第十五話
そこは、不思議な光景だった。辺り一面に広がる、途方もなく大きな湖。その水平線上で、あたかも天地が繋がっているかのような
寄せては返す波が、
塩漬けされた青魚にも似た臭いが辺りに漂う、波打ち際までやってきた。この海とやらの水は、しょっぱいと聞いたが……うん、しょっぱい。分からない、なんて湖なんだよ、海って奴は。果てしなく続く、塩水を湛えた水たまり。常に揺れ動き、波立ち、大地を濡らす紺碧の大河。その壮大さは、一種の
――あれは、人? 眼前に広がる大海原の只中に、岸側へと押し寄せる
俺は脇目も振らず、駆け出した。一歩進むごとに細波を立てながら、次第に沈んでいく身体。高まっていく水の抵抗が、俺の身体を鈍く重く縛っていく。まだ岸から大して進んでもいないのに、もはや肩まで浸かってしまった――なんでだ、彼方に見えるフリアエは、まるで浅瀬を歩いているかのようなのに。なんでこんなに深いんだ。全く進まない、むしろ打ち寄せる波、足が掬われる。駄目だ、追いつかない。フリアエ、どこに行ってしまうんだ。俺を置いて、そんな遠くまで……まだだ。迫り来る波に逆らって、俺は泳ぎ始めた。懸命に、必死に、あの人に追いつくために。だけど、やっぱり、進まない。泳ぎには自信があった、でも、そういう問題じゃない。全く距離が詰まらない。身体が鉛のように重い。海が、拒絶するんだ。
気が付いた時には、彼方に見えていたはずの、フリアエがいない――違う、そうじゃない。天を衝くほどの
激烈な奔流に飲み込まれた。何も見えない、何も聞こえない。何がどうなっているのか。激動する潮流の渦中で、身体が四散してしまいそうな感覚に襲われる。胸を打ち砕く水圧で、僅かに残った空気を吐き出してしまった。代わりに、潮水が肺を侵食していく。激痛が走る、思考が乱れる、意識が掠れる。死を、垣間見る。
――突如、奇妙な力で、強引に引き寄せられる。暴威を振るう潮流をも払い除ける、凄絶なる力。この感触は、魔力……人肌の滑らかさでもなければ、網縄の絡まりでもない。俺の神経が訴えかけてくる、魔術だ。魔女フリアエを傍らで見てきたからこそ、判別できる感触……魔術特有の、外側からでも内側からでもない、神経を直に撫でるような感触。
海の底に落ちた俺は、その奇妙な魔術によって、岸まで引き寄せられる。一気に加速して、勢いよく浮揚する、高々と水飛沫を上げて陸に上がる。仰臥した俺の視界に映るのは、雲一つない
肺に詰まっていた潮水が、一挙にせり上がってくる。胸を蝕む激痛と、空気が足りずに朦朧とする意識で、失神しかけていた。そんな俺を一瞥すると、隣に立っていた少女は、溜息を吐きながら、
「ハァ……略式、
グッ!? こ、これは……先に感じた魔術の感じに似てい……グボォ!
まるで胸回りを締め上げられたかのような感覚で、肺を蝕んでいた潮水が、残らず排出された。この少女、何者だ? 手を使うわけでも、呪文を唱えるわけでもなく、一瞬でこんな芸当を。
「馬鹿ね。夢だからって甘く見ないこと。本気で死ぬわよ?」
えっ? 今なんて言った? 彼女は夢って言ったか? なんで、俺が見ている夢に、この世界が夢だと理解できる住人が存在するんだ?
「呆けた顔してんじゃないわよ、あの娘の魂が旅立つのよ? しゃんとしなさい」
あの娘……フリアエをそう呼んだ、この少女――のように見える女は、魔女か?
「フリアエをあの娘呼ばわりできるなんて、貴女は何者だ? それにここは、俺の夢なんだろう? 見ず知らずの貴女が、ここに何の用が?」
「そうね……まあ、あたしのことなんてどうでもいいわ。魔女であるあの娘に、ちょっとだけ手解きしただけのお節介焼き、とでも思ってくれればいいわ」
魔女フリアエにお節介……俺にとってのフリアエみたいなもんか? 師匠のようで、恩人のような、敬意を払うような相手か。
「この世界はアンタの夢。でもね、フリアエの心の中でもあるわ。そう、最期の最後に繋がっちゃったのよ。切っても切れない、縁って奴でね。こんな機会、願ったって訪れないものなんだから、丁重に見送ってやりなさい。アンタにはその責任があるわ」
ああ、その通りだ。あの人の最期に立ち会えなかった俺には、その背中を見送る責任がある。いやむしろ、願ってもない、まさしく夢のような出来事だ。幸運な奴だな、俺は。
もう豆粒ほどまで小さくなったフリアエの、藍色に染まる後ろ姿を見据える。遙か水平線の彼方にあって、この果てしない大海原の寛大さにも負けぬ、彼女の気丈夫な歩みが見て取れる。いつなんどきであっても、あの人は優しく、そして強くあった。人々を救わんとする時も、俺を導かんとする時も、己の命が尽きんとする時でさえも。
世界がぼやける、フリアエの輪郭が滲む。先まで肺を蝕んでいた痛みは、胸を締め付ける痛みへと変わっていた。これで、最後――あの人の姿を、この目に収められるのは。あらゆる思い出が、脳裏に去来する。実際、あの人と過ごした時間は、父や同僚と比べれば、そんなに多くはなかった。でも、これまでの人生を形作るほとんどのものは、あの人から貰った。責任を、慈愛を、正義を。俺という人間は、フリアエという人間がいたから、ヒトから人になれたんだ。
もはや、あの人の姿が見えないほど、瞳は潤みを湛えていた。それでも、水平線の彼方へと、
騎士なるものに、満足できはしなかったけど、これまでも、これからも、貴女の騎士であることに変わりは無い。俺という自我が決意した自由意志のもと、この命尽きるまで、貴女の騎士であることを、旅立ちゆくその背中に誓う。騎士とは護る者の肩書き。貴女が夢にまで見た、人々の意志が自由に振る舞える世界。俺はそれを、きっと護り切る。この身が、どこまでも、悪として貶められようとも。
「……あの娘は、深い業を背負った人間だったわ。己の意志に関わらず、幾度も周囲を取り囲む人々を、生き地獄へと誘った。恨みつらみなんて、それこそアンタなんかよりもずっと、背負ってきた。何十年も、何百年も、人一人の想いや願いが擦り切れてしまうまで」
浅葱の衣を、潮風に靡かせる少女は、憂いを帯びた口調でそう言った。俺にも、何となく分かる。フリアエは決して、己の過去を語ろうとはしなかった。過ぎ去りし
「それでもね、アンタも知っての通り、あの娘は最後まで、人々の為に何ができるかを考え続けたわ。あらゆる道を踏み外して、あらゆる苦悩に立ち向かって、あらゆる希望に応え続けて。そして、あの娘は逝ったわ。アンタが手に執った、弔いの刃でね」
それが、救いになったのかは、俺がそっちに逝くまで、取っておいてくれ。貴女が指し示した道を、俺は決して違えたりはしないから。だから、それまではせめて、心安らかにあってくれ。
「――お別れの時よ、レフ・レック・ファウスト。心から、冥福を祈りなさい」
――その時、水平線の彼方に立つあの人は、その白銀の髪を靡かせて、振り返ったか。それは、俺の頬を伝う雫が見せた、幻影だったか。それでも彼女が最期に見せた微笑みは、俺の目に焼き付いている。いつだってその微笑みは、どんな花々よりも美しく、儚く、優しかった。でももう、いいんだ。それだけで、俺は十分だ。
だから、お休みなさい――フリアエ。いつの日か、また。
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