第7話 明朝は万歴に亡ぶ

 第二号作戦、舞台は中国に移された。

 明王朝の弱体化を早めることが作戦の目的だ。


 戸部典子は、急速に興味を失っていた。

 ここでは彼女が大好きな戦国武将が一人もでてこないからだ。

 それに明朝末期は確かにつまらない。ただ退廃していくばかりの世の中なのだ。

 戸部典子が手持無沙汰に研究室内をうろうろしている。邪魔だ!

 挙句の果て。中国人の研究者や人民解放軍の諸君に、自分が描いた戦国武将のイラストを見せてはうっとおしがられている。ざまーみろ、だ。

 戦国武将教の布教はうまくいっていないようだ。そう、布教活動は過酷なものなのだ。

 ザビエルを見習え、ザビエルを。


 中国人の研究者たちは忙しくしていた。

 なにしろ第二号作戦は彼らの地元中国なのだし、中国の歴史や地理に関しては私たちよりも遥かに詳しい。

 第一号作戦で戸部典子が提案した作戦は彼らにも大きな影響を与えた。つまり中国大陸でもピンポイント攻撃を敢行するらしい。

 彼らが暗殺対象者ターゲットとして選んだのは、明王朝末期において財政再建と綱紀粛正を行うはずだった宰相、張居正ちょうきょせいだった。一五七二年、万暦帝が十歳で即位すると、幼帝を補佐して独裁的な手腕を振るう。

 実は、張居正は本能寺の変の年に死去することになっていた。つまり信長と同じ年に死ぬはずだったのを、十年遡って暗殺したのだ。張居正は万暦帝の即位直後に毒をもられて死んでしまった。

 これだけでよかった。まさにピンポイントである。その直後から、予想どおり幼帝をめぐって官吏、宦官たちの勢力争いが激しさを増していった。

 政治が不安定になると官吏の不正や汚職が常態化し、その反動は各地での反乱となって現れた。特に南方の反乱勢力は海賊集団である倭寇と結びつき強勢であった。この当時の倭寇のほとんどは、日本人ではなく福建や広東の中国人である。


 戸部典子はおとなしく研究室の隅でお絵描きしている。実に平和だ。李博士がお絵描きを覗き込んで顔を赤らめている。何を描いとんのじゃ。


 北方では歴史介入により、満州族の若き族長、ヌルハチの台頭が加速されていた。改変前の歴史において満州族をコントロールし、その勢力を抑えた遼東総兵、李成梁りせいりょうを買収してしまうと、ことは簡単だった。彼は蓄財に没頭し、満州族のコントロールが疎かになっていった。ヌルハチは周辺の部族を次々に従え王となった。「後金」国の建国である。

 満州族を統一したヌルハチは幾度も国境を脅かし、明王朝は満州族との激しい戦いを強いられていった。

 明王朝滅亡の要因のひとつが豊臣秀吉の朝鮮半島への出兵である。明は宗主国として援軍を出し、国力を失う一因となったのだ。満州族が清王朝を建て中華を制圧できたのは、明の国力が地に落ちていたことが原因である。

 要するに、この逆をやるのだ。満州族によって明の弱体化を図り、弱り切ったところを織田信長に攻めさせるわけだ。

 ちなみに、満州族という言い方は十七世紀なって清王朝が建てられた後の呼び名で、この頃は女真族と呼ばれていた。

 女真は遊牧民族である。馬を駆り、草原を駆け抜ける。

 「戸部典子君、どうだい、戦国武将もいいが、精悍な女真族もなかなか素敵だろう」

 私はついうっかりと戸部典子に話しかけてしまった。

 「ヌルハチなりか…」

 「そうだ、見たまえ、彼の雄姿を。」

 「でも、ヌルハチ、変な名前なり…」

 私が馬鹿だった。


 ヌルハチの台頭とともに戸部典子の布教活動は実を結びつつあった。昼休みになると、人民解放軍の女性兵士たちが彼女のまわりに集まりつつあったのだ。彼女がお絵描きしたイラストを囲んでは「ハオハオ」などと言ってやがる。

 こいつ、人民解放軍を洗脳しやがった!

 オタク属性が豊富な陳博士も興味を示している。戸部典子と人民解放軍の女性兵士たちの集まりを覗いては、カタコトの日本語で何か言っている。

 「クサッテル、クサッテル。」

 なんのこっちゃ。その時の私はそう思っただけだった。


 反乱の鎮圧と北方の防衛のために国庫は底を尽き、民衆には重税がのしかかった。困窮した民衆は大量の流民となって反乱勢力に吸収されていく。果てしの無い悪循環が生まれ、明王朝は疲弊し、その統治能力を失っていった。

 明王朝の危機にもかかわらず、万暦帝は後宮に閉じこもり、朝政の場にさえ姿を現さなくなっていた。

 明王朝の滅亡はもはや日を見るよりも明らかであった。もともと「明史」に「明朝は万暦に亡ぶ」と書かれているくらいなのだ。万暦帝の後、三人の皇帝が即位したほうが奇跡と言っていい。

 衰え行くものの滅亡を加速することも比較的容易なのだ。

 西欧人のように滅び行くローマ帝国を蘇生しようとすれば、歴史の復元力に真っ向から対抗しなければならない。

 碧海作戦は歴史の勢いを殺すことなく、確実に歴史介入を成功させつつあったのだ。



 誰もが忙しそうにしている研究室で、戸部典子が手持無沙汰に私の前をうろうろしている。かまって欲しいのか?

 「なんか明王朝の衰退を見ているだけで退屈なのだ。」

 戸部典子がやる気なさげな口調で言った。

 確かに二号作戦は地味だが、これが碧海作戦の地盤作りなんだから仕方がない。

 それなら中国史のおさらいでもしようか。

 知っているかね、中国の歴史は騎馬民族との戦いの歴史だ。

 「戦いの歴史なりか!」

 戸部典子の目が輝きだした。戦いとか武将とかいう言葉に自動的に反応するようだ。

 中華から見れば国の四方に蛮族が割拠していることになる。これを四夷しいという。

東夷とうい北狄ほくてき西戎せいじゅう南蛮なんばんなり。南蛮はベトナムとか福州、広州あたり中国の南の辺境のことなりね。諸葛孔明の南蛮平定の話は有名なのだ。東夷は朝鮮や日本なりね。」

 そう日本も朝鮮も中華から見れば蛮族だ。中国の周王朝の時代、日本は西日本こそ弥生時代だが、関東はまだ縄文時代だったのだ。最近の研究ではこの時代の日本列島は非常に豊かであったことが分かってきている。また、大陸との交流も私たちが考える以上であったらしい。

 「日本には中華とは別の文明らしきものがあったという説もあるなり。有史以前の日本列島はオホーツクからポリネシアまで、いろんな民族が集まっていたから文明と呼んでもいいかも知れないなりね。」

 春秋戦国時代には北方、西方の騎馬民族が中原に攻め入ることになる。中国に割拠する国々は夷狄と戦い、時には連携したり利用したりして乱世を生き抜こうとするのだ。

 この時代、中国の伝統的な戦術は、三人の兵士が馬に曳かせた戦車に乘って戦うのが通常だった。一人は御者、あとの二人は弓と矛をもって戦うのだ。

 「春秋時代はこの戦闘スタイルが基本ななりね。晋の文公や斉の桓公の戦闘は戦車が主力なり。」

 紀元前四世紀、中原の国「趙」の武霊王ぶれいおうは騎馬民族の戦法を採用した。兵士に乗馬に適した騎馬民族の胡服を着用させ、馬上から弓を射させるのである。騎馬はスピードに勝り、戦車を圧倒したのだ。

 「史記に出てくる胡服騎射こふくきしゃのエピソードなりね。それまではぴらぴらの着物を着て戦車に乗っていたから戦い難くかったのだ。胡服はズボンだから馬にも乗り易いし機能的なり。これ以降、戦国時代は騎馬による戦闘が普通になるなりよ。」

 おまえ、中国史にはあまり興味が無いみたいだったのに、司馬遷の史記くらいは読んでいるんだな。えらいぞ。

 「史記には項羽と劉邦の物語もあるのだ。中国の武将たちの戦いも萌え要素満開なり!」

 そう言って、戸部典子は「ぐふふ」と笑った。また何か妄想しているみたいだ。

 胡服騎射を採用するために武霊王は部下たちを説得しなければならなかった。なにしろ胡服は蛮族の戦闘服であり、反文明的なものだったからだ。

 「中華と騎馬民族は、文明対反文明の関係にあったなりな。」

 そのとおりだ。だが中華文明の合理性が伝統を乗り越え、蛮族の文化をも取り込んでいくのだ。

 紀元前二二一年、中華を統一した「秦」の始皇帝は蒙恬もうてん将軍を北辺に送り、騎馬民族、匈奴きょうどを討伐させた。さらに万里の長城を築き騎馬民族に対する防御とした。これこそまさに文明の力である。

 始皇帝の死後、二世皇帝、胡亥こがいが即位するが、たちまち乱世を引き寄せる。項羽と劉邦が争い、戦いに勝った劉邦は「漢」を開く。紀元前二〇六年である。

 「項羽と劉邦が争っている間に、北では匈奴の冒頓単于ぼくとつぜんうが勢力を伸ばすなり。」

 中華帝国を引き継いだ劉邦は匈奴と戦い、一敗地にまみれる。漢は匈奴を兄と仰ぐことを約束して和議を結び、公女を冒頓単于に嫁がせ、貢物を送ることを強いられた。長い戦いの果てに中華を統一したばかりの漢には匈奴と戦う力が残されていなかったのだ。

 漢は文帝、景帝の時代に国力を蓄え反撃に備える。紀元前一四一年、七代皇帝、武帝が即位すると、衛青えいせい霍去病かくきょへいなど優秀な将軍が登場し匈奴を打ち破るのだ。この時代が前漢の全盛期である。

 司馬遷はこの時代に生き、神話の時代から武帝の時代に至る歴史を「史記」に書き記した。

 「霍去病も史記に出てくるなり。それから三国志のゲームにも登場するなりよ。」

 おいおい、霍去病は紀元前二世紀の人だぞ、三国志は三世紀だ。

 「ゲームの世界では魅力的な武将は時代を超えてエントリーできるなり。」

 それ、マジが?

 「碧海作戦でも三国志の武将を召喚できないなりか?」

 できるわけないだろ! ゲームとは違うのだ。

 「残念なりぃ。」

 二二〇年、前漢、後漢を通じて四百年以上続いた漢が滅び、魏、呉、蜀が天下の覇権を巡って争う三国時代が訪れる。戦いの果てに中華を統一した「魏」、魏を簒奪した「晋」は長続きせず、匈奴きょうど鮮卑せんぴけつていきょう五胡ごこと呼ばれる異民族が華北に入り乱れて建国する。次の南北朝の時代には華北では鮮卑族が、華南では漢民族が次々に国を建てることになる。

 「三国志の説明はスルーなりか?」

 戸部典子が遮光器土偶のような薄目になって言った。大好きな三国志を飛ばされたことを抗議している目だ。

 三国志に騎馬民族は出てこないだろ。

 「忘れちゃいけない軻比能かひのうなりよ。諸葛孔明と呼応して魏を攻めた鮮卑族の勇将なり。」

 李博士が笑っている。

 「日本人って、ほんとに三国志がお好きなようですわね。」

 ほら、戸部典子君、李博士がおやつの月餅を用意しているぞ。行ってこい。

 ベタ靴でぱたぱたと足音を立てて、戸部典子が李博士のところへ走り寄った。

 「中身の餡は何なりか? 当ててみるなり。」

 戸部典子は匂いで月餅の中身を嗅ぎ分ける特技がある。むむむ、と鼻を効かせて胡桃くるみ入り黒餡を引き当てた。 


 さて、続きだ。

 五八一年、北朝の武将、楊堅ようけんが建てた「隋」は中華を再統一するが、短期政権に終わる。そして六一八年、三百年の長きにわたる「唐」の絢爛たる時代が花開くのである。隋の皇帝一族、楊氏にも、唐の李氏にも鮮卑族の血が流れているというのが有力な説になっている。この時代になると、かつて蛮族とされた騎馬民族たちも中華文明に取り込まれているのだ。

 唐の滅亡後は五代十国という百年足らずの分裂の時代になるが、その中から趙匡胤ちょうきょいんが現れ中国を統一する。これが九六〇年に建国された「宋」である。宋は契丹族の「遼」に北辺を脅かされる。ここからは相次いで騎馬民族が中華に侵攻する時代になるのだ。遼は満州族の「金」に駆逐され、金は宋から中国の北半分を奪う。一一二七年、宋の都、開封は陥落し、宋は南に遷都し「南宋」となる。

 「秦檜しんかい岳飛がくひの話は忘れてはいけないのだ。南宋の岳飛将軍は金と戦った名将なり。」

 戸部典子は私が武将の話を省略しようとすると突っ込んでくる。

 そうだな、忘れていた。秦檜と岳飛は中国人に最も親しまれた歴史物語と言っていいかも知れない。岳飛は金に何度も勝利するが、その勢力が大きくなることを恐れた宰相の秦檜に謀殺されてしまう。中国では岳飛を英雄と称え、秦檜を国賊扱いするのが国民感情として定着している。

 戸部典子は満足したように私の話に相槌を打ちながら、月餅を頬張っている。武将と食い物を与えておけば、おとなしいものだ。

 中国北部はもはや騎馬民族たちの入り乱れる世界になってしまったのだ。南宋は抵抗を続けるがじりじりと追い詰められていく。

 中国で最も有名な征服王朝はモンゴルである。モンゴルは金を滅ぼし中国の北半分を支配下に置く。これが征服王朝「元」である。一二七九年、元の皇帝フビライは南宋を滅ぼし、中華を統一するのだ。

 東アジアから中東に及ぶ巨大なモンゴル帝国の出現である。この世界帝国は東洋と西洋を結び付け、世界は初めてグローバリゼーションの時代を迎えるのだ。モンゴルは関税を撤廃し交易を自由にし貨幣経済を発達させる。海路、陸路に物流や情報のネットワークが築かれ、パクス・モンゴリカの時代が訪れる。

 「マルコ・ポーロはこの時代にベネチアから中国にやってくるなりね。」

 マルコ・ポーロの書いた「東方見聞録」は西欧人の東洋への興味を掻き立て、大航海時代の行動原理エートスとなるのだ。クリストファー・コロンブスは東方見聞録をいつも手元に置いていたと言われる。

 巨大な版図の重みに耐えかねるようにモンゴルの帝国は世界の各地で崩壊を始める。フビライが築いた元も皇帝位を巡って内紛が続き衰退の道をたどることになるのだ。

 元の末期、紅巾の乱がおこり、その反乱軍から「明」を興した朱元璋しゅげんしょうが現れる、一三六八年、朱元璋が元の都、大都に迫ると、中華の支配を諦めたモンゴル人たちは北の草原へと帰っていった。

 「北帰ほっきなりね。こんなあっさりした王朝の最後も珍しいのだー。」

 そう、たいして戦いもせず、ただ帰っていくのみだったのだ。

 戸部典子は二つ目の月餅にかじりついている。今度はアヒルの卵が入ったものだ。これはうまそうだ。

 もしかして、お前が食っている二つ目の月餅は私の分ではないかね?

 「先生が解説に夢中になっているのが悪いのだ。」

  食べかけの半分でいい、私によこせ!


 そして今、満州の騎馬民族が北方を脅かし、明王朝を弱体化させている。戸部典子がかじった私の月餅のように中国北辺を侵食しつつあったのだ。

 ただ、このとき私たちも予測していなかった。北方に勢力を拡大しつつあったヌルハチの勢力が、後に碧海作戦の前に、最大の障壁となって立ちはだかることを。

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