは、いくら俺が馬鹿でもわかる。

 だが、わかったところで、この手足が動くようになるわけでもなければ、昔のように『エアリエル』で自由に飛ばせてもらえるわけでもない。それに。

「でも、あんたにとっちゃ不本意以外の何でもないんでしょうね。『フォーサイス討伐戦』があんな結果に終わったのに、周りはあんたを『英雄』って持て囃すんだから」

 あの日。全てが終わったあの日から、胸にぽっかり空いてしまった穴は、永遠に埋まることはないのだから。

 そうだ、ほとんどの連中は知らない。知っていたとしても、考えようとしない。『フォーサイス討伐戦』と呼ばれたあの戦いが、俺とあいつにとってどのような意味を持っていたのか、なんて。

 ただ――、ロイドは。

「はは……、ほんと、格好悪ぃよな。こうなるってわかんなかったわけじゃねーのに、いざ具合が悪くなったら尻尾巻いて逃げ出すなんてさ」

「いいえ。逃げようと思って、それを実行に移せただけ上出来よ。追い詰められて、擦り切れて壊れてく霧航士ミストノートなんて、いくらでも見てきたんだから。あんたがそうならなくて、よかった」

 ロイドだけは、確かに今ここにいる俺を、見つめている。

 その目は記憶のまんま、ミラーシェードの色眼鏡に隠されて見えちゃいなかったけれど、それでも「見つめている」のだとはっきりわかるのだ。

 喜びと同時に襲い来るのは、胸を締め付けられるような、泣きたくなるような感覚。その理由もわかっちゃいたが、深く息を飲み下すことで誤魔化す。果たして、ロイド相手にどれだけ誤魔化せたのかはわからないが。

 お互いを見詰め合ったままの奇妙な沈黙は、ぱん、と唐突にロイドが手を打ったことで打ち切られる。

「メンバーの紹介と基地の案内、仕事の指示は明日するから、今日はゆっくり休みなさい。あんたは曲がりなりにも『療養』の名目でうちに来てるんだから、休むのも立派な仕事よ」

 ロイドの言葉は、ここしばらくで一番胸に染みた。

 どこまでも何気ない物言いではあったけれど、ロイドはいつだって、俺が一番欲しい言葉を知っている。

 だから、俺は、それこそ数年ぶりに、少しだけ息をつけたと感じたのだ。

「……ありがとう、先生」

「ふふ、どういたしまして」

 俺様がひよっこ候補生だった頃と何一つ変わらないロイドは、胸に手を当てて、「改めて」といたずらっぽく笑ってみせる。

 

「遥か海の果て、サードカーテン基地へようこそ」

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