第二十二話

「本当に世話になった。グレートヒェンの面倒も見てくれて、ありがとう。また、ここに来るよ」


「レフさん、お身体に気を付けて。貴方は決して、悪い人なんかじゃありません。きっとまた、会える日を楽しみにしていますね」


 アリアネの手を取り、固く握手をする。この手によって、俺は命を長らえることができたんだな。


「夫はいつも、貴方のことを心に留めております。どうか貴方も、私どものことを、覚えていてくださいね」


 もちろんだ、これだけの恩を頂いて、忘れることなどできようか。俺にとっては、もう一つの生家だよ。


「君のゆく道は、前途多難なる茨の道だ。息つく暇もない、生と死を問う日々となるだろう。だからせめて、祈らせてくれ。君に、幸あれと」


「これは、俺が望んだ道だ。七難八苦を与えよと、天に祈った道だ。だから、貴方たちノワール家という日だまりが心にあるだけで、俺はまた、隘路あいろを、暗中を、進んでいける。心配しないでくれ、俺は誓いを違えたりはしないよ」


 自然と、笑みが零れた。彼らの真心からの声援が、俺の足を立たせている。まだもう少し、一緒にいたいと思ってしまう甘さに、けじめをつけられる。だから、これでお別れだ。


「……ティルがいないな。まあ、あいつには、俺の分までノワール家に尽くしてもらうとするよ」


「あ……ティルさんは、確か広場に――」


 アリアネが口を開いた――その時、不意に玄関扉が開いた。夕焼けに伸びる影、帰りを急ぐその足取り、走ってきたのか乱れる息づかい。振り返ると、そこにいたのは、


「ただいま! 今帰っ――」


 ――トマソン。まさかこのタイミングで、鉢合わせてしまうなんて……。


「レフ……? お前、なぜ、ここに……」


 状況が飲み込めない、唖然とするトマソン。だけど、その手はしっかりと、腰に帯びた剣の柄を握っている。やめろ、今だけは、この場だけは、それを抜くな。


「お兄ちゃんっ! 駄目っ!」


 アリアネの叫び声に、ハッと我に返るトマソン。剣の柄から、静かに手を退ける。歯を軋ませながら、遺憾を湛える顔を伏せた。


「……レフ、表に出ろ」


 何? それはどういう意図があって――


「今すぐにだッ!」


 怒声を放ち、俺を鋭く睨みつける。こんな表情のトマソンなど、見たことがない。たとえ真剣試合であっても、奴が怒りや憎しみで剣を振るうことなど、一度もなかった。悲観に沈む他人に、笑顔を向けられるような男が、ここまでの怒気を纏えるのか。


「……分かった。行こう」


 荒々しく踵を返し、背を向けるまで、憤怒を湛えたその目をずっと、俺に向けていた。


     *


 眩い橙から鮮やかな紫苑へと階調を変え、夕暮れを告げる濃藍の色へと沈んでいく大空に、燕の群れが飛翔していた。地平線の彼方に沈む、煌々と輝く夕日に向かって。


「……どこを向いている。こっちを見ろォッ!」


 俺の眼前には、穏やかな顔立ちには似つかわしくない、険しい顔でこちらを睨みつけるトマソン。今にも掴み掛かってきそうな怒気を纏い、対峙する。


「お前……自分が何をしたのか、分かっているのだろうな」


「当然だ。そうでなければ、こうやって逃げ回っちゃいない」


「クッ! 貴様ァッ!」


 高ぶる感情に伴って、トマソンの魔力が暴れ始める。肌を刺すような魔力の波濤はとうが生まれ、それに呼応して、トマソンのこめかみから伸びた角人族ハウル特有の双角が震えていた。


「やめろ。せめてここでは、戦いたくない。お前の家族には、本当に世話になった。あの人たちを悲しませたくはない」


「……傲るな、外道。俺にお前が殺せないとでも? 差し違えたって、必ず――」


「――違う、そういう意味じゃない。お前の父君、フランクさんは、俺を息子同然と言ってくれた。自分の子供が血で血を洗う姿など、見たくはないとも。だから俺は、お前に殺されてやることも、お前を殺めることもできないんだ」


「ば、馬鹿な……!? 何をっ……世迷い言をっ……!」


「剣を置け、トマソン。俺に出来ることは、対話だけだ」


 胸に絞めたベルトを外し、背負っていた剣を地面に下ろす。これは、俺の覚悟だ。そして、お前という人間ならば、必ず応えてくれるだろうと考えての、信用だ。


「……レフ……お前は、何も変わっていない……そういう、狡いところも、何にも……」


 歯を軋ませる、震える手で、腰に絞めたベルトを外す。剣を落とし、金属の甲高い音を打ち鳴らした。


「当然だ、俺は何も変わっちゃいない。変わる理由がない。俺はただ、フリアエとの約束を、守っているだけなんだから」


「聖女フリアエとの、約束……!? お前、何を言っているのだ……!? あのお方は、教会ウルダの中核を成す最重要人物だ! 教義を体現する奇跡の御身、神聖の化身だ! それが、個人に肩入れするなど、ましてや一介の騎士であるお前が、何を馬鹿なことを……!」


 そうだ、お前たちは何も理解しちゃいない。いや、お前たちからすれば、考える意味も、知る価値さえもないんだろう。ただただ、生ける偶像であり続けてさえいれば、それで良かったんだ。


「あの人は、人間だ。魔女であり、聖女であり、教義の体現者である前に、他ならぬ人間だったんだ。お前に、分かるか? 教会ウルダによって祭り上げられ、信徒たちの篤い信仰を集め報いる機能として利用され、世界中の誰からも崇められながら、誰よりも孤独だったあの人の心を。そんな仕打ちを受けてきたにも関わらず、今際の際にあってさえ、あの人はただ、あらゆる人々の行く末を案じ続けた。聖人と呼ぶにはあまりに人間臭く、常人と呼ぶにはあまりに力を持ちすぎた、悲壮なる人――それが、フリアエ・ノイルという女だ」


 俺の、思いの丈を伝える。それがトマソンに伝わるかは、分からない。でも、あの人が人として生きてきた、その事実だけは、どうか受け取って欲しい。


「……それは、本当か」


 トマソンは目を見開きながら、俺にそう問う。ああ、勿論だ。俺は傍らで、俺たちと何ら変わらぬ微笑みを湛えたあの人を、見てきたんだからな。


「そう……だったのか……。俺は、何も知らずに、教会ウルダのためと思って……我が主のためと思って……」


 お前は、信仰の篤い男だったな。その人となり、その心の在り方は、俺なんかよりも余程、模範的な騎士だ。


「お前が悪いわけじゃない。かといって、フリアエに縋った民が悪いわけでもない。枢機卿の連中によって利用されたとはいえ、貶められたり唆されたりしたわけでもない。そう、悪いのは自分だと、フリアエは言った。己の類い稀な力が、仮初めの安寧をもたらしてしまったと。それが人々にとって、更なる彷徨に繋がってしまうと知りながら、その目に映ってしまった一つでも多くの苦悩を救ってあげたいと願ってしまったと。もはや、どうにもならない自分のその手を止めるため、フリアエは俺に懇願したんだ。自分を、殺してくれと」


「……分からない、何を言っているんだ……俺にはさっぱり、分からないよ、レフ」


 そうだろうな、俺だって最初は何を言ってるのかまるで分からなかった。本当に、気が動転したんじゃないかとさえ思ったよ。でも、違うんだよトマソン。俺には、フリアエが守りたかった人間ってのが、どんな奴なのかを知っている。

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