マギアルサーガ~惡の化身~

松之丞

序 悪しき道、苦難にて

第一話

「本当の悪って何だと思う? 私はね、レフ。見過ごしちゃいけない巨悪を、見過ごす人間だと思うんだ。今は良くても、いずれきっと、みんなが後悔するようなことを、見過ごす人間……」


 ――それが、私なんだ。


 あの人は、寂しそうな目をして、そう呟いたんだ。


 俺はきっと、あの時の光景を忘れはしないだろう。月の光に照らされたあの人の横顔は、不謹慎だけど、綺麗だった。まるで陰影を見事に捉えた絵画のような、募る思いに俯く表情。伏せた眼に、陰る睫毛が艶めく。ふと、見惚れる自分がそこに居た。


 あの人の心の奥底に差す、昏い影を理解することは、誰も出来なかった――錯綜する想いの吐露を拝した俺でさえ、一握の泥濘も汲み取ることは出来なかった。


 あの人を信じる者は、すべからく救われた。老若男女も、身分の差も、人種の違いも、隔たりなく、例外なく。だから人々は、心から信奉した。その様はもはや、盲信とさえ言えるものだろう。何せ、あらゆる宗教が成し遂げられなかった、目に見える救いがあったのだから。老いも、病も、苦悩も、苦痛も、あの人は全てを癒やして回った。一国の王でさえ、あの人を前にしては、頭が上がらないほどだ。


 でも、慕い敬ってくれる人々に向けた笑顔の、その裏にひた隠した、痛々しいまでの悲痛さは、どこから来るのだろう? 俺には分からない。絶え間なく至上の善を成し遂げ続ける己を、敢えて悪だと宣う人の心など、理解の範疇を超えている。


 それでも、だからこそ俺は、あの人の嘆願を、全霊で以て叶えよう。


「フリアエ・ノイル、我が友よ。貴女を――討とう」


 そう、己に言い聞かせるように呟いた俺は、背中に担いだ剣を引き抜いた。覚悟とともに殺気立つ俺の気配に呼応するように、辺りを覆う木々の青葉がさんざめく。白銀に煌めく刀身、その切先の向こうには、我が故郷に根差した聖堂が聳え立つ。夕焼けた日差しを照り返す極彩色のステンドグラスは、脆く儚き人の想いを一身に引き受けるが如く、眩い輝きを放っていた。


 混沌の世に迷える子羊を擁する慈愛の社に、対して俺は、冷ややかな氷刃を差し向ける。柄を握るその手は、微かに震えていた。刀身から射返す光が乱れ、瞳を刺激する。眼を細めた、張り詰めた意志が、僅かな緩みを見せる。頬に伝う雫に気付いた。


 覚悟が出来ていなかったわけじゃない……と思いたい。フリアエに約束した、誓いを立てた、決意を抱いた、それだけは真実だ。踵を返す足など、疾うに捨てた。震える手など、関係ない。零れる涙など、意味を成さない。


 静まりかけた覇気に薪をくべるが如く、握り締めた剣を薙ぎ払う。甲高く冷血な風切り音が、林の合間を木霊した。手袋を嵌めた掌で荒々しく顔を拭い、目一杯吸い込んだ息を、鞴のように思い切り吐き出す。そして、開いた瞼の先に、猪突の炎を宿した。


 重々しい鉄を纏いし肢体を振り上げて、落葉に覆われた地面を踏みしだく。一歩踏み込めば、木の葉が舞い、二歩踏み込めば、木々がざわめく。風を掻き分け、林を駆け抜け、脇目も振らず、振り向かず。猛然と、一心不乱に、駆け走る。今や足枷としかならない、脳裏に過ぎる数多の思考を、宿る情緒を、置き去りにして。


 林を抜けて、視界が広がる、天つ黄昏は、大地を橙色に染め上げていた。鉄の擦る音を立てる俺を除けば、あとは静寂が包む町外れ。子は親に手を取られ、農夫は手に持つ鋤を収めて、猟師は獲物を携えて、生家へと帰りゆく頃だろうか。


 厳粛なるを漂わせる聖堂は、もはや目前に迫っていた。ここにきて、俺の耳が捉えたのは、馴染み深くも、自然と背筋が伸びる、聖職者たちの――フリアエの――聖歌。洗礼の記憶が蘇り、跪きそうになる。歯を食いしばって堪え、前に進むその足を止めない。


 特段、信仰心が高かったわけじゃない。敬虔なる信徒とは呼べないかもしれない。だけど、神聖の何たるかは良く知っているつもりだった。何より、我が友フリアエの、まるで渓谷の深淵から吹き上げる涼風を思わせる、底なしの美声で紡がれた詠唱の冒し難さを、俺は良く知っている。


 その飲み込まれるような歌声が零れ出す聖堂を前に、俺は更に加速した。踏み締めた地面は、後塵を巻き上げながら、小さな噴火口の如き足跡を残す。この身で切った風は突風と化し、色とりどりに芽吹いた花々を散らしていく。


 そして、俺は意識する。肉体の内に伝い流れる、超常の力、《魔力》を。その力を呼び起した直後から、俺の身体にあらゆる能力が漲るのを感じた。全力疾走にも息乱れぬ体力を、舞い上がる砂塵の一粒一粒を認める神経を、鎧の重みを物ともしない筋骨を。


 聖堂を見上げる、視線の先には、鮮やかに彩られたステンドグラス。前に屈み、膝を折り、腕を曲げ、大地を蹴り抜くが如き勢いで――跳躍。疾走の勢いそのままに、宙を弓形に飛翔する、俺が飛び立った地点では地割れが起きていた……嗚呼、今や目と鼻の先には、入口としては想定されるはずもない、ガラス細工の窓が立ち塞がる。薔薇の花びらのように縁取られた窓の一枚一枚には、教典に伝わる聖人が描かれていた。


 罰当たり――当然だろう。これから、人々の希望の化身を殺めようというんだ。悪いが、退いて貰う。そう戯れに断りを入れて、自身よりも遙かに巨大なステンドグラスに激突する。見目通りの豪奢な音を立てて砕け散ると同時に、想像よりも随分と脆い作りに拍子抜けしつつ、拡散する硝子片の一片一片があたかも舞い落ちる氷晶となって素朴な聖堂を幻想的に彩っていく。


 祭壇に集まった聖職者たちの顔には、一様に驚愕の表情が浮かぶ。だが、彼らの囲いの中心にあって、祭壇の目の前に立つ、異彩を放った女――フリアエの顔には、穏やかな表情が浮かんでいた。あれは、いつもの表情だ。俺に向ける、慈悲深い微笑みだ。何て顔をしているんだ。貴女はこれから……死ぬんだぞ?


 フリアエが俺に嘆願した望み、それを叶えるのは、いとも容易く、あまりにもあっさりと、事が済む――はずだった。


 何だ、これは。意識が、引き延ばされて。一瞬が、遥か彼方に。まるで、水の中を揺蕩うかのように、ゆっくりと、あの人の元へと向かっていった。


 きっとその時、俺の表情は、悲痛と、恐怖とで、強張っていたんだろう。だけど、そんな俺の視線に、フリアエは戸惑いの色さえない眼を投げ返したんだ。暖かく包み込むようでいて、巣立ちを促す親鳥をも彷彿とさせる。


 ――御大よ、大慶至極に存じます。


 それは、囁く声、謝意の声……フリアエの声。一体誰に、何を感謝しているんだ? 見渡した視界の中に、めぼしい者は見当たらない。


 ただ戸惑い続ける俺に、坦懐なる落ち着き払った声色で、彼女は語りかけてきた。

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