第8話 朝鮮半島波高し
私は気が重かった。
ここまではいい。日本と中国における歴史介入であり、碧海作戦そのものが、言ってみれば日本と中国の共同作戦であったからだ。
だが、ここからは違う。第三国を巻き込むことになる。第三国とは、李氏朝鮮である。韓国のテレビに出演した時のトラウマが蘇ってくる。それに元々の私の考えは侵略というものに否定的であり、罪悪感をもってしまう。
朝鮮半島の歴史は、檀君朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮に始まる。これらは古朝鮮と呼ばれ、神話の霧の中だ。
紀元前一〇八年、「漢」は衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡を設置する。朝鮮半島は漢の版図に組み込まれたのだ。その後、高句麗、新羅、百済が建国し三国時代となる。中国と国境を接する高句麗は、中国の統一王朝、「隋」、そして「唐」から相次いで攻撃を受けている。六七六年、新羅は高句麗、百済を滅ぼし、半島は統一新羅の時代を迎えることになる。
九一八年、再び分裂した朝鮮半島を統一した
一三九二年、クーデターにより高麗から王権を簒奪した
こうした歴史を持つ国を今から侵略するのだ。考えただけで気鬱になる。
私は研究室に顔を出さず、自分のオフィスに引きこもっていた。
「おーい、先生。」
戸部典子だ。なにが「おーい」だ。
あらかた李博士あたりから私の様子を見てこいと指示されたのだろう。
「溺れる者は藁をもつかむ」、とはよく言ったもので、このときの私はあろうことか戸部典子に悩みを打ち明けてしまったのだ。血迷ったとしか言いようが無い。
「なに言ってるなりか、これから戦国オールスターズが大活躍なりよ!」
相変わらず能天気な奴だ。
「こーんなの、大河ドラマじゃ、ぜーったい見られないなりー。」
確かに日本の大河ドラマで、朝鮮出兵時の戦国武将の大活躍なんか描いたら、外交問題になる。日本では韓国への気遣いで、これをタブーにしている。
「あたしは大学の研究室で文禄・慶長の役の文献を読み漁ったなり。」
そういえば、私の予算で購入した高価な書籍は、この時代の朝鮮の資料だったような気がする。
「すっごいのだー。文禄の役の時なんか、開戦から二十一日で首都・
戸部典子は刀をぶんぶん振り回す仕草をしている。
中国、朝鮮、日本。あらゆる歴史的文献を読みこなす力がありながら、あげくの果てがこれだ。
それでも戸部典子、お前は正しい。だが、そういう正しさだけが正しい歴史ではない。あー、何を言っているのか自分でもわからなくなる。
そうなのだ、当時の朝鮮は武力では日本に及ばない。戦国時代を通して鍛えに鍛えぬいた日本の戦国武将と、明の
それに、当時の李氏朝鮮の政治は決してよくない。官吏たちは政争に明け暮れ、民衆を顧みることはなかった。漢城府に入った豊臣軍を、朝鮮の民衆が食べ物を差し出して迎えたというルイス・フロイスの記録が残っているくらいなのだ。彼らは豊臣軍を解放軍だと思ったらしい。
「ルイス君もびっくりなりよっ!」
戸部典子は大口を開けてびっくりの表情を作っている。同じ日本人として恥ずかしい。
日本の自称良識派は、朝鮮の民衆は豊臣軍が解放軍ではなく侵略軍であると気づき、反撃に転じたなどと説明しているが、少々無理がある。十六世紀の民衆に李氏朝鮮への帰属意識があるわけではないし、ましてや愛国心などは近代の産物である。漢城府を逃げ出した国王、宣祖はその道中で民衆から石つぶてを投げつけられているくらいなのだ。
この頃の朝鮮半島では作物の不作が続き飢饉が起こっていた。李王朝は民衆の苦しみに見向きもしなかった。そんな民衆が豊臣軍を解放軍と勘違いしても何ら不思議ではない。
豊臣軍と戦ったのは明の援軍であり、李氏朝鮮の武将たちの多くは逃げてばかりだったのだ。逃げ回るだけならいいのだが、派閥争いで足の引っ張り合いをする始末である。
それでも豊臣軍は侵略軍なのだ。豊臣秀吉という暴君が行った悪辣な侵略であることに変わりはない。
だが、「毒を食らえば皿まで」だ。
戸部典子、おまえにも毒を食らわしてやる。
第三号作戦開始。
朝鮮半島の制圧である。
一五八四年五月、信長は兵を休ませることなく、大船団を組み対馬海峡を渡り朝鮮半島を蹂躙した。豊臣秀吉の朝鮮出兵よりも九年早い。
信長のパシリ、伊達政宗は自ら先陣を望み、部下の片倉小十郎を従えて大活躍をしていた。
慶尚道に進軍する織田軍を、朝鮮の武将たちは阻む術さええ持たなかた。槍を交えるくらいならばマシなほうであり、織田軍の姿を見ただけで逃げていくのだ。
明の冊封を受けていた朝鮮の李王朝は、宗主国に救援を求めたが、もはや弱体化した明にその余力はない。ここでも碧海作戦の意図は確実に実行されている。
改変前の秀吉の朝鮮侵攻にしても、明の援軍がなければ豊臣軍の勝利で終わっていた可能性があるのだ。その上、織田軍は豊臣軍に比べ統率がとれており強力なのである。
朝鮮半島上陸から十二日にして、織田軍は首都、漢城府を包囲した。
漢城府は守りの兵にも事欠くありさまであり、李王朝は首都、漢城を放棄し、国王、宣祖は織田軍に怯えきって着の身着のままで逃げ出したのだ。
「あっけないものですわね。」
李博士が髪を撫でつけながら、まるで当然のことのように言った。まあ、初戦からもたついていてはこれからの大陸侵攻も先が思いやられると言うことだ。クリーム色のスーツに身を包んだ李博士は通信パネルに屈みこむようにして人民解放軍からの報告を確認している。ハイヒールから伸びる優雅な脚をクロスしているのが素敵だ。
「政宗君、カッコいいのだー。」
戸部典子は大喜びだった。伊達政宗に黄色い声援を送ってやがる。
ぴょんぴょん飛び上がって喜んでいるこいつは、いつも黒いスーツにベタ靴で、色気もへったくれも無い。
戦国武将教にハマりつつある人民解放軍の女性兵士たちも、伊達、片倉の二人の若武者にうっとりしている。その度に、陳博士が「クサッテル、クサッテル」という謎の日本語をつぶやいている。
韓国では、反日デモが起った。
侵略者、織田信長を糾弾するとのプラカードが上がり、日の丸と織田家の家紋「木瓜紋」の旗が焼かれた。だが、碧海作戦が送ってくる映像は事実であり、彼らがどう騒ごうと、その声が戦国武将たちに届くはずもない。
やがて、デモに集まった人々のなかにひとつの希望が生まれた。救国の英雄・
李舜臣は文禄・慶長の役の折、唯一と言っていいだろう、豊臣軍に一矢報いた朝鮮水軍の武将である。
この時代ではようやく軍官になったばかりのはずだが、碧海作戦の歴史介入により、異例の大出世を遂げて若き司令官となっていたのだ。
恐るべし、中国共産党。
朝鮮軍にも少しばかりいい場面を作ってやることで、韓国世論を柔げようという腹だ。
李舜臣は秘密兵器「
これは驚いた。亀甲船は竜骨を備えている。竜骨とは、船底を船首から船尾まで一本の木材をとおすように配置された構造材のことだ。この当時では南蛮船が備えていた構造である。
亀甲船は小舟ではあったが、すばらしい機動力である。まるでガレー船のようにいく本もの櫂が動力となって、波を切って水上を自由自在に駆け巡る。甲板を鉄で覆っていたというのは俗説であったようだ。鉄で船体が重くなればせっかくの機動力が失われる。
李舜臣は海上におけるゲリラ戦を展開した。織田軍の補給を担う輸送船を焼き払っていったのだ。その勢いは凄まじかった。
韓国国民は大喜びだった。ただこの喜びは、戸部典子の大喜びと同じレヴェルのものだ。中国政府の世論操作に操られているに過ぎない。
さすがの信長も李舜臣のゲリラ活動に手を焼いた。信長の軍団を朝鮮半島に輸送した船のほとんどが戦艦ではなく輸送船であったからだ。この時点で信長は、水上戦闘を念頭に置いていなかったのかもしれない。
だが既に、北九州の名護屋では九鬼水軍が動き出していたのだ。改変前の歴史において、毛利率いる村上水軍を迎え撃った「鉄甲船」が次々にロールアウトされていた。
「
戸部典子は新たな戦国武将の登場に大喜びだ。
九鬼義隆。別名、海賊大名である。
鉄甲船は南蛮船の構造を採用し、竜骨を備えた巨大な船だ。その名のとおり船体を鉄板で覆っている。改変前の歴史では瀬戸内海で使用されたのだが、今回は外洋で戦うのだ。三本マストの白い帆が風を受け、竜骨が波を切る。九鬼嘉隆が指揮を執る織田艦隊が出現したのだ
鉄甲船の船団が対馬海峡を押し渡る。
李舜臣は亀甲船を出動させ迎撃にあたったが、火攻めを得意とする李舜臣の戦法は鉄甲船には無効だった。機動力を生かした亀甲船はそれでも九鬼水軍を翻弄するも、とどめは実にあっけなかった。
鉄甲船の左右に備え付けられたフランキー砲が火を噴いた。
「行くなり! 九鬼水軍。亀甲船なんか吹っ飛ばすのだ。」
水面にいくつもの水柱があがり、亀甲船はその波を受けてコントロールを失っていく。その隙をついて鉄甲船の甲板から鉄砲による一斉射撃が開始されたのだ。李舜臣は流れ弾に当たって死んだ。
改変前の歴史どおりの死に様だったが、あまりにも寂しすぎる。
李舜臣は気の毒な武将である。改変前の歴史でも上司との不和や讒言にあったりして何度も降格されたり更迭されたりしている。彼は李王朝の激しい党争に巻き込まれ十分に活躍することができなかった。
その代わり、死後は李王朝によって「忠武公」と
韓国国民は落胆していた。
韓流ドラマや映画に出てくる李舜臣は亀甲船を駆使して、豊臣軍に大打撃を与えている。
私も韓流の時代劇は大好きだ。ネットのストリーミングなどで見始めると、あっという間に朝になってしまう。だが、そのほとんどが歴史劇というよりは歴史ファンタジーである。
本物の歴史はファンタジーではない。歴史を理解するには残酷を受け入れる覚悟がいる。
再び反日デモが起ったが、デモに勢いがなく、なんとなく寂し気に見えた。
朝鮮王、宣祖は苦難を重ねながら北へと逃げた。途中、民衆から石を投げつけられ、民衆の李王朝に対する怨嗟を思い知ることになる。ようやく
ところで戸部典子君、「冊封」を定義できるか?
「中華の天子と周辺国が結ぶ主従関係なり。中国から国王に認定して貰う代わりに属国になるなり。でも属国になったからといってお互いあんまり義務はないなりね。」
李氏朝鮮みたいに宗主国に援軍を送ってもらえることもあるが、海を隔てた日本では期待できそうにない。名目上の主従関係であるが、相互不可侵条約に似ている。
「西欧の植民地支配とはずいぶん違うなりな。」
漢城府に入った信長は進軍を停止した。ここで予想外のことが起こった。どういうわけか信長は北進を中止し、再び大船団を編成して黄海へ出帆、山東半島へと渡ったのだ。
朝鮮半島には羽柴秀吉が残され、織田軍への補給と、北方に残った李王朝へのけん制を任された。
私はほっとした。これでもう朝鮮の皆様に、ご迷惑をおかけしなくて済む。
「信長様、これはいったいどういうことなりか?」
戸部典子の目が点になっている。
この時、信長のなかにひらめきのようなものがあったのではないかと私は想像する。
李舜臣との戦いで、巨大な水軍を呼び寄せたことが信長の契機になったに違いない。海をこえ、日本列島から外に出たことによって、信長の世界観が大きくひろがったのではないか。
それはやがて信長のユニークな構想となっていくのだ。
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