第十七話

「……おい、起きてっか?」


 扉を叩く音と、ティルの声がする。気がつくと、辺りはもう真っ暗になっていた。鎧戸からの光はなく、暗中にただ、きりぎりすの鳴き声だけが木霊こだまする。


「……ああ、今起きた」


 俺がそう応えると、静かに扉が開かれた。内部に炎の魔石が入った小さなランタンを灯しながら、部屋に入ってくるティル。なんだかコソ泥みたいだなお前。


「……そう身構えんなよ、別に今から夜逃げするっつうんじゃねぇんだ」


 こんな暗がりで、俺の心でも読んだのか? 確かにお前なら今から逃亡したって可笑しくないとは踏んでいたけど。


「……んなザマで強がりなんざ、笑わせらぁ。オマエの傷が癒えるまでは、ここに留まるつもりよ」


「……お前には、何かと世話になるな。ありがとう、ティル」


「よせやい、むず痒っての……いやまあ、俺もアンタの信用を裏切って、んな深手負わせちまった手前があるしよ……」


 ばつの悪い表情をして、そっぽを向く。気にするな、俺は飽くまで追われる身だ。遅かれ早かれ、窮地に立つのが宿命なんだ。だから俺が告げるべき言葉は、ありがとう、で間違いない。


「……少し、立てっか? ここだと流石に話し辛ぇ、ちと場所を移してぇんだ」


「……問題ない、行こう」


 そう言って、俺は身体を起こす。状態は先刻よりも、幾分かは増しになったか。未だに節々が痛みを訴えるが、立ち上がるのに支障はなさそうだ。


「肩は貸せねぇけど……杖代わりにはなるだろ。オレに掴まっとけ」


 随分と甲斐甲斐しいな。別に責任を問うつもりも、謝罪を要求するつもりもないけど、負傷している今のうちに精々甘えさせてもらうよ。


 ティルの肩に掴まりながら、覚束おぼつかない足で寝室を出ると、だだっ広い居間が広がった。そこは、十人近くは座れるだろう長机が大部分を占めていた。居間の隅には使い古されたかまど、天井から吊された横木には鉄鍋やお玉が掛けられ、壁棚には塩漬けの入った壺が並ぶ。頭上に張られた縄には、洗濯をした衣服が干されていた。


 小さなランタンでは、邸内の全容は把握できなかったが、ノワールという村を治める領主が住まう家にしては、やはり随分と質素な佇まいだ。家屋自体は大きい、だけど値の張りそうな什器があるわけでもなく、高名な画家の絵画が掛かっているわけでもない。代わりにあるのは、俺が横になっていた寝室と同様に、すきや鎌が吊されているほか、壁に掛けられた古ぼけた燭台が幾つかと、年季の入った盾が一つ。まずいな、モノの見方が俺までコソ泥みたいだ。


 ティルに連れられて、居間から伸びる階段を上っていく。一歩ごとに軋む音が鳴り響く、踏み外さぬよう慎重に踏みしめる。なぜだろう、悪事を働くつもりなど毛頭ないのに、僅かに緊張感がある。でもまあ、それも致し方ないか。なんせこれだけ世話になっている身にも関わらず、未だに家主への挨拶を済ましちゃいないんだから。それなのに、夜な夜な勝手に邸内を歩き回るなんて、厄介者の極みだな。明日はちゃんと礼を言おう。


 ゆっくりとした足取りで二階に上がると、寝室へと繋がる扉が並んだ廊下が伸びる。ティルは一番手前の扉の前で立ち止まると、ドアノブに手を掛けて押し開ける。そうか、お前も一応はノワール卿の客人扱いになっているのか。誰もいない寝室が広がる、やはりそこも什器は殆ど置かれていない。藁布団が敷かれた簡素な木組みのベッドと、小さな収納棚が、部屋の隅にあるだけだ。


 ティルはランタンの中にある炎の魔石を鎮火させて、ベッド横のサイドテーブルに置くと、部屋の正面に設けられた鎧戸を開け放した。そこから月明かりが射し込み、真っ暗だった寝室を淡い光で照らす。すると、何を思ったか、ティルが窓から飛び出してしまった。


「来いよ、満天の星が見えるぜ」


 そう言ってティルは、窓越しに手を伸ばした。ああ、そういうことか、星空の下で語らおうと。


「……なるほど。意外とロマンチックな男だな、ティルは」


「馬鹿野郎、それをオマエが言うかよ」


 恥じらい隠しに憎まれ口を叩く。いや、悪くない、良い趣味だ。俺は評価するぞ。ティルの伸ばした手を取り、窓枠を乗り越える。藁葺きの屋根に上がって、二人で悠々と寝そべり、天を仰いだ。本当だな、満天の星空が視界一杯に広がっている。星屑に彩られて丸々と煌めく満月は、心の暗がりにも届くようで。嗚呼、まるで清涼なる川瀬に寝そべった時のような、思考や意識に留まった濁りを浄化してくれるかのようだ。


「いいよな、ここ。オマエがぐーすか寝てる間、目が冴えちまった時ゃここでボーっとしてたもんよ」


「ああ、良いところだ。本当に、緊張の糸が解れていくよ。何はともあれ、心配かけさせてすまなかったな」


「し、心配なんざしてねぇよッ! テメェが死んじまったら、テメェの恩師に顔向けできねぇって……それだけだ」


 顔も知らないフリアエの事を、わざわざ慮ってくれたのか。何から何まで、世話になるな。


「……ったく、大袈裟なぐれぇ熱に浮かされやがって。肝を冷やしたぜ」


「アリアネって領主の娘から、死の淵にあったと言われたな。そんなに酷かったのか、俺は」


「馬鹿野郎、面と向かってんなこと言われたこっちの身にもなりやがれってんだ。陸で溺れたみてぇに苦しみやがって」


 溺れる……あの不思議な夢が原因か。あれは、妙に明晰な夢だった。まるで本当に、海辺に居たかのようだった。不思議な少女に窘められながら、フリアエの旅立ちを見送る夢。思えば、まあ、悪くない夢だったか。


「でもよ、こうやって無事逃げ延びられてんのも、思いがけねぇご加護があったからなんだぜ?」


「ん? ご加護って、どういうことだ?」


「いやさ、オマエが寝ちまってよ、オレ独りの手でグレートヒェンを駆らなきゃいけねぇってなった時だよ」


「ああ、加護って、風の精シルフのことか? でもあの時って、お前の背中にもたれ掛かって気を失ってたよな。俺はもう、ただのお荷物になっていたはずだけど」


「それがよぉ、不思議なもんでさぁ。主人が寝静まっちまった後でもよ、やっこさんは健気に護ってくれるのよ。追手の連中とは大分距離開けたつもりだったんだが、しつこく付け回ってきやがったわけだ。その点、オレは騎馬なんざズブの素人、満足に方角も指示できねぇ。真っ正直に逃げてりゃ、そらぁ矢も飛んでくる。それをオマエの僕は、悉く迎え撃っちまったんだ、風のご加護って奴でよ」


 なんだって? そんなことがあり得るのか? 魔法っていうのは、術者の意思や意図に応えて、初めて事象として現れるものだ。それらを司る意識を失っては、起きるものも起きない、それが常道。時限式や呪詛の類でなければ、それが咒術であれ同じこと。なのに、なぜだ。


「……んだよ、何考え込んでんだよ」


「……いや、なんでもない。随分と風の精シルフに懐かれたものだなと思ってさ」


「ヘヘッ! 風を運ぶ精霊に懐かれちまったおたずね者の騎士サマたぁ、そろそろ童話作家からお呼びが掛かりそうじゃねぇか!」


 俺が置かれたメルヘンで劇的な境遇を簡潔に言い表し、笑い転げるティル。なるほど、捉え方一つでガラリと印象が変わるもんだ。


「だがまあ、何だ、とはいえ……すまんかった。自分で仕掛けた罠だってのに、すっかり頭から飛んじまってた。手に負えねぇってのはこういうこったな」


「もう気にするな、過ぎたことだ。それに俺はまだ生きている。それで十分だ」


「そうは言うがよ……気にしちまうもんは気にしちまう。オレの……と、と、友をよ、騙すような真似しちまったのは、オレ自身が許せねぇ」


 そこで恥じらうか。ティルの羞恥心のツボがよく分からないな。俺もお前のことは友だと思っている。でなければ、こう隣り合って話しちゃいないだろ。

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