第20話 東アジア海洋帝国

 碧海作戦、第六号の発動がひっそりと宣言された。

 といっても、もはや積極的に歴史に介入する必要はなかった。ただ、成り行きを見守るのみだ。


 歴史の流れが新たに分岐すると、そこから一気に現代までの歴史が創造されるわけではない。私たちの時間で一年の間に、だいたい半世紀弱の歴史が生成される。ビデオテープの早回しみたいにして私たちは歴史を観察することになる。

 いちど物理学の専門家にどうしてそんなふうになるのか、という疑問に答えてもらったが、私にも、陳博士にも、李博士にも、さっぱり理解できなかった。わしらは三馬鹿トリオだ。


 ヌルハチの軍団を葬り去った信長は、北伐を開始した。

 まずは北京の制圧である。大部隊を失った清王朝に抵抗するすべはなく、残存兵力は満州の大地に帰っていった。上杉景勝を大将とする軍は黄河を遡りながら中原を支配下に収めていった。

 信長は満州へと兵を進め、満州族を服属させた。ただ、満州族には最大の敬意を払った。瀋陽にヌルハチの廟を建て、信長自らヌルハチの冥福を祈った。戦いにおいて勇猛であり、清王朝の統治は優れたものであったからだ。

 有用か、無用か。有能か、無能か。

 それが信長の判断基準だったのだ。ヌルハチの一族、愛新覚羅氏は海王朝の保護を受け、次世代には素晴らしい能力を発揮するだろう。


 信長は、さらに朝鮮半島北部に軍を進め、朝鮮半島南部の羽柴軍と挟撃して平壌ピョンヤンの李氏朝鮮を攻めた。このとき羽柴秀吉は既にこの世になく、おいの秀次が後を継いでいた。

 平壌を包囲すること十日にして、既に戦力を失っていた李氏朝鮮は降伏した。李王朝は属国になることを条件に延命を計ろうとしたが、信長は許さなかった。

 平壌包囲には朝鮮の農民反乱軍も協力していたのだ。

 信長は李王朝が既に統治力を失っており、利用価値さえ無いと判断したのだ。

 信長に首都を追われ、平壌に逃れた後は、ヌルハチに服属し出兵まで強要されたのだ。民心が離れるのも無理はない。

 信長の判断は残酷なものだった。朝鮮王、宣祖は儒教を重視するあまり官僚たちの対立を招き、民衆のための政治を疎かにしてしまったのは事実だ。

 気の毒にも、李氏朝鮮はここに滅亡した。


 韓国ではデモが発生した。反日・反中・反碧海だ。

 一方では織田信長の祖先は朝鮮半島からやってきた渡来人であるとの説が囁かれだし、いつの間にか、信長は韓国人であるとされた。韓国人が朝鮮半島を制圧し、中国に王朝まで建てたのだ。これを韓国は誇るべきだというのである。

 何でもかんでも韓国に起源があるとする韓国起源説である。韓国起源説によると侍や忍者、茶道などの日本特有の文化も韓国に起源があるとされる。孔子や李白など、中国の偉人たちも韓国人になるのだから、信長が韓国人だったとしても何の不思議も無いのだ。

 ひどいのになるとイギリス人の祖先は韓国人という頭のグラグラしそうな主張まである。突拍子もない説ではあるが、これで碧海作戦を納得してくれるのだからありがたいものだ。


 中国に圧力をかけられ、これまで沈黙を守っていた北の将軍様も、この時ばかりは国民を前に大演説を行った。

 「この悲しみを怒りに変えて、起てよ国民!」というわけだ。

 独裁者が何を言うか!


 海王朝は民衆に対しては寛大である。朝鮮の民は海王朝の民となったのだ。朝鮮の優れた技術や芸術は保護され、新しい産業として育成されることになる。厳格だった身分制も実力重視に変えられていくだろう。李王朝が小中華の証としてたてまつった儒教のドグマから解き放たれていくのだ。

 信長は李王朝の王族や貴族をすべて平民の身分に落とし、奴婢の身分を廃止した。私たちの感覚からすれば、これは市民の平等が実現されたことになる。だが、この時代に市民などという意識を民衆は持ち得なかった。民衆は信長の平等政策に不安になり、身分制度の復活を望んだが信長はこれを否とした。民衆の予感は、ある意味的を射ていたのかもしれない。

 信長の政策は実力主義である。あらゆる人々は能力を競い合うことを要求された。能力の高い者は社会的地位を上昇させ、低い者は社会の底辺に置かれた。人々のなかには李王朝の儒教政策を懐かしむ者も少なくなかった。


 北伐が終了すると信長は南征に転じた、台湾には亡命政権である南明王朝があった。柴田勝家が台湾に兵を進めたが、密林に潜んだ南明の武将たちはゲリラ戦で応酬した。戦況は一進一退であった。

 信長は台湾の孤立を狙い、南明と交易していた琉球王国を攻めることにした。鉄甲船が琉球に出動した。その異様な姿だけでも十分だった。フランキー砲の砲撃一発で首里城は恐慌状態になった。その翌日。尚寧王しょうねいおうが降伏勧告を受け入れ、首里城は開城した。琉球王国の滅亡である。この後、琉球は直轄支配されることになる。

 信長は西南諸島の島々を次々に支配下に置いていった。

 島々に交易の補給基地を作る為である。

 尖閣諸島が信長の支配下に収まったとき、日本国民は歓声をあげて喜んだ。

 おいおい、尖閣は中国の版図に組み込まれたのだぞ。

 信長は日本人だが中華の皇帝である。この理屈が島国の住人たちには理解しにくいのだろう。 


 中国本土は各地に役人が派遣され中央集権化による支配が実行された。朝鮮半島は羽柴秀次が治めていたが、彼は朝鮮総督であり封建領主ではない。今後も世襲が許されるとは限らない。

 日本列島には封建領主が残されたが、二十万石以上の領地を持つ者は島津、毛利、長曾我部、浅井、上杉、伊達など少数である。これらは独立公国として生き延びるのだが、中華帝国の版図からすれば微々たるものである。ただ、維新の原動力となる薩摩。長州、土佐が遺されたことは興味深い。

 その他の日本列島は中華帝国の直轄地か小大名の領地であった。関が原の結果、徳川とそれに加担した大名の領地は召し上げられ、関東はほぼ直轄地になっていた。

 官僚や武将には領地ではなく俸禄が与えられた。俸禄は実力と成果によって決められるため、必ずしも世襲されるとは限らない。信長の方針はあくまでも実力主義である。

   

 改変前の歴史では、清王朝は中華帝国最大の版図を築く。乾隆帝の時代にはチベットや中央アジアに対する侵略が行われ西域を支配下に置いた。モンゴルや満州も版図に組込まれ、ロシアとはネルチンスク条約を結んで東北部の国境を画定した。この条約は清王朝に有利なものであり、ロシアの不凍港獲得の野望を阻んだのだ。

 これに反して、信長は内陸には全く興味を示さない。

 東西の交易は海が舞台であり、もはやシルクロードは必要なくなっていた。

 中華帝国は大陸の華北、華中、華南と満州、朝鮮半島、日本列島によって版図を構成していた。

 異民族の侵入には、当時、世界最強の火砲をもってこれに応じた。


 帝国の中心は海である。中華帝国というよりは東アジア海洋帝国と呼ぶにふさわしい。

 中国政府の要人たちはその芋虫のような版図を眺めて、何か納得がいかないという表情をしていた。世界征服をやるつもりが、東アジアに超経済大国が誕生してしまったのである。優秀な中国共産党の指導者たちをしてなお、理屈としては理解できても、不快な感情を払拭できなかったようだ。ある中国政府の要人は私に騙されたのだと言っているらしいが、私は騙した覚えはない。歴史認識が甘いのだよ。中国共産党の諸君。

 李博士は、私がこうなることを予測していたのではないかと言ったが、歴史の予測など当たったためしがない。昔も、今も、だ。

 

 勝海舟は日本、中国、朝鮮が同盟して西欧の侵略に対して抵抗する構想を抱いた。その後の東アジアの歴史は海舟が望んだものとは全く違ったものになった。

 福沢諭吉は「脱亜論」を唱えた。朝鮮や中国などアジア諸国に絶望したからだ。福沢は絶望してなおアジアの留学生たちを積極的に慶應義塾に受け入れた。

 もし、勝海舟や福沢諭吉が、信長の中華帝国を見たら何と言うだろう。


 海王朝は征服王朝である。かつて中国では数々の征服王朝が建ったが、いずれも少数民族が人口の多い漢民族を支配することに苦心しなければならなかった。

 だが、日本人は少数ではなかったのだ。この時代の日本人と中国人の人口は共に三千万人くらいで拮抗していた。信長の天下統一後、平和な時代が続いた日本では人口が倍増し、明末からの戦乱で中国の人口は激減していたからだ。介入前の歴史でも、江戸時代初期には日本の人口は中国のそれを上回っていたというデータがあるくらいなのだ。

 日本人というのは狭い国土のなかでひしめき合うのが大好きな民族のようだ。

 その日本人たちが大挙して大陸に押し寄せてきたのだ。ある者は成功と栄達を求めて。ある者は人生の起死回生を賭けて。いずれも一攫千金を夢見るようなやる気満々のギラギラした奴らだ。


 中国の各都市ではカタコトの日本語が通用していた。日本人相手の商売が大流行し、怪しげな日本語の物売りや客引きの声が巷に溢れることとなったのだ。

 ルイス・フロイスは著書「東アジア史」に書き残している。

 「当初、この規律正しい支配者を歓迎した中国人たちは、やがてその口やかましさに閉口し、犬のようだと揶揄しだした。唐土の民は礼教の民だと信じていた日本人は、実際に接してみるとその海千山千ぶりに翻弄され、猿のようだと罵った。犬猿の仲ではあったが、いったんこの犬と猿が協力すると目覚しい成果を挙げる。」

 フロイスの視点は面白い。地方官吏などは日本人と中国人をコンビで送り込むのが良しとされた。絶妙のボケとツッコミで見事な行政手腕を発揮するのだ。


 公用語は上海語を基本とされたが、人々は様々な言葉を話していた。日本や朝鮮の知識階級は漢文に慣れ親しんでいたので文書によるやりとりには支障をきたさなかった。このころはベトナムも漢字を使っている。

 商人たちはみな複数の言語を憶えた。同じ中国語でも地域によって発音が違うし、そこに日本語や朝鮮語が加わっただけなのだ。大まかな意思の疎通さえできれば、漢文で最終確認を行う。商売というのはこれで成り立つのである。


 中華帝国には世界中からありとあらゆる物産が集められた。輸出品は絹織物や陶磁器、茶などであった。絹と茶は主にヨーロッパへ輸出され、替わりに大量の銀が流入した。西欧諸国が新大陸アメリカから持ってきた銀が地球をぐるりと廻って東アジアへもたらされたのだ。

 経済活動はバブルといってもいいほどの活況を呈していた。インフレーションが起こり、物価は上昇して行った。沿岸部の都市を中心に商品経済が浸透しつつあった。

 この経済の変動は地主階級の力を弱め、替わって商人たちが力を蓄えた。商人たちは新しい階級を形成し、そのエネルギーは農村への搾取に向かわず、海に向けられた。海王朝の重商主義政策の後押しもあり、商人たちは世界の海に飛び出していった。

 東アジアの船はインドや中東、ヨーロッパまで出かけていった。海は東西からの船が行き交い、文物が激しく往来した。


 日本列島も朝鮮半島も中華帝国の一員となった。

 中国と朝鮮を征服したはずの日本という国はいつの間にか消滅していた。 


 いろいろ問題はあるが、碧海作戦は概ね順調だ。

 だが、何かが足りない。

 中国人の研究者たちは相変わらず早口の中国語をまくしたてているが、研究室が妙に静かに思えた。

 そうだ、戸部典子、あいつがいないのだ。

 いまいましい奴だったが、ぽっかりと穴があいてしまったみたいだ。

 研究室の中央テーブルの上には戸部典子が遺した戦国武将のフィギュアが放置されたままだ。

 テーブルの上の戦国武将たちも、みんな寂しそうに見えた。

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