第19話 売国奴

 密かに、碧海作戦に中止命令が下った。

 中国政府の指導者たちが織田信長に不快感を示しているという。確かに織田信長はやり過ぎたきらいがある。中国政府の予測も期待も裏切り続けているのかもしれない。 

 「虎を野に放ってしまった」、との思いが中国政府の首脳たちの認識なのだ。この場合の「野」とは、彼ら中国の庭先というわけだ。

 彼らは信長の暗殺さえ考えているというのだ。

 齢六十を過ぎた信長を今さら暗殺してどうしようというのだ。

 歴史を遡って、朝鮮半島を侵略するまえの信長を暗殺するという。

 馬鹿も休み休み言え。遡って暗殺すれば、そこから別の歴史が枝分かれするだけだ。一度創ってしまった歴史は変えようがないのだ。

 もし中国政府が碧海作戦の失敗を宣言し、その歴史を隠蔽しようとしても無駄なことだ。他国、特に西欧諸国は「失敗した歴史」を追跡し世界中に公表し笑いものにするだろう。面子を重んじる中国人には耐え難い屈辱である。現に今だって、我々が創っている歴史を世界中が監視しているはずだ。

 中国政府には碧海作戦の失敗を宣言することは不可能なのだ。

 これが歴史の罠というものなのだ。


 私はたかをくくっていた。その当時、私はアメリカ政府からオファー受けており、中国がダメなら、アメリカに乗り換えれば済むことだった。東アジア史の研究者である私をアメリカが招聘していったい何をやらせようとしているかは不明だったが、信長の鉄砲隊の映像を見たアメリカ人たちは織田信長に熱狂していて、これをプロデュースした私はちょっとした時の人になっていたわけだ。

 だが、失敗が宣言されなくとも中止になれば、誰かが責任をとらねばならないのだ。おそらく陳博士や李博士たちが責任をとるのだろう。学会を追放されるくらいならまだいいが、罪に問われる事だってありうる。私は最悪の場合を考えた。

 そうだ、この国はそういう国なのだ。私は民主的でないだとか、ヒューマニズムに反するだとかいうことで、この国の文明や文化を否定することを避けてきた。民主主義もヒューマニズムも近代西欧の生んだ思想であり、それが絶対的な正義を担保するとは言い切れないからだ。

 でも、この国はそういう国なのだ。私は密かに中国共産党は中華王朝のひとつであると考えていた。皇帝がいて、官僚がいて、物言わぬ民がいる。支配するものと、支配されるものがいる。昔も、今も。

 歴史学者の矜持にかけて、それを悪だとは言わない。歴史学者は常に相対的な場所に自らをおく覚悟が必要なのだ。

 しかし、私はその場所を一時放棄することにした。

 陳博士も李博士も、今では私のよき理解者だ。これほどの理解者を得たことはかつて無かった。中国という国家がどうなろうが知ったことではない。だが陳博士や李博士は私の大切な仲間なのだ。

 陳博士と李博士が本部に出頭を命じられた。何らかの処分があると考えていい。


 私は研究室を抜け出した。この事態を、マスコミを通じて世界に発表し内部告発してやる。碧海作戦そのものをぶっ壊すのだ。人権保護の名のもとに陳博士や李博士を守らなければならない。

 私の異変にただひとり気づいたのは戸部典子だった。

 「先生。行っちゃダメなり。」

 戸部典子が通せんぼしている。こいつの本来の任務は私の監視なのだ。

 止めてくれるな戸部典子、義理と人情を秤にかけりゃ、人情が重てぇ私の世界なのだ。

 「冗談言っている場合じゃないのだ。先生、問題になるなりよ。そんなことをしたら、もうここには居られなくなるなるかもしれないなりよ。」

 それでも行かなくてはならない。島津義弘や直江兼続たちも危険を冒しても伊達政宗に合力したではないか。

 「それを言われると弱いなり。あたしもここを追われるかもしれないなり。」

 追われるだけないいではないか。陳博士や李博士はそれで済まないかもしれないのだ。

 「あたしの楽しい職場を取り上げないでほしいなり。」

 それが本音か。

 戸部典子が額にしわを寄せ、困ったような表情になった。

 「それだけじゃないなり。あたしたちは碧海作戦を見守る義務があるなり。」

 義務だと。

 「小早川隆景君や長曾我部元親君、それからたくさんの兵が死んでいったなり。そんな人たちの想いを忘れてはいけないのだ。」

 そうだ、私たちは人の死をたくさん見た。だが、それが明日につながる奇跡的な一瞬も同時に目にしてきたのだ。

 「あたしたちには、この歴史を創っていく責任があるなり。」

 歴史を創るだと。

 おまえは神様にでもなったつもりか。この歴史は確かに私たちの歴史介入により生まれた。だからといって私たちが好きなようにしていいという理屈にはならない。まして責任などと。

 「あたしは神様なんかじゃないなり。でも、もし神様がいるとすればあたしたちみたいな存在かも知れないなり。」

 私たちは、より良い歴史を作りたいと願いながら、限定された範囲でしか介入することができない。

 限定された能力しか持たない神様。見守る事しかできない天使。

 私たちの現実にも神様や天使がいるとすれば、確かにそんな存在なのかもしれない。

 私たちは神様に願う。その願いが世界平和と人類の幸福だったとしても、神様は応えてくれない。私たちが創っている歴史の住人が同じように祈ったとしても、私たちにはどうすることもできない。

 「神様だって、足掻いてみてもいいなりよ。」

 戸部典子がにまにまと笑った。

 「あたしたちの神様も、きっとモニター越しにあたしたちを見ているなり。応援しているかも知れないなりよ。」

 面白い考えだ。でも私たちほど非力な神様もいないぞ。

 「簡単にあきらめてはダメなり。神様の使命を最後までやり抜くなり!」

 天は自ら助くる者を助くか。

 「神様が天に祈ってどうするなりか?」

 確かにそうだ。笑ってしまう。

  ならば中国政府と交渉するしかない。ここは土下座してでも頼み込むのだ。

 「じゃ、あたしも一緒に行くなり。」

 おまえに来てもらっても…

 「先生は中国語を話せないなり。」

 そのとおり、通訳がいないと何もできない。


 私と戸部典子はどたどたと走り出した。

 政府首脳に会見を申し込んだが、門前払いをくわされた。既に碧海作戦に関する情報系統が制限されつつあったのだ。これで終わったか。

 「ここで諦めたらダメなり。次の手を考えるのだ。」

 次の手?

 「世論操作なり。」

 なんだと。中国の世論を操ろうというのか。

 「万歳ワンセー先生シェンシェの出番なりよ!」

 

 私たちはテレビ局に出向き出演交渉することにした。碧海作戦の中止命令はまだ公になっておらず、万歳ワンセー先生シェンシェがテレビに出たいならそれを拒む理由は無い。

 私はその夜のニュース・ショーに出演し、碧海作戦がいかに英雄的であるか、中華帝国がいかに偉大であるかを熱弁した。キャスターもアシスタントの美人アナウンサーも私の迫力に押されている。今夜は私のひとり舞台だった。

 私は何度も繰り返した「我が中華帝国」と。

 最後はおきまりの万歳だ!

 ワンセー、ワンセー、ワンワンセー!

 ワンセー、ワンセー、ワンワンセー!

 私は涙を流していた。涙でくしゃくしゃになった顔をさらしながら叫び続けた。

 その放送はどういうわけか、中国全土を感動の渦にたたきこんでしまった。何度も何度も繰り返し放送された。ネットにだってアップされ、アクセス数は一晩で八桁を超えた。

 中国人民は碧海作戦を熱烈に支持している。ここで中止命令など出せば暴動に発展しかねない。

 中国政府は中止命令を撤回せざるを得なかった。



 私は売国奴になった。

 日本のナショナリストたちは私の写真を公衆の面前で踏みつけ、焼いた。

 自称良識派も私を破廉恥漢とののしった。

 マスコミは私の齢老いた両親の自宅を包囲していた。

 もう日本には帰れないかもしれないにゃぁ。


 戸部典子に解任命令が下った。

 私の不祥事を防ぎきれなかったどころか、加担したことが大問題になったのだ。

 戸部典子はトイレに立て籠って命令を拒否したが、お腹がすいて出てきたところを外務省の男性職員に捕獲された。

 男性職員に両腕を抱えられた戸部典子は、ずりずりと引きずられながら研究室を後にした。

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