第15話 南北朝
一五九一年、ヌルハチは北京を首都に定め、中原を支配下に組み入れた。
北に「清」、南に「海」。
二つの王朝が並立する南北朝の時代となったのだ。
ヌルハチは新たに従えた漢民族の武将を再編成することにした。漢民族の武将たちに最初に与えられた命令は、「
「踏み絵みたいなものなりね。」
そうだな、清に従うかどうかを、辮髪にするかどうかで判断するのだ。
漢民族の武将たちはざわめいたが、一人が元結を切ると、他もそれに倣った。お互いに前髪を剃り合い後ろで髪を束ね、束ねた髪を三つ編みにするのである。武将たちに倣って兵たちもまた髪を剃り上げている。
「三つ編みはけっこう難しいなりよ。ほら、ダンゴみたいな辮髪になっている武将がいるなり。」
おまえも三つ編みにしたことがあるのか?
「中学生のとき三つ編みを試してみたなり。でも、ぜんぜん似合わなかったのだー。」
私は戸部典子の三つ編みを想像して笑ってしまった。
三つ編みの武将たちは「漢人八旗」として編成され清の軍事機構に組み込まれた。
ここに満州八旗。蒙古八旗、漢人八旗を中心とした軍制が敷かれ、世界史においても稀にみる膨大な兵数を誇る騎馬軍団が誕生しつつあったのだ。
辮髪政策は庶民にも適用された。
「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」、である。
辮髪にする者には全てが従来通り安堵された。拒否するものは死罪である。
清王朝は辮髪を除いては中華の伝統に従った。明王朝の内閣の制度はそのまま引き継がれ、科挙も実施された。思想は厳しく統制されたが、儒教の聖人たちの教えは尊ばれた。清の統治は概ね善政だったと言える。
少数民族が数の多い漢民族を支配するためにはアメとムチが必要だったのだ。
「ヘア・スタイルを強制した支配者は世界史でも珍しいなりね。」
他にはないだろうな。唯一無二と言っていい。
「でも、何で辮髪なりか?」
分かり易いといえばこれほど分かり易いものはない。なにしろ頭を見れば服従しているかどうかが判別できるのだ。
改変前の歴史では、十九世紀に起こった太平天国の乱において、反乱者たちは辮髪を切って清王朝にまつろわぬ事を主張した。キリスト教を信仰する彼らの反乱は長髪族の乱とも呼ばれている。
一九十一年、辛亥革命が起こると辮髪は革命勢力から旧制度の象徴と見なされ目の敵にされる。
魯迅の小説「阿Q正伝」では、革命党が村に現れ村人たちの辮髪を切ったりする様子や、辮髪を恥じるように頭の上で巻き上げたりしている村人たちが描かれている。魯迅もまた日本亡命中に辮髪を切っている。
「魯迅が描いたように中国では辮髪を切ることが近代化の
そう、中国近代文学の重要なテーマとなるのだ。
日本では明治になって断髪令が施行されたが、明治の文豪たちはこれを文学にすることはなかった。
「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする。こっちは、あんまり深刻じゃ無いなり。」
異民族の支配を受けたことが無い日本人には、分かりにくい世界だ。
さて、我らが信長様は山東半島から南の沿岸部と長江流域、そして日本列島と朝鮮半島南部を支配していた。
海王朝の支配は、信長流の合理主義を根本としている。重商主義が推進され貿易立国として富が蓄えられた。農村では農具や肥料が改良され収穫高は毎年のように上がっていった。西欧の影響を受けて科学技術も日進月歩である。
儒教の立場から言えば、信長の政策は伝統に背いているかに見える。しかし、中華の伝統は儒教だけではない。元のフビライの時代や明の永楽帝の時代も信長に近い政策をとっていたのだ。王朝が衰退したり、皇帝が代わったりして長くは続かなかったが、それこそが中華のもう一つの可能性であったはずだ。
ヘア・スタイルは中国の伝統が採用された。採用されたというよりも、流行したというべきか。
信長は頭を剃り上げる月代をやめ、総髪にした。髪を頭の上で結い上げ、元結に冠を戴く中華の伝統的な髪形である。
信長は金の冠を造らせ、元結に載せた。日本風の衣装の上に羅紗のマントを羽織り、足元はブーツである。
上海城には西欧の城のように巨大なバルコニーが設置されている。信長は度々ここに現れては、民衆に手を振った。
「信長様のファッション・ショーなり!」
物見高い上海の民衆は、その異様ないでたちに度肝を抜かれた。
この影響で、大陸にやってきた日本人たちにも総髪が流行となったのだ。信長はファッション・リーダーでもある。
もちろん戦国武将も信長に倣って総髪にした。様々な冠をこしらえてはファッションを競ったのだ。
「政宗君、おしゃれなのだ!」
伊達政宗が
島津義弘は竹冠、質実剛健たる島津の気風を竹で作った質素な冠で表現しているのだ。
「義弘君は自己主張のおしゃれなり。」
武将たちのヘア・スタイルを批評するのもいいが、おまえの髪は朝から寝ぐせがついたままだぞ。
「えへらえへら」と照れ笑いをしながら、戸部典子は髪にブラシをあてている。
イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスが上海に到着した。
秀吉が統治する朝鮮半島南部での布教を終え、中国本土での布教活動に入るのだ。そのためには信長の後ろ盾が必要だった。
信長に謁見したフロイスは海王朝の版図におけるキリスト教の布教を許された。上海には教会が建設され、ここを拠点にキリスト教を広めるのだ。
ルイス・フロイスの著書「東アジア史」には、上海の街が活写されている。
「どこまでも拡大していく巨大な街、上海は世界の都と言っていいであろう。日本人が大量に押し寄せることにより、長く戦乱に怯えていた中国人たちも活気を取り戻している。異文化が融合することにより日々、新しいものが生まれている。」
フロイスはここが多民族国家であることを理解しているようだ。
イエズス会の中国での布教活動はこれまで順調とは言えなかった。明王朝は弱体化しており布教を公認してくれる気配さえなかったのだ。
海王朝の時代になり日本のキリシタンたちも海を渡った。彼らをベースにして中国にキリスト教を根付かせるのだ。信長はその強力なスポンサーになってくれるはずだとの思惑がフロイスにはあった。それに、海王朝が中華を統一すれば、イエズス会の中国北方での布教を可能にする。
信長の中国侵略のアイディアはフロイスが吹き込んだとの説がある。信長の下でなら、アジアにおけるキリスト教の布教が成功すると考えたからだ。
キリスト教が広まれば、南蛮船の来航が頻度を増し貿易は盛んになる。国力の充実には欠かせない条件である。
「信長様とフロイスは互いの利益によって結びついているなりね。」
そういうことだ。キリスト教の布教と南蛮貿易の振興は表裏一体なのだ。
上海や
また、香港にも港が開かれ、ポルトガルやスペインの商館が建設ラッシュである。南蛮貿易は益々盛んになるばかりなのだ。
清軍は内陸部の成都まで侵攻し版図を広げていた。成都は三国志の時代、劉備が治めた蜀の都である。
清王朝は満州からモンゴル、中原から蜀の地にいたる広大な帝国を形成しつつあったのだ。陸地の面積だけで比べるなら、信長が支配する版図の約二倍に及ぶ。
ヌルハチはポルトガルやスペインから鉄砲と大砲を購入しようとしていたが、商談は決裂した。キリスト教を擁護する信長にカトリック国は協力的であり、清王朝を敵対視していたからだ。
「信長様はカトリック諸国も味方につけたなり。新教国が東アジアに来るのはもう少し先になるなりね。」
この時代、イギリスやオランダなどの新教国は東アジアの海に現れてはいない。イギリス東インド会社が結成されるのは一六〇〇年を待たねばならないのだ。
「もし、イギリスやオランダ船が来航していて清王朝と結んだら、カトリック対プロレスタントの代理宗教戦争になった可能性もあるなり。」
この時代の西欧諸国にはまだそれだけの力はない。鉄砲の生産量にしても戦国時代の日本は西欧を上回っていたくらいなのだ。
ついでだ、この当時の西欧の状況を把握しておこう。
まずはスペインだ。
「スペインはハプスブルク朝のフェリペ二世の治世なりね。ベルギーやオランダも領有していたしアメリカ新大陸にも領土を持っていたなり。」
アメリカ大陸から持ってきた銀や植民地からもたらされる富によってスペインはヨーロッパの覇権国家の地位にあったのだ。
「でも一五八八年のアルマダの海戦で無敵艦隊がイギリスに敗れて弱体化が始まるなりよ。」
日本に鉄砲を伝えたポルトガルはどうだ。
「ポルトガルも世界に植民地を持っていたけどこの頃から衰退していくなり。変わって台頭するのがイギリスやオランダなどの新教国なりね。」
そう、イギリスはエリザベス一世が統治する絶対王政の時代である。スペインの無敵艦隊を打ち破り世界に植民地を広げていく端緒にある。
「オランダはスペインからの独立戦争の真っ最中なのだー。」
やがてスペインの
フランスはどうなっているかね?
「フランスはブルボン王朝の時代に入ったばかりなり。まだ絶対王政は確固としたものになっていないのだー。」
宗教戦争で疲弊したフランスの混乱を収拾したのがブルボン家のアンリ四世である。太陽王ルイ十四世が絶対王政を確立するのは十七世紀になってからだ。
「要するに旧教国から新教国へパワー・バランスが変動するはざかい期なりね。」
そういうことだ。旧教国が力を失い、新教国がやって来る前に信長の中華帝国を完成させなければならないのだ。イギリス、オランダ、フランスが東インド会社を設立し東アジア来航するようになれば、その対抗策が必要となる。特に宗教戦争だけは絶対に持ち込ませたくない。
改変前の歴史では、十七世紀になるとスペインとオランダが台湾の領有を巡って争うようになる。スペインを追い払ったオランダは三十七年にわたって台湾を統治するのだ。明王朝や清王朝が台湾を
「台湾からオランダを打ち払うのが
また武将がでてきたので戸部典子の目が輝きだした。
鄭成功は明王朝の再興のために清王朝と戦った武将である。隆武帝から明の皇帝の姓を名乗ることを許されたため国姓爺の名で親しまれている。
「鄭成功のお母さんは日本人なのだ。日本でも近松門左衛門の『国姓爺合戦』でお馴染みなりよ。」
近松門左衛門の戯曲は史実とはだいぶ違うけどな。
清王朝との戦いに敗れた鄭成功は台湾に渡りゼーランディア城を落としオランダ人勢力を一掃する。台湾に漢民族の政権ができたのはこれが最初である。鄭成功は台湾を拠点として国家体制を整えたが、再び北伐の軍を興すことなくこの世を去る。
「鄭成功によって台湾は初めて中国の一部と認識されるようになるなりね。」
中国の歴代王朝が海に関心を示さなかったいい証拠である。
それにしても戸部典子君、私の大学時代の教えを守って歴史の縦軸と横軸をしっかり把握していて感心したぞ。縦軸とは時間の流れを言い、横軸とは地域の関連性を言う。歴史を考えるには縦軸と横軸が揃っていなければならない。
そう言うと戸部典子は「でへでへ」と頭を掻いて照れ笑いした。
では、イスラム世界はどうなっているかね?
「イ、 イスラムは苦手なり!」
イスラムはオスマン・トルコの全盛期に陰りが生じたところだ。インドのムガル帝国もイスラム王朝だ。ムガルとはモンゴルのことである。かつてユーラシア大陸を席巻したモンゴルがイスラム化してインドに王朝を開いたのだ。
戸部典子の弱点が見えた、これからはイスラム史で虐めてやる。
清と海、二つの王朝はまだ誕生したばかりだ。内政を整備し、国力を蓄える時間が必要なのだ。
陳博士も李博士も、もはや戦いによる決着以外ありえないとの覚悟を決めていた。碧海作戦が成功するか、それとも歴史の復元力に押し戻されるか、全てはどちらに軍配が上がるかにかかっている。
ヌルハチはやがて南征に出るだろう。海王朝を滅ぼし中華を統一するつもりだ。
信長は我関せず、という風である。だが、着実に迎撃態勢を整えつつあった。日本の堺や国友では大量の鉄砲が生産されていたのだ。
「ヌルハチはいずれ来るなりね。」
信長が好むと好まざるとにかかわらず、必ずヌルハチは来る。
「勝てるなりか?」
今のままだと、清軍を撃退するのが精いっぱいかも知れない。勝つとなれば何か決定的な要素が欠けているような気がする。
このころ中国人民もようやく理解していたのだろう。中国の覇権をめぐって睨み合う勢力は、どちらも異民族だとういことを。そしてどちらが勝っても征服王朝が建つのだということを。
だが、中国人たちは征服王朝には慣れているのだ。異民族の支配を受けても異民族そのものを取り込んで拡大したのが偉大なる中華文明なのだ。この理解の仕方は日本人の及ばぬところだ。
清が勝つか、海が勝つか。巷では賭けの対象にさえなっていた。
韓国ではヌルハチが反・織田信長、反・碧海作戦のシンボルになっていた。
ヌルハチを応援する「ヌルハチ・サポーターズ」なるものが結成され、いつの間にかヌルハチは満州人ではなく朝鮮人だとされた。Tシャツやフィギァなどなど、韓国ではヌルハチ・グッズが大流行し飛ぶように売れていた。
もちろん、ヌルハチ・グッズを生産していたのは世界の工場、中国である。
中国人たちはこのブームを予想して、ヌルハチの商標権をすべて押さえていたからだ。
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