第10話 大陸侵攻

 第四号作戦開始。

 いよいよ明王朝を倒すのだ。


 一五八五年、大陸に兵を進めた信長は抵抗する明の軍団を次々に打ち破っていった。

 信長軍、強しと見るや、もはや統治力を失っていた明に見切りをつけた漢民族の武将たちのなかには信長に投降するものが現れた。信長は投降した武将を歓迎し配下に加えた。

 これは歴史的に興味深い現象だ。中国に限らず大陸の歴史では敗者が虐殺されるという事件が幾度となく起こっている。項羽が秦の兵二十万を穴埋めにした事件は有名だし、モンゴルは時として屠城とじょう、つまりは城郭都市そのものを殲滅した。投降したはいいが皆殺しにされることもあるのだ。

 ところが日本の戦国史にはそういった例はほとんど見当たらない。強いて言えば信長がやった比叡山焼き討ちや、長島一向一揆の虐殺があるが、特殊な事例である。たいていの場合、敗者は勝者に服従する。責任者出が出てきて、切腹して、それで終わり。一般の将兵の命を奪うことはない。

 良くいえば平和的解決なのだが、悪く言えば村社会的な馴合いである。取った敵の兵は我がものとする。要するに将棋の文化の日本人なのだ。

 当初、信長を恐れていた明の武将たちは、他の武将たちが投降して涼しい顔をしているのを見て拍子抜けしたようだった。没落した明に従って信長と戦うより、投降して服従した方が得策だと判断したのだ。

 信長はまるで無人の野を行くが如くであり、明の武将たちを糾合して日ごとに膨張する軍団は百万を数えるに至った。


 碧海作戦の研究室では中国人の研究者たちが、うれし気にモニターを見ている。彼らの作戦が的中しているのだから。しかし、時代が違うとはいえ同じ中国人の武将が次々に投降するのをみて悲しくはならないのかね。中国人というのはドラスティックな民族だ。


 最初は「勝った、勝った!」と大騒ぎしていた戸部典子も、あまりに拍子抜けする展開にしらけ始めていた。

 「つまらないなり。」

 よせばいいのに、しゅんとする戸部典子を李博士が慰めている。

 「中国では武将は人気ないなりか?」

 「三国志や、項羽と劉邦はお好きでしょ。」

 「大好物なり!」

 「中国では、武将が活躍するのは乱世だけ。平和な時代では武将は常に官僚の下に置かれるのですわ。」

 そうなのだ、中国は伝統的にシビリアン・コントロールが徹底している。文官は士大夫と呼ばれ、最も尊敬すべき位を約束された。武官は全てその下に置かれる。

 三国志の劉備軍は諸葛孔明という文官にコントロールされている。劉邦の幕下にあった天才的武将、韓信は乱世が終わると官僚たちによって殺されてしまった。平和な時代に韓信のような武将は危険だったのだ。

 日本のように武士が政治をするというのは世界史的みても珍しいのだ。


 絶対王政の条件は常備軍を備えていることと官僚制度が確立されていることである、江戸時代の武士は建前としては戦闘者でありながら実質は官僚の役割を担うことになる。常備軍であり官僚であるというアンビバレンスな立場に立たされたのだ。儒教は中国の思想であるため武士という存在を軽視している。幕府は忠孝を尊ぶ儒教を奨励したが、どこにも武士の役割が記されていないのだ

 武士の存在意義レーゾンデートルを明確に定義する思想をついに江戸時代は持ち得なかった。

 儒学は皇帝と官僚の学問である。日本古来の文化を探求する国学は天皇と貴族の世界で武士の居場所はなかった。これがどこでどう結びついたのか水戸学では武士は朝廷を守って戦う者になってしまった。尊王思想は明治維新の原動力になり徳川幕府を倒すという事態が起こったのだ。

 李博士がしみじみと言った。

 「私も日本史を研究してきましたけど、ほんとに不思議な歴史の国ですわね。昔も、今も。」

 日本は中華文明の影響のなかで育ち、明治以降は西欧文明を取り入れた。しかし、どこの国にも似ていない。

 「レヴィ・ストロース博士が同じような事をおっしゃってましたわね。」

 クロード・レヴィ・ストロース。フランスの社会民俗学者で、構造主義の祖と言われる知の巨人である。日本通だった彼は何度も日本を訪れ、日本人と西欧人の違いに驚いていたそうだ。


 首都、北京へ兵を進めたのは徳川家康の別働隊だった。

 井伊直政の遊撃軍が明の部隊を翻弄し次々に撃破していった。先陣を切った本多忠勝が北京への道を切り開いていく。

 北京は瞬く間に徳川軍の包囲するところとなった。

 北京には皇帝の住居であり、政治をつかさどるる紫禁城がある。

 紫禁城から次々に繰り出される明軍を、家康はひとつひとつ潰していった。もう兵力はたいして残っていないであろう。

 家康は紫禁城に使者を送り、万暦帝に自殺を迫った。

 「皇帝の自殺をう」と。

 家康は当初、皇帝に投降を促そうとしたが、家康に従う漢民族の官僚たちが諫言した。

 「明王朝を倒すのであれば、皇帝を生かしておいてはなりません。」

 それでも家康は最も穏便と思われる勧告をなした。皇帝さえ自殺してしまえば、あとは助ける、というものだ。日本人的玉虫色の解決というわけだ。

 万暦帝は自縊じいし、明王朝は事実上その幕を閉じた。

 中国では貴人は血を流さないことになっている。だから首をくくったのだ。

 家康の胸中には野心があった。

 信長が北京に入城すれば、家康は首都攻略の大功をもって論考行賞に望めるだろう。

 もし信長の北京入城が何らかの原因で不可能になった場合、家康は中原において力を蓄え、自立することも考えていたのだ。


 当然、速やかに北京への入城を果たすものと思われた信長は、再び私たちの予想を裏切った。

 信長の軍は中原には見向きもせず南進を始めたのだ。目標は明の副都、南京である。

 信長の大軍が南京に迫ると、徹底抗戦の構えをとったのは明の武将、李如松りじょしょうであった。介入前の歴史では、朝鮮半島を侵略した秀吉の軍団と戦った勇将である。

南京には兵乱を逃れた万暦帝の弟、潞王ろおう朱翊鏐しゅりょくりゅうが居た。

 李如松は潞王を奉じて南京を死守しようとしたのだ。ところが、潞王は数名の寵臣とともに密かに南京を脱出してしまい、兵士たちは完全に戦意を喪失してしまった。

 抵抗を諦めざるを得なかった李如松は、子飼いの軍団を引き連れて潞王の後を追った。

 南京はもはや空家同然だ。

 福州において李如松と合流した潞王は、台湾に渡って即位し、亡命政権を建てた。南明王朝である。

 後のことになるが信長は台湾に執着し何度となく兵を送り我が物にせんとした。南明はゲリラ戦をもってこれに応じ、台湾では長い戦いの歴史が始まった。


 南京は織田軍の前に城門を開いた。

 中国政府には危惧があった。あの戦争の折、旧日本軍が行ったとされる虐殺のことである。ここでそれが再現されるのではないか。

 南京への入城に際して、信長は一切の殺戮と略奪を禁じた。一糸乱れることなく入城する信長の軍団を、南京の人々は好意的に迎えた。それは日本人の規律正しさを印象付けたひとつの事件でもあった。

 それもそのはずだ。南京入城の指揮をとったのは、明智光秀だった。この生真面目すぎる男が虐殺など許すわけがない。

 私はほっとした。ここで虐殺などやられたら、「それみたことか」と言われること必至だったからだ。

 光秀君、よくやった。旧日本軍の馬鹿どもとはレヴェルが違う。

 すまん! 暗殺しようとしたりして。

 戸部典子が両手を腰に胸をはっている。「えっへん!」のポーズだ。

 おまえが命を懸けて守った明智光秀君は、いい仕事をしてくれた。


 南京は明の副都である。北京の朝廷に何かあった場合、南京はバックアップの役割を果たすため南京六部という行政機関が置かれている。残された文官たちは協議の結果、信長に従うことに決めた。

 文官たちは城外にまで出て信長を出迎えた。

 信長は彼らをブレーンとして採用し、中国本土への道案内とした。


 それでも問題は起こった。数日後、上杉景勝配下の武者が酔って女に暴行を働いた。

 信長は烈火のごとく怒り、民衆の前に武者を引きずり出し切腹を命じた。

中国人民は初めて「切腹」を見た。武者は十文字に腹をかっさばき、悶絶して死んだ。

 上杉景勝は蟄居を命ぜられ、与えられた屋敷の門を竹矢来で閉ざした。

 このとき南京の民衆は噂した。倭国には裁判所があって、刑務所がないというのだ。死刑を命じられれば自ら腹を切る。入牢を命じられれば自らの家を閉ざして牢にしてしまう、というのだ。

 まっ、都市伝説だ。

 この話も改変前の歴史に同じものがある。江戸時代、朝鮮の通信使が日本を訪れた際、質問したという。

 「日本には裁判所があって、刑務所がないのか?」と。

 接待にあたった幕府の侍は、「それは薩摩だけです」と、答えたという。


 南京から号令を発した信長は、大陸の各方面に兵を送り中華帝国を制圧していった。北京の徳川家康は信長に服属しながらも、着実に中原に根を張ろうとしていた。


 私たちは第四号作戦を見直さなければならなかった。北方に都を置かなかった歴代の王朝で、中国統一を成し遂げたものが無いというのが定説なのだ。

 春秋戦国、三国、南北朝と、中国は幾度となく分裂の歴史を持っているが、いずれの場合も天下を統一したのは北方の王朝である。三国志では「魏」が勝者となり、南北朝を統一したのも北方の「隋」である。契丹族の遼に追われた北宋は南に逃れて南宋を建てたが、その後も女真族の金、モンゴル族の元に圧迫され、北方を回復することなく滅びたのだった。

 唯一の例外は当初、南京に都を置いた明王朝なのだが、これも永楽帝の時代に北京に遷都して長期政権となったのだ。

 理由は様々に考えられるが、軍事的な問題が大きいだろう。中華帝国の安全保障は、北方の異民族の侵入に備える必要があったからだ。常に軍事的緊張状態を強いられた北方は強兵である。それに引き換え、経済的には圧倒的に優位にある南の政権は軍事的に弱体化するというのだ。

 陳博士はそのことを強く主張し、李博士も同意した。


 私たちは碧海作戦遂行中の人民解放軍工作部隊に指示し、信長のブレーンとなっていた漢民族の文官たちを買収し抱き込むことにした。

 文官たちは何度も信長の説得を試みた。

 「大王ダーワン、中原をお取りください。天子テンツーのおわすべき場所は中原をおいて他にありません。」

 しかし、信長が彼らの諫言に耳をかすことはなかった。


 信長様のお考えになることは、わしらのような凡人には分からんということじゃ。

 そんなことよりも、私は早く十六世紀へ行きたかった。送られてくる映像や資料を見て検討し指示を出すばかりなのだ。現地での作業は人民解放軍のみなさんのお仕事なのだ。現地は危険な状態にあるとかで、なかなか行かせてくれないのだ。

 それならさっさと平和な時代をつくろうではないか。

 はい、第五号作戦。いってみよー。

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