第21話 参考人招致

 外務省から連絡が入り、私は一時帰国することになった。

 国会での参考人招致に呼ばれたのだ。

 日本では大騒ぎになっていた。織田信長が中華を制圧するまでは、日本人たちも碧海作戦に好意的だった。いや熱狂していたといってもいい。ところが、いつのまにか日本という国が消滅している。

 これは、どういうことなのだ、ということだ。


 国会である。

 これから議員たちが私に質問をするのだそうだ。


 まずは保守党の老議員、河本洋文が質問に立った。

 政治力は皆無に等しいが、どうしても私に質問したいと粘ったらしい。

 河本議員は老眼鏡をかけて、ぼそぼそと話し出した。

 「あめつちのはじめのとき、たかまのはらになりませるかみのみなは、あめのみなかぬしのかみ…」

 こいつ、私に古事記の講釈をするつもりなのか?

 要するに我が国は二千年の伝統を有する国だといいたいのだろう。

 これには保守党の議員たちもまいったらしい。議員たちが眠気をこらえている。

 古事記の講釈は三十分ほど続いた。原稿を読み終わった老議員は私に顔を向けた。

 「貴重なご意見、ありがとうございました。」と私は答えた。

 老議員は満足したような表情で質問を終えた。


 二番バッターは革新党の女性議員、辻田真琴だ。タレント議員で、とにかく目立つことが大好きな元女優である。

 辻田議員はまず私に問うた。

 「わたくしは、日本という国が無くなっても、みんなが幸せに暮らせる世界なら、それでいいと思います。しかしながら織田信長は独裁者ではありませんか?」

 おいおい、織田信長は皇帝だ。

 「皇帝は独裁者でしょ! 織田信長が民主的な政治を行うとはとても思えませんけど。」

 違う、独裁者というのはヒトラーのように民主主義のなかから出てくるものなのだ。民主的な選挙で独裁者が選ばれたとき、民主制は独裁制に変わるのだ。北の将軍様にしたって、共和制を建前としている朝鮮人民共和国の元首である。選挙を経なくても民衆から選ばれたというアリバイさえこしらえてしまえば独裁の大義名分は立つのである。選挙で選ばれたとしても、議員がほとんど世襲の二世議員だという国は、北の将軍様を笑っていられない。

 独裁制は民主制の極端なあり方であり、親戚みたいなものなのだ。

 「民主主義の反対は独裁じゃないんですか?」

 民主制の反対は独裁制でも君主制でもない。封建制だ。

 「王様や皇帝がいるのが封建主義じゃないんですか? ほら、女が出しゃばったときなんかに怒りだす男を封建的だって言うでしょ。」

 封建制とは分封建国、領地を分けて国を建てることなのだ。江戸時代の封建制をみればわかるように、封建制とは君主が臣下に対して領地の支配権や爵位を与え臣従を約束させる政治制度だ。

 江戸時代には大名たちが半ば治外法権の領国を経営し、日本国内はいくつもの国に分かれていた。封建制の社会は分国制であるが、中国の歴代王朝は中央集権を指向してきた。信長もまた中華の伝統を取り入れ中央集権に向かうはずだ。

 近世において西欧は、絶対主義王政による中央集権制に移行した。ここに国家ステーツが生まれるのである。王権が弱体化すると市民が台頭し諸権利を勝ち取り議会政治が始まる。国民ネーションの誕生である。国家と国民が一体化することにより国民国家ネーション・ステーツが形成されていく。立憲君主制であれ共和制であれ、国民国家は国民なくしては成立しない。

 西欧でもドイツやイタリアは小国の統一が進まず、統一国家が生まれて初めて憲法や議会などの民主的制度が確立するのである。

 日本の場合もそうだ、版籍奉還、廃藩置県により封建制度を解体しなければ近代的な憲法も議会も不可能だったはずだ。

 「自由民主主義の立場からいえば、皇帝は封建的だとわたしは思います。」

 それも違う。自由主義と民主主義は分けて考えるべきなのだ。

 民主主義は主権が国民にあることなのだ。中華帝国では主権は皇帝にあるが、封建主義とは関係が無い。問題はここに市民が誕生する土壌が用意されるかどうかである。

 自由主義の反対は共産主義ではない。うまい言葉が見つからないが、誤解を恐れずに言えば統制主義だ。経済に規制を設け、競争を抑制し、計画的に運営する政治のスタイルである。そういう意味ではマルクスもケインズも程度の違いはあれ統制主義者だ。言論の自由があるとかないとかではなく、経済的な概念だ。ともすれば自由放任になりがちない経済を政治の力で統制するのだ。

 自由とはアダム・スミスの言うような自由放任主義を極北としている。そういう意味では、中国はある意味日本より自由だ。そのかわり、めちゃくちゃなこともするけれど。

 例えば著作権を例に取ってみよう。日本では著作権が守られ作家の権利が保障されている。これは自由だろうか。中国には著作権の概念が薄い。だから自由になんでもコピーできる。

 「それでも皇帝がいるということは、少なくとも平等な社会ではないということですよね?」

 中国は宋王朝の時代に近世に入り、皇帝の下、全ての民衆が平等になった。平等な民衆が自由に競争するので、激しい競争社会の伝統があるのだ。信長なら、日本的な統制社会よりむしろ中国式の実力社会を選択するだろう。

 「実力主義は平等な社会ではなく格差社会を生み出すだけだと私は思います。天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、です。」

 福沢諭吉の引用か。この有名な冒頭の一説に続いて福沢は言っている。

 「人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれど、ただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。」

 だからこの本は「学問のすすめ」というのだ。明治というのは門閥主義から平等主義に百八十度転換し、誰もが厳しい競争原理に晒された時代なのだ。

 平等社会の反対は実力社会ではなく、門閥社会だ。門閥社会では人は生まれによって職業や身分が決められる。どんなに実力があっても社会的な上昇は望めない。実力社会というのは平等だからこそ誰もが自由に競争できるのだ。競争に勝った者と負けた者の格差を問題にするならば、自由を諦めて社会を統制するしかない。自由と平等は、場合によっては相反する概念なのだ。

 ただ、辻田議員の言うように実力社会は敗者を生み出す。敗者を救うためのセーフティ・ネットが無いと悲惨な社会になりかねない。そのためには自由にブレーキをかけるための統制が必要となる。社会民主主義的な立場がこれにあたる。

 「ええっ? 自由の反対が統制で、平等の反対は門閥ですか? では皇帝の反対は?」

 いい質問だ。

 私のゼミの生徒ならこの質問だけでA評価を与えてやりたくなるくらいいい質問だ。

 西欧では皇帝の反対は教皇である。皇帝が世俗的権威であるならば、教皇は宗教的権威だ。これは中華文明においてこれは当てはまらない。皇帝に拮抗しうる権威など無いのだ。中華における皇帝は絶対的である。だが、皇帝が徳を失えばその座から引きずり降ろされるのだ。易姓革命である。

 中華における皇帝の対極が何であるか、これを考えるのが学問というものだ。

 私は見事な質問をした辻田議員を大いに褒めたのだが、褒められた本人はきょとんとしている。

 辻田議員と私の議論は平行線を辿ったまま、時間切れとなった。


 要するに国会議員たちは中国政府に雇われている私に腰が引けているのだ。だから二流・三流の議員に質問させてお茶を濁しているのだ。

 だが、私は単なる露払いに過ぎなかった。

 議員たちはスケープゴートを用意していた。

 戸部典子だ。彼女は外務省の職員であり、中国政府になんの遠慮する必要もない。

 日本が消滅したことを、中国政府に抗議することはできない。碧海作戦には日本も同意しているからだ。その結果として日本という国が消えてなくなっただけだ。

 昨日までは織田信長に熱狂していた日本国民が、手のひらを返したように日本の消滅を嘆き悲しんでいるのである。

 そこでガス抜きが必要だ。戸部典子を国会の参考人招致で血祭りにあげることで、日本国民に留飲を下げさせようという魂胆なのだ。

 日本的ムラ社会のいやらしさだ。

 中国や韓国の反日デモも同じだ、為政者が政治への不満というエネルギーを外に誘導するための仕掛けに過ぎない。日本ではこの仕掛けがテレビのワイドショーに置き換えられるだけだ。

 昨日のIT長者は囚人となり、好感度ナンバーワンの女性タレントは不倫を理由に袋叩きにあう。誰もが日常の不満のはけ口を探している。

 権力を持つ者は常に生贄を必要としている。

 生贄を捧げることで大衆という神の怒りを鎮めるのだ。

 これが民主的であるならばお笑いだ。自由だと、ちゃんちゃらおかしい。

 わっはっはっ、と笑ってやる。

  

 議場の扉が、ぎぃぃと音を立てて開いた。

 そして、生贄とされるべく戸部典子が証言台に立った。

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