第二話

「レフ・レック・ファウスト、私の友よ。約束を守って、よく来たね」


 やめてくれ、フリアエ。そんな目で、そんな声で、俺を迎えないでくれ。


「悪である私を、今からお前は、正義たる剣で討つんだ」


 何が悪だ、何が正義だ。正しいって、一体何なんだ。


「そしたら、お前はきっと、みんなから恨まれる。お前は、悪に染まるんだ」


 そうだろうな。何せ貴女の存在は、希望そのものだ。信じれば、救われる。必ず、救ってくれる。保証された確かな安心が、手に入るんだ。


「……それが、人々を縛る軛を砕く、唯一の方法なんだ。私という、仮初めの安寧に幕を引くことがね」


 ああ、ああ。貴女の言いたいことは分かっている。ただ信じ、ただ仰ぐだけで得られる安心は、真実じゃないって言いたいんだろう? 受け取るだけの安寧は、本当の平和じゃないって言いたいんだろう? それは違うよ、フリアエ。人間は、それほど強くないんだよ……。人間がそんなに強かったら、神になんて縋らないんだ……。


「レフ、人はね、強いよ。私たちが思っているよりも、ずっとね。どんな生き物だって楽に生きたいって思うものさ。でも人はね、茨の道を自らの意志で歩いてゆける生き物なんだって、私は知っているよ。その先にある栄光を掴み取る為ならね」


 それは、もちろん、一部にはいるかも知れない。だけど、他の大勢はそうじゃないだろう? 日々の食い扶持にさえ苦悩する貧困者がいる。周囲の圧力に屈する落後者がいる。どれほど夢を描いても叶えられない失望者がいる。そんな彼らにとっては、何より拠り所が必要なんだ……。


「開拓には、徒労が混ざる。発展には、苦痛が伴う。進化には、万難が立ち塞がる。人がヒトを超えるために、これまであらゆる敢闘があった。私たちは、その先に立っているんだよ、レフ。その奔流を塞き止める、私という人間は、在ってはいけないんだ」


 馬鹿な……貴女が導いてくれたから、今の俺がいるんだ。貴女を護りたいと思ったから、俺は騎士になれたんだ。貴女の言う、人の進歩を問うならば、その障害だと評する貴女自身によって、俺はここまで進んでこられたんだ。


「……そう、お前だけだ。お前だけが、私の傑作なんだ。お前だけが、私の《魔力》に抗えた。お前だけが、私を――殺せるんだ」


 フリアエがそう言い放った、その瞬間だ。二人を取り巻く世界が、突如、正常に時を刻み始めた。


「フリアエェェェェェーーーッッッ!!」


 俺の喉に出かかっていた、想い迸る猛りが、粛然とした聖堂に木霊した。引き延ばされていた時間が急激に縮んでいくかのように、俺とあの人との距離は狭まっていく。鼓動が高鳴る、神経が加速する、意識が研ぎ澄まされる。それは、吐き気を催すほどに、目眩を起こすほどに、剣を握る腕が震えるほどに。


 振りかざし、そして、伸ばした手に、握られた氷刃、その切っ先が、命の核へと納まっていく――それは、一瞬だった。長く圧縮されていた時間が、今ではまるで、幻だったように。俺の目の前で、ただ満足げに微笑む貴女との会話が、まるで白昼夢だったかのように。今や、俺の身も心も刃も、赤く紅く朱く、染まってしまった。


 傾いていく景色、倒れ込む身体、薄れゆく瞳、はたと、俺はフリアエの手を取っていた。何をしているんだ、俺は。この期に及んで、この人を労ろうと? 馬鹿な……彼女の手を握る、その手で――殺めたくせに。


「……悪を纏い……自由をもたらせ……レフ・レック・ファウスト……」


 貴女の最期の――血染めの――言葉は、やっぱり、最後まで、人々の為なんだな……。命尽きるその時まで、貴女はみんなの為に、生きようとするんだな……。俺を残して、俺に託して、貴女は、逝っちまうのか……。


 痛いほど歯を噛み締める、それでも塞き止められぬ涙が、滂沱として流れ落ちる。まさに消え入る命の灯を、彼女の胸に突き刺さる剣と、握り締めたその手を通して感じながら。


 だけど、その最期を看取る時間など、俺には許されていない。雫に歪んだ視界を振り払い、横たわる亡骸を踏み越えて、ただ真っ直ぐに走り出した。


 唖然としていた聖職者たちも、すぐに状況を理解してか、地面に着きそうな丈の祭服をはためかせ、扉口への経路を塞ぎ始めた。そんな障壁じゃ、一回りも二回りも体格の違う俺には、妨げにもならない。猛然と突進し、群がる者どもを弾き飛ばす。勢いそのままに、繊細な曲線美に彩られた木造りの扉を蹴破った。


「――えっ? レフ?」


 聖堂の扉口の前に立っていた、護衛兵が二人。その一人には、旧知の友であるトマソンがいた。


「おい、お前……こんなところで、何して……」


 悪いな、今はお前に気を払う余裕なんて無いんだ。必死の形相で疾走する傍ら、我が友に鋭い一瞥をくれる。それを見て、あいつがどう思うかは分からない。悲しいかな、いずれは刃を交える相手になるかもしれないな。でもお前なら、何かを察してくれる……そんな信頼からくる、切なる視線を投げ掛けたつもりだ。


「奴を追えぇぇぇ!」「聖女様が逝去されたのだッ!」「何をボサッとしておるッ! 追うのじゃぁぁぁ!」


 俺の後塵を追い掛ける聖職者たちが、語気を荒げて喚き立てる。その声に異様な雰囲気を感じてか、遅れて護衛兵の二人が俺を追ってきた。


 聖女……そうか、そうだったな、貴女はそんな風に呼ばれていたっけな。ただの一度も、俺には呼ばせなかったが。そんな風に担ぎ上げられるのが、堪らなく苦しかったんだよな、フリアエ。


「あああああぁぁぁぁぁ……! 何たることを……ッ!」「聖女様ァァァ! 聖女様ァァァ!」


 神に仕えし者どもよ、どの口で聖女などと宣う……慈悲深き一人の人間に縋りつき、削られていくあの人の精神を利用し、喰らい尽くした偽善者め。お前たちが一体、何をした? たとえ奇跡のような力を持ち合わせていても、あの人は、どこまでも繊細な心を持った、ただの人間に他ならなかったんだ。


「クッ……! レフ、お前ッ! 何をしでかしたッ!」


 もはや遠く後ろから聞こえる、友の声。その問いに対する答えなら、踵を返せば自ずと解るだろうに。


「レフ、お前じゃ、ないんだよな……? なあ、そうだと言え……! 潔白を証明しろ……! でなければ俺は、お前を討たなければいけないッ!」


 ああ、お前の――お前たちの標的は、俺で間違いない。極刑は決して免れないことを、俺はした。だから、追ってこい。延々と追い掛けて、誰もが認める悪に俺を染めろ。それが、フリアエとの、最後の約束だから。

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