急 悪魔
第二十一話
濃厚で深みある茶の色を湛えた、湿潤なる沃土に、
だけど、不思議とそこには、甲斐なるものが生まれていた。土に触れ、土を耕し、命を育み、命を頂く、それが農耕か。なるほど、フランクの言っていた、『貴人である前に、土に生かされ、土に眠りゆくのが人間』って言葉が、少しだけ分かった気がする。土に塗れてみて、初めて実感できた気がする。俺は、土の上に生きているんだなと。
大地を駆ける春風が、火照った身体に清涼を届けてくれる。天を仰ぐと、白い綿毛のような雲が点々と浮かんでいた。ふわふわとした毛並みを靡かせ、気持ち良さそうに風に流されていく綿雲の群れ。そんな青く澄んだ大空を見上げていると、天と地の狭間に立つ俺という人間など、とてもちっぽけな存在なんだと気づかせてくれる。凝り固まった自我を解き放って、客観から己と向き合わせてくれる。いつからここは、あったんだろうか。いつからここに、俺たちは生まれたんだろうか。ほんの僅かな時しか刻めぬ定命なる人間には想像もつかない、悠久の時を刻み続けてきた天地なるものは、言い表すのもおこがましいほどに偉大だ。
――海に行こう。あれは現か幻か、熱に浮かされて見せられた、不思議な夢の続きを。
唐突に、俺は思い立った。母なる自然の大いなるを噛み締めて、心に宿った回帰の念。なんだ、まるで本当に、遍歴しているようじゃないか。
人生は長い、この世界は広い。どのみち、この命尽きるまでは、逃げ続けなければならないんだ。せっかくなら、この世界の色んな姿を、この目に焼き付けよう。
「何ぼーっと突っ立ってんだよ! サボってんじゃねぇぞー!」
ふと、見渡す限りの畑にあって、豆粒のように小さく見えるティルの声が
これ、意外と加減が難しいんだよな。
だけどこの仕事、地味ながら案外俺向きかもしれないな。
……と、熱中しているうちに、陽の光が真上から照りつけてきた。もう正午になるか。
「レフ君、ご苦労様だ。流石は
「良かったじゃねぇか、レフ! 一々幅だけ取るその馬鹿でかい図体がようやく有効利用されたな!」
「ティルは
「馬鹿野郎、血を流す道具でなけりゃオレの方が一枚も二枚も上手だっつうの!」
「はっはっは! いいコンビだ、その調子で頼むぞ。では、飯にしようじゃないか」
いい汗を流した後は、腹が減るな。今のうちに、たらふくご馳走になっておくとしよう。
*
アリアネお手製のポトフを食して、俺の腹はご満悦だ。黒胡椒とハーブの芳しさに包まれた甘く柔らかな人参や玉葱が舌で蕩け、マスタードの舌と鼻を仄かに突く心地よい刺激とともに、出汁を良く吸って旨味を湛えた肉を食べる。はぁ……この甘美なるひとときに、溜息が漏れてしまう。
「美味しかったですか? レフさん」
「いや、美味いなんてもんじゃない。満腹になるのが、食べきってしまうのが、惜しいとさえ思うよ」
セレビア辺境伯の城に勤めていた騎士の時代でさえ、これほど美味い飯にありつけたことなど、数える程じゃなかっただろうか。アリアネ、君は良き妻になるよ。
「ふふっ、やっぱり口上がお上手ですね。まるで詩みたい」
「そーいう洒落臭ぇのだけはペラペラ出てくんだもんなぁ。無自覚なタラシってのが一番タチ悪いや」
馬鹿を言え、こういう時は本音しか語らないタチだ、不味ければ不味いと言うさ。
「時に、レフ君。少しいいかな」
「え? あ、ああ。構わない」
神妙な面持ちで席を立つフランク。それに続いて、俺も立ち上がった。
「お、おいレフ、まさかお前……」
「どうだろうな。まあ、少し話をしてくるよ」
恐らく、ティルの危惧する事態が、目前に迫っている、その辺りの話だろう。団欒とした食卓からわざわざ席を外した、なら十中八九間違いないだろう。
左右の書棚一杯に書物が敷き詰められたフランクの書斎に入ると、彼は静かに椅子に座り、素朴な造りをしたテーブルの引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。そこには記されていたのは、『手配書』の文字。
「もはや察しはついているだろうが、我がノワールの村にも、君の名で手配書が回ってきた」
そう言うとフランクは、引き出しからもう一つ、砕けた封蝋が目立つ亜麻紙を取り出した。そこには、トマソンの署名が記されている。恐らくは書簡か。
「我が息子トマソンが部隊を引き連れて、こちらに向かっているとの書簡が届いた。君がこの村にいることを感づいて、というわけではないだろうが、君にとっては最悪の事態と言えるだろう」
そうか、トマソン……遂に、刃を交えることになりそうだな。剣の腕で負ける気はしないが……気の良い奴だった。いつでも陽気に振る舞い、笑顔を絶やさない男だ。あいつがいるだけで、場が和む。出来ることなら――ご家族のためにも、斬りたくはない。
「俺がノワールの村にいるとまでは知らないだろうけど、逃亡した方面は見当がついているんだろうさ。だからトマソンは、わざわざ部隊を編制してまで、こっちに向かっているんだ」
「恐らくは、そうなのだろう。レフ君、すぐに逃げたまえ。息子と争う姿を、私は見たくない。私にとっては君もティル君も、息子同然なのだ。我が子たちが血で血を洗うなど、私には耐えられん……」
……すまない、俺という人間が現れたばかりに、貴方のような善良なる者を傷つけてしまった。俺さえ関わらなければ、息子の里帰りを、大手を振って迎えられたのに。
「本当に、何もかも、すまない。責任を持って、必ず逃げ果せる。トマソンとも争わずにいられるように」
また、新たな誓いが生まれてしまったな。フリアエとの約束を守るだけでも手一杯だというのに、本当に俺は愚かだよ。でも、誓った以上は守り切る。それを破ってしまったら、俺はもう、人ですらなくなってしまう。
「ありがとう、レフ君。君が負い目を感じる必要はない。私は君たちに出会えて、本当に良かったと思っているのだ。人は、人との繋がりの中で生きていく生き物だ。君たちという存在が、私達の生きる張り合いとなる。あんなに賑やかな食卓は久しぶりだった。アリアネも君たちが来てから、いつも腕によりをかけて料理を作っていたんだよ」
そう言ってくれると、心が救われる。俺という不幸しか振り撒かない咎人にも、恩を返せる当てがあったのかと思うと、それだけでも自分を信じられる。
「決して君は、悪じゃない。たとえ悪を背負う立場に甘んじても、それに蝕まれることのない、美しき正義を持っている。それだけは、忘れないでくれ。君こそは、真の聖人だ」
そんな、大層なものじゃないよ。それでも、有り難い言葉だ。貴方の期待に背かぬよう、俺は決して誓いを破らない。フリアエとの約束を
重傷を負って、迷惑を掛けた男がいたんだと。我が友とともに、いつも五月蠅く賑やかな男がいたんだと。わざわざ退路を断つような誓いを立てることでしか、己を表現できない、不器用な男がいたんだと。
俺も貴方のことは、決して忘れない。いつも遠くで微笑んでくれる、もう一人の――お父さん。
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