第十話
「レフ。君は知っているかもしれないけど、私は魔女と呼ばれる存在なんだ」
「うん、知ってる。フリアエは魔女なんだろ? 生まれもっての魔法使いで、寿命がすごく長いんだって」
「その通りだよ、レフ。私も随分と長く生きた。母と呼んだ国が、二つ消え去ったほどにはね」
それが世の理と言ってしまうには、余りにも無情かもしれない。けどフリアエは、己の悠久なる命が果てぬうちに、生まれ育った世界が変わってしまう光景を、二度も視てきたんだ。それが、どれほど悲愴なることか。年若く青き少年には、ちっとも分からなかった。
「でもさ、フリアエがみんなにいつもやってるのってさ、魔法なのか? アレは」
「うん? これかい?」
そう言いながら、自らの親指を噛み、俺の頬に触れる。すると、触れたそばから、頬にできた傷が癒えていった。痺れるような、こそばゆいような、瘡蓋が剥がれていくような。
「……本当、すげぇな。何なんだよ、これ」
「これは咒術だね。概念を再現する、なんて説いただろう? 私の中の魂にはね、あらゆるモノを魅了してしまう概念が宿っている。その概念を呼び起こす
「なんだよそれ。もう子供扱いすんなよ」
悪戯な笑みを湛えるフリアエに、俺は不機嫌に反抗した。からかわれたように思ったからだ。
でも、今思い返すと……魅了するだって? 傷を? じゃあ、魅了されて持ち主を離れたソレは、どこに行くんだ? もしかして……フリアエに? だとしたらあの人は、どれほど多くの苦しみ痛みを耐えて生きてきたんだ……。人々のあらゆる苦痛を肩代わりして、それでもなお、あれほど気丈に笑えるのか。
いや、フリアエという人間にとっては、その痛みさえ、些細な問題なのかもしれない。人々が真に自由を生きてゆける世界が訪れるならば。
「ところで、レフは将来、何になりたいんだ?」
「え……? 将来……?」
将来……その時は、何も考えちゃいなかったな。いや、それは今でも変わらないけど。鎧を纏った騎士は格好いいな、なんて一介の男子と同じ憧れはあったか。その点で言えばティル、お前の方が偉いと思うよ。
「そういや何も、考えてなかったな。俺のなりたいものかぁ……」
「私はね、レフ。自分の為に生きられたなら、きっと、他人の為にも生きられると思うんだ。だからお前にも、自分を生きて欲しい。今は何者でもないお前が、何者であるかを見定め、その在り方を生きよ」
全く……餓鬼の俺には、読み取らなきゃいけない行間が多すぎるって、フリアエ。まあでも、おつむの弱かったあの頃の俺が、それなりに考えて、答えを出したんだよな。
「じゃあ――俺は、騎士になるよ」
そんな寂しそうな顔をした、貴女を護るために。誰もが貴女に縋るなら、俺にだけは縋ってもいいように。その屈託のない笑顔が、少しでも永続きますように。誓うよフリアエ、貴女の騎士として。
その宣言を嘘にしないため、怠けきっていた勉学も励んだんだ。最初の頃は全く手が付かなかったけど……要領だけは良かったのかもな。次にフリアエがレコンを訪れる頃には、見違えるほどの成績を挙げていた。武芸の方は、誰かに言われなくたって、遊びでもやってたし、父にも仕込まれていたから、何ら問題はなかった。
その内に俺は学校の教師から見出されて、セレビア辺境伯の従卒として採用された。故郷レコンなんかよりもずっと賑やかなセレビアで、俺の生家なんかよりも何十倍も大きくて華やかな城勤めの身となる。
だけど……全然、想像とは違ったな。祖国ロギヴェルノは、もう百年も国家間の戦争を起こしていない。それ自体は悪いことじゃないんだろうけど、平時の騎士というのは、もはや貴族階級の一つに成り下がった身分だった。騎士に付き従う従卒ともなれば、武芸を磨く日々を送るんだと覚悟して奮い立っていた俺には、まるで道化師の真似事のような宮廷芸を磨かせられる日々が苦痛でしかない。それでも、一介とは言え騎士にさえなれれば、きっとフリアエを護れると。何ら根拠もなかったけど、必死に従卒仕事をこなす日々を過ごした。
そして俺は、遂に騎士を叙任されることとなる。その際に拝受したのが、この鎧と、そして我が愛馬、グレートヒェンだった。駿馬ではあったけど、ご存じの通り臆面もないような自分流儀な奴だ。
結局、フリアエが俺の叙任式に参列してもらうまでは叶わなかったけど、その年のレコン来訪に際しては、直接の祝辞を貰った。それが、何よりの祝福だったよ。
「騎士叙任、本当におめでとう。以前、私の前で告げた言葉通りに、成し遂げてしまったんだな。レフ、立派な子だよ」
「さすがにもう、子供扱いはやめてくれよ。いや、そりゃアンタの歳で考えれば、青二才の餓鬼も餓鬼なんだろうけどさ」
照れ臭さを悪態で返してしまうのは、俺の悪い癖だった。きっとこの人なら、そんな俺の本音と建前を分かった上で微笑んでくれる、そんな甘えた考えも含めての悪癖だ。
だけど、その時のフリアエは、いつもと様子が違っていた。何やら、真剣な表情だったんだ。
「レフ、お前は騎士となり、何のためにその剣を振るう? 地位? 名誉? 金? それとも民のため?」
おいおい、そんなこと決まって――いや、そっか。これも俺の悪い癖だったな。過程も理由も告げずに、結果だけ置き去りにしてしまうのは。従卒として城勤めになる前は、それを父にも咎められたっけ。官僚にするために学校へと通わせていたのにも関わらず、どういう了見で道を誤ったのかって。
「それは、一つだけ。たった一つだけの、単純な理由だよ――フリアエ、貴女を護るためだ」
あの人の眼を真っ直ぐに見て、俺はそう言ったんだ。我が親愛なる友に、宣言通りの事を成して、ようやく俺は誓いを立てられたんだ。だけど、俺の正直な言葉に、彼女は目を伏せた。そして、
「本当の悪って何だと思う? 私はね、レフ。見過ごしちゃいけない巨悪を、見過ごす人間だと思うんだ。今は良くても、いずれきっと、みんなが後悔するようなことを、見過ごす人間……」
――それが、私なんだ。
あの人は、寂しそうな目をして、そう呟いたんだ。その時の俺には分からなかったよ。彼女という奇跡が、なぜ悪だなどと呼ばれなきゃいけないのかって。見過ごしている? 何を宣っている、貴女こそがその全てを背負ってきた聖人じゃないか。それを少しでも肩代わりできるように、俺は今、騎士として隣にいるんだ。
「どういうことだよ。アンタが悪人だなんて言われる所以はないだろ!」
「……これはきっと、私の独り善がりに過ぎないのかもしれない。身勝手な詭弁に過ぎないのかもしれない。でもね、レフ。人はもっと、自由を勝ち取れるはずなんだ。生きるも、老いるも、病むも、死さえも」
何を言いたいんだよ、フリアエ。貴女はその自由を与えてきたじゃないか。人々の苦しみを取り払い、生を謳歌する手助けをしてきたじゃないか。俺に、俺らしい選択をさせる、導きをくれたじゃないか。
「何言ってるんだよ、フリアエ。アンタがそれを与えてきたんじゃないのかよ」
「そうだね。人々の……少なくとも私が身を置く
当然だ。そうでなくちゃ困る。身を粉にして、慈善によって、人々を救う者が、正義でなくて何だというのか。貴女に救われた人々……少なくともレコンの人々は、貴女に心から感謝していた。
「無為自然。それが、私の紆余曲折……いや、もはや屈折した人生の終端で、見出した答えだったんだよ」
なんだよ、それ。作為的じゃなく、自然のままに、在るがままに。字義だけで言えば、そういうことだろうけど。なんなんだよ、どういう意味なんだよ。
「私の働きかけは、きっと人々の生き死にを屈折させてしまう――ううん、それはもう、私という一人の人間が、数多の生殺与奪を掌握してしまっていることに他ならないんだ。私という魔女は、それができてしまう。それが生み出すものなんてのは、畏服であり、権勢であり、支配でしかないんだ。私が望もうと、望まずとも」
それは……でも、仕方のないことだろう。衆愚、などという言葉があるように、人間は賢明なだけが全てじゃない。独立独歩が叶わぬ者のために、牽引する者がいるんじゃないか。
「俺は、そうは思わない。アンタという人がいたから、生きる希望を抱けた人がいるんだ」
だって俺が、そうだ。フリアエがいなければ、きっと今、何の希望もなく、官僚を務めていた――ともすれば、それさえ就けもせず、父には勘当され、ふらふらと賭博にでも嵌まっていたかもしれない。
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