第十三話

「いやいや、そんなことはぁない。ただぁ、疲れた身体には、ちと効くなぁ」


 早くも呂律が回り辛い。いやはや、これは本当に疲れているな。意識は浮ついているのに、身体は泥のように鈍い。背筋を伸ばしていることさえ億劫おっくうだ。食事の席で行儀は悪いが、テーブルの上で頬杖をついた。


「ま、オマエさんも色々あったわけだ。酒にぶつけたくなる気持ちぁ分かっけどよ」


「へぇ〜……ティルにもそんなぁ時がぁ、あるんだなぁ」


「馬鹿野郎、ったりめぇだ。産みの苦しみってのは作り手全員が抱える地獄よ。土壺に嵌まった日にゃ、金槌ぶん投げたい苛立ちを酒にぶつけにゃ収まんねぇもんよ」


 かっかと笑い声を上げながら、早くも一杯飲み干してしまった。ティルは立ち上がり、葡萄酒の入った樽の栓を抜いて、杯になみなみ注いでいく。


「そうだなぁ、俺はぁ……作る側の気持ちってのはぁ、分からないなぁ」


「だってアンタは使う側だろ? なら、んなもん知らなくていい」


 そう言って、ティルはまた浴びるように搔っ食らう。そうなのか? 理解のある相手の方が、仕事の関係としちゃ都合がいい気もするけど。


「ん〜? なんでだぁ? 知ってた方が、共感できて、依頼とか受けやすいと、思うんだがなぁ」


「あ〜、そうだな、オレの信条……いや、親父の信条って言った方がいいか。端的に言や『使う奴がいて初めて道具』ってことよ。レフの持つ剣や鎧なんてのは、オレたち作り手にゃ無用の長物。貴族どもが身に着ける礼装だって、オレたちにとっちゃ動きづれぇだけ。要は、オレたちが作ってるモンを、オレたちが持ってたところで、決して道具にゃならねぇのよ」


「いや、う〜ん……まあ、確かに、そういうもんかぁ」


「むしろオレからすりゃ、んな華やかな装いを貰うより、アンタら使い手の生の声が聞きてぇ。なんだっていい、ココが使いづれぇ、ココが素朴だ、ココにアレを入れてくれ、ココが邪魔だ。そいつが仮に、無茶な要求だって構わねぇのよ。それを望み通り叶えちまうのが職人だろ? これまで出来なかったことでも、出来るようにしなけりゃ、これからもぜってぇ出来やしねぇんだからよ。出来ねぇまんまじゃ、人間、進歩はねぇ」


 酔いを醒ます、胸を突く言葉だ。そして――フリアエが愛する人間の形だ。立ちはだかる壁を乗り越えるまで、決して立ち止まることのない、命の本性。ティルの言葉には、あの人が教えてくれた、人の希望が詰まっていた。


「なるほどなぁ……必要は発明の母、だねぇ」


「へぇ! 流石は騎士様、一丁前にこっち側の良い言葉知ってんのな。オレの御託が一言で全部集約されてんじゃねぇか。それ、オレも使わせてもらうぜ」


「……俺のじゃないから、好きに使ってくれ」


 なんだか、ティルには驚かされてばかりだな。最初はただの小狡い小男だと思っていた。もし下手な真似や、妙な動きがあれば、首を刎ねてしまえばいい、そう考えてさえいた。でも今や、俺の目の前にいる奴は、凄い男だ。これからの活躍を楽しみにさせてくれる男だ。


 初めの無様な命乞いをした姿からは、想像もつかな――いや、違う。結局、ティルにとっての矜持の所在が、滑稽だとか恥辱だとか醜聞だとかに苦悩するような、取るに足らない次元にはないってだけだ。そんなものは置き去りにして、こいつは何より、遠くに見える大きな背中を追っているんだ。


「格好良いよ、ティル。筋の通った、お前のその生き様は」


「な、なんだよ急に、気持ちわりぃなぁ。大体テメェは一々大袈裟なんだよ」


 何だろうな、男としての対抗意識さえ湧かない、この素直に褒め称えられる心持ちは。ああそうか、俺はもう、人々がこれからも育んでいくだろう社会に、舞い戻れる身ではないからなのか。惰性で生きてしまっていた毎日が、こんなに夢を描いていい毎日だったなんて。


「……レフはさ、おたずね者なわけだ。しかも、教会ウルダの連中を敵に回した。フリアエなんて言や、信仰沙汰に無縁のオレだって聞いたことがある。奇跡の聖女サマっつってな」


 全くだ。あの人は言わば、教会ウルダへの信仰を集める柱だったんだ。それを失ったとみれば、俺を火炙りにしたって足りないだろうさ。それこそ、史籍にさえ残るかも知れないな。無論、希代の大罪人としてだが。


「それでも、アンタはアンタの筋を通した。恩師の願いを、アンタは背負ってる――ならよ、それこそ思い悩む必要もねぇんじゃねぇか?」


「――え?」


「いやだってよぉ、もうアンタの人生の目的は決まったも同然なわけじゃねぇか。要は、逃げ切りゃ勝ちだ」


 ハ、ハハ。なるほど、確かに、その通りかも知れない。逃げ切れば勝ち、至極単純な話だが、それこそ真理だ。悪である俺が生き延びれば生き延びるほど、フリアエの理想に近づいていく。それは決して綺麗な感情じゃないかも知れないけど、俺を憎み恨む心が、人々の独立独歩を後押しする。


 なんだ、簡単な話じゃないか。いや、面倒に考えすぎて、保身に走りすぎて、失念していた。ただ逃げ切ればいい、俺に悪の烙印を押す者共から。むざむざとこの首を渡す必要なんてない。それで、フリアエが帰ってくるわけじゃないんだから。いや、帰ってきてしまう方が余程あの人を裏切ることになるか? まあ、戯れだ。


     *


 ティルと杯を交わし、他愛もない世間話に花を咲かせていた。


 初めて騎乗した日、俺がグレートヒェンに振り落とされた話。真剣での試合で肩口に創傷した話。同僚とポーカーで遊んでいた際に、人生で一度だけロイヤルストレートフラッシュを揃えた話。その同僚の一人が領主セレビア辺境伯から反感を買ってしまい、斬首は免れたものの、僻地に飛ばされてしまった話。


 ティルはティルで、初めて父と酒を酌み交わした日に、興奮から飲み過ぎて卒倒した話。独りぼっちになって途方に暮れ、飲まず食わずから村の外れで倒れていたところを、村人の男に救われた話。それから返礼として、持ち前の器用さで牛の背に乗りながらジャグリングをして、道化に扮して小金を貯めた話。でも、道化が過ぎてか、職人としての矜持が高ぶってか、その村にいた工芸家を扱き下ろして、村を追い出された話。


 今は過ぎ去りし、思い返すだけの日々を、まるで昨日のように語り尽くす。大の大人が二人には小さなテーブル、紅く破顔する面容だけを暗闇の中から浮かび上がらせる蝋燭、語り合いの隙間を埋めるように耳をくすぐる梟のさえずり。


 それは、なんて平穏な時間だろうか。恩師殺しの人間には、勿体ないほど甘美なひとときだ。友を捨てた俺に、また友が出来てしまった。嗚呼、この感情は、恐怖だ。俺のこの手じゃ、また失ってしまう。仮にもし、欲をかいて握り締めたのなら、目の前で微笑む無垢な夢を砕いてしまいそうで。


 そんな、不安に駆られる心が、表情に影を落としたか。俺の顔を見て、ティルが眉を顰める。


「お、おい、どうした? 飲み過ぎたか? 気持ちわりぃのか?」


 悪いな、ティル。せっかくの酒の席に、水を差してしまったようだ。俺の無粋な厭世観が、心の隙間から湧き上がってこないよう、忘却の薬湯で飲み下してしまおうか。


「いや、悪い。なんでもな――」


 ――臭う……何か、臭う。


 この、微かに鼻を突く臭い、鼻孔に塵が纏わり付くような感覚。先の不安と焦燥から、陶酔のまどろみが醒めたか、それまで麻痺していた神経が疼き始める。この臭いは……まずい。


「おいレフ、だからどうしたってんだ……」


 フッと、蝋燭を吹き消す。杯をテーブルに置いて、椅子からにわかに決起し、格子状に枝葉で覆われた戸口から、静かに頭だけを出した――その瞬間、眼前に迫り来る、鋭く尖った閃光が一筋。咄嗟に頭を引いて身を躱す。その閃光は戸口の枝葉に絡み取られ、敷居を跨がせない……冷静な眼で認めた、閃光の正体は、矢尻に焔を煌々と携えた、一本の火矢。


 恐らく、俺を屠らんとする追手の仕業か。炎の魔手がこの隠れ家の戸口に到達して間も無く、新たなる火矢が地上から無数に撃ち放たれる。たちまち火の手は、俺たちの逃げ道を塞いでいった。

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