第二十話
深皿に並々と盛られた、アリアネ嬢お手製のクリームシチューを頬張る。
これは……美味いな。絶妙な塩加減と、鼻を抜ける胡椒とセージの芳しさ、トロトロと舌に溶けるほどに煮込まれたじゃがいもや人参に、舌鼓を打つ。随分と食事らしい食事にありつけていなかったからか、まるで皿にかぶりつくように進んでしまう。行儀が悪いなと自覚を持ちつつも、匙が全く止まらない。気が付けば、一滴残らず平らげてしまっていたじゃないか。
「す、すまない……生来の素行の悪さが出てしまった」
「はっはっは! そんなことを気にする者は、この村にはどこにもおらんよ。懸命に働き、懸命に食べ、懸命に眠る。そこに、見事な作法なるものを気にしている余地などない。我々は燕尾服を身に纏う貴人である前に、土に生かされ、土に眠りゆく、人間なのだ」
「なーんて、説教好きなお父さんは置いといて、まだシチューはありますから、沢山食べて下さいね」
へえ。両親のいる前では、なかなかにお転婆なんだな、アリアネは。ではお言葉に甘えて、もう一皿頂こうかな。深皿を彼女に渡すと、再び皿一杯に並々と盛ってくれた。全くありがたい。
「でもよぅ、領主であるフランクさんが野良仕事に従事するってのも、他では考えられないことだよな。普通、地主や領主って輩は、小作人からの貢納で食ってくもんだろ?」
「ティル、流石に失礼が過ぎないか」
「いやいや、いいんだファウスト君。ティル君の言葉は、民草の誰しもが思う素直なもの。本来なら、我々領主が耳を傾け続けなければならない言葉だ。そう、だからこそ私は、領主である前に、一人の農夫として生きるのだ。ノワールの村を代表する者として、まず私が
このフランクという男は、本当に殊勝な領主のようだ。地位や名声だけで封土を与えられた諸侯は数あれど、民衆の声によって召し上げられた領主というのは、今のところ存在しない。でも彼は多分、民衆の力によって領主という地位を確立できているんだろうな。そうでなければ、統治に無関心な我が父のように、諸侯の間で醜聞が流れていたはずだ。レコンという小さな村の領主に対してさえ、そうなんだから。
「頭が下がる思いだ、フランクさん。遍歴の旅路で、貴方のような人に出会えて良かった」
「はっはっは! ティル君の言う通りの人柄なようだな。謹厳実直、その言葉通りの男だ。私も君のような青年を救えて良かったと思うよ」
「ま、ちと堅いところが玉に瑕だがよ。剣を持たせりゃ軽妙なんだがなぁ」
「ティルさんは少々地に足を着けた方が、男前が上がると思いますよ」
「ヘッ! これ以上上がっちまったら、どこにも行けなくなっちまうんでね! 御免こうむるってんだ!」
全く、何を言ってるんだか。でもまあ、ティルの言わんとすることも一理ある。地に足を着けるということは、奴にとって夢を諦めることと同義だ。できない相談なのは確かだな。
「ところで、ファウスト君は首都ヴァルヘインの王城に勤めていたとのことだが、近衛騎士団に所属していたのかな?」
クッ、まずいな、その手の話に入ったか。正直、あんまり首都の状況なんて知らないんだよな。フリアエから口伝てに聞いただけで、見たことも行ったこともないんだから。ティルめ、ほくそ笑みやがって、恨むぞ。
「いや、俺の所属は飽くまで聖堂騎士団。
「なんと、そうだったのか。私はてっきり宮殿住まいの近衛かと思っていたが、
ふう、何とかなったようだ。何もかもハッタリで、フランクたちには申し訳ないけど、許してくれ。
「オレもてっきり城勤めかと思ってたんだがなぁ。まあ、オマエが騎士になってからはあんまり会う機会もなかったし、誰かさんと勘違いしてたのかもなぁ」
白々しい奴め。お前の出任せ通り、城勤めだなんて言ってみろ。それこそ王城の外観さえも知らない俺だ、何もかもが当てずっぽう、ボロが出ること請け合いだぞ。
「――しかし、ファウストというのは、君の名前なのだな? いや、我が息子のトマソンはな、君と同じく騎士を叙されている。年に一度は必ず、息子から手紙が届くのだが、ファウストという姓を持つご友人にして同僚がおられるそうなのだ」
――嘘だろ、そう来るか。俺はまさか、誘導尋問されているのか? ここまで核心を突けるものなのか。
「……俺は名をファウスト、姓を……ノイルという。なるほど、ご子息の同僚に、ファウストという姓の騎士がいるのか。全く、記憶にはないな。奇妙な縁だけど、偶然だろう」
おいティル、不安を顔に出すな、悟られるだろう。出任せの言い出しっぺとして、お前も手伝え。この話題、どうにか切り抜けるぞ。
「あ、ああ、ファウストって野郎はコイツ以外に、てんで見たことがねぇな。まあそれもそうか、トマソンって息子さんはセレビアの騎士なんだろ? 接点がねぇやな」
「ふむ……確かに奇妙だな。ファウスト君、姓をノイルと言ったか」
「え? ああ、そうだけど」
「――その名は、当家の古き家名と同じものなのだよ」
……何だって? それは、本気なのか。本気で言っているのか。俺はお前から何も聞いていないぞ、トマソン。そんな、フリアエ、貴女の故郷は――ここにあったのか。
「フランクさん……俺の降参だ。すまなかった、恩人に対する仕打ちじゃなかったな……」
「お、おい! オマエ、いいのかよ! 本当にそれで!」
「……咎人は俺だけだ、ティルは見逃してやってくれ。こいつは本当に、ただ俺を救ってくれた、罪のないただの友だ。裁かれるのは俺だけでいい」
「……アンナ、アリアネ、席を外しなさい」
フランクがそう言うと、顔を伏せる二人は静かに席を立ち、居間を後にした。恐らく、ティルの言う通り、俺という人間の素性も、おおよそこうなることも、知っていたんだろう。嗚呼……早速、迷惑を掛けてしまった。まるで疫病神だな、俺って奴は。
「――ファウスト君。いや、君の本当の名は、レフという。相違ないね?」
「……ああ。レフ・レック・ファウスト、それが俺の名だ」
「罪状は、
「……ああ、それだけの事をしたと、理解している。だから父とは、戸籍を断ち切ったんだ」
「ふむ……もし私が、君に罰を下すと言ったら?」
「何が何でも、生き延びる……それが、フリアエとの約束だから」
それだけは譲れない。どれほど信頼を違えようとも、どれほど深手を負おうとも、それだけは。
「……分かった。やはり君は、信用に足る人物のようだ。ただの賊ではないと、私が認めよう」
「……え?」
何? どういうことだ? この期に及んで、俺は飽くまで試されていたのか? 何のために……?
「なに、初めから君をどうこうしようなどと、考えてはいなかった。少なくとも、傷が癒えるまでは責任を持って匿うつもりだ。私はただ、君の本音が聞きたかっただけなのだ。我が遠戚であるフリアエという女を殺めた者が、どういう人となりであるかを、見定めておきたかったのだ」
「な、なぜだ。俺はあの人を、この手で殺めたんだぞ。それを貴方は、許すっていうのか」
「許す、とは少し違うな。端的に言うならば、全うせよ。それが私の答えだ」
全うせよ。それは何とも、重い言葉だ。自分に言い聞かせるだけなら何とでも言えるが、フリアエを知る者からの言葉となると、胸に重くのし掛かってくる。
「フリアエという女を、私は少しだけ知っている。彼女が死する前に一度だけ、語らう機会が巡ってきてね。彼女は過去の激動から、眷属との縁を全て切ったそうだ。代わりに、手の届くだけの人々を救うことを誓った魔女だ。その特異なる力で、あらゆる人々を癒やして回った。それは君もよく知っていることだろう。しかし、そんな驚異の魔力を持つがゆえ、彼女は苦悩した。恐らくは、君という人間でなければ、彼女を殺めることさえ叶わなかったのだろう。だが、君という人間が現れた。だから彼女は君に、己の意志を託したのだそうだ」
ああ、よく知っているよ。あの人はずっと、苦悩していた。前にも踏み込めず、後にも引けず、ただ求められる救いを、ただ粛々と与えてきたんだ。それが、人々にとって、真の救いとはならないことを知りながら。
「君という人間の本性を知って、理解した。レフ君、君ならきっと、あの人の意志を無碍にはしないだろう」
「無論だ、愚問だ。俺は絶対に、フリアエとの約束を、違えたりはしない。だってあの人は、俺の――」
――母、だったんだろう。それは血縁上の話でも、戸籍上の話でもない。形なんて関係ない、だってあの人は確かに、俺に愛を教えてくれた人だから。縁を断ち切った後だけど、不器用な父からの愛に、気付かせてくれた人だから。美しいものを愛でる審美の眼も、目的を遂行するだけの気高き熱情も、友のために身を投げ出せる犠牲の心も、全部あの人から貰ったものだから。
「……縁というのは、摩訶不思議なものだな。己の行いに由来するものもあれば、全くの偶然による
ああ……そのつもりだ。これまでも、これからも、それだけはきっと、変わらないさ。
ノワール邸の居間には、沈黙が流れる。沈鬱とまではいかないけど、かといって、重くないわけでもない。まるで黙祷するかのように、フリアエの血縁者たるフランクの言葉が、脳裏で反芻を続けていた。
冷めきってしまったシチューを一匙、口に運ぶ。嗚呼、美味いものは、熱を失っても、美味いもんなんだな。
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