山風

武市真廣

山風

 山風

 宮澤真宙

 

 いつの帝の御代のことだったか、一人の男がいた。

 今に伝わる書物には、その男の特徴として「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」とある。しかし、官位は決して高くはなかった。

 この男は兄と共に鷹狩の名手であった。

 ある時、勅命により伊勢国に狩の使として下向した。

 

 伊勢の斎宮であった貴人の元に、親元から文が届けられた。文には使を鄭重に持て成すことを旨として綴られていた。

 

 貴人は言いつけ通りに男を手厚く饗した。自分の部屋に男を招いて世相についての話をしたりもした。

「近頃の都はどうなっておりますか」

 鈴を転がすような声、見目麗しい姿。男は息を呑む思いだった。

「何ら異常はございません」

 ありきたりな答えだった。

「私の兄は元気ですか?」

「ええ。ただ、少々厭世の心を抱いているようです」

「そうですか。本来ならあの方が帝になるのが正当であるはずなのですが」

「……私には答えかねます」

 男は茶を濁すことしかできなかった。

 

 男はかつて大貴族の娘と恋に落ちた。しかし、その娘との恋は引き裂かれる形で終わった。今、その娘は帝の女御である。

 

 二日目の夜。男は貴人に、

 「今晩お逢いできませんか」

 と思い切って願い出た。

 貴人もまた決して逢わないとも思わなかったが、人目が多いことを憚っていた。

 男の宿は貴人の寝室の近くであった。

 男は他の者たちがすっかり寝静まるのを密かに待った。窓の外の朧月をぼんやりと眺めていると、一人の少女の姿が見えた。その少女は貴人の召使であった。

 男は貴人の訪れを知り、大いに喜んだ。

 貴人を寝室に招き入れると、それから長い時間を共に過ごした。

 男は貴人よりも一回り年が上であった。貴人は噂に名高いこの男の顔にまじまじと見入った。

 互いの瞳をじっと見つめ合った。

 取り交わされた言葉は少なかった。

 そうして時が流れていった。

 

 斎宮として仕える以上、一線を越えてはならぬという確かな自覚が貴人にはあった。

 己の想いをどうにか抑えて、貴人は自分の部屋へと戻っていった。

 

 無言の退出。

 

 男はまたしても身を裂かれるような想いになった。

 悲しみが胸を満たし、眠ることなどできなかった。

 

 朝になり、男は「あの御方はどうなさっているだろうか」と不安になった。そこへ貴人から文が届いた。

 

 君や来しわれや行きけむ思ほえず

 夢かうつつか寝てか覚めてか

 

 文にはただその歌だけが認めてあった。

 

 かきくらす心の闇に惑ひにき

 夢うつつとは今宵さだめよ

 

 男は紙にそう認めたものの、送ることはなかった。

 男は狩りに出た。

 その夜、伊勢国守が男を持て成すために特別の宴を催した。それは一晩中続いた。

 男は貴人に会うこともできない。

 

 国守の宴もいよいよ盛り上がりを見せた。

 

 旨い酒も佳肴(かこう)も喉を通らなかった。

 男は席を外した。外に出ると昨日と同じく月が出ていた。

 そして彼は月光を受けて輝く一人の女人の姿を見た。

 彼女は透き通っていた。ただ月の明かりだけで輝いている。月がなければその姿を見ることはできなかったであろう。

 男はその美しさに息を呑んだ。ただ無言で女人の姿を見つめた。

 女人も男の姿を見て、何も言わなかった。ただ悲し気な顔をしていた。

 

 わが背子を大和に遣るとさ夜深けて

 暁(あかとき)露(つゆ)にわが立ち濡れし

 

 女人はそう詠むと男の前から立ち去ろうとした。

「お待ち下さい」

 男は呼び止めた。

 女人は立ち止まり、振り返った。

 男はこの歌を知っていた。

 それはとても悲しい歌であった。

 謂れなき罪により謀反人となった弟を偲んでその姉が詠んだ歌だった。

 

 男はこの女人こそその姉であると直覚した。

「お願いできますか」

 男は頷いた。

「どうか私を弟の元に……」

 男は女人を馬に乗せて、走り出した。

 

 亡き弟君が眠る地へ──。

 

 * * * * * *

 

 遥かな時を空費していたような気がする。

 時折私はこうして目が覚め、己の死を受け入れることができずにいる。

 心残りがあるからこそ私は死を受け入れられず、今もなおこの世に繋ぎ止められているのだ。

 最早私の体はない。共に棺に入れられた衣服も剣もとうに朽ち果てた。私の骨すらも残ってはいない。漂う私の魂だけがこの世に在るだけだ。墓の外に出た時、あれは月の美しい夜のことであった。

 愛しい妻は、私の死を知り、後を追って死んだ。

 母君は、私と姉上が幼い時に亡くなった。母上の死に顔の清かったことを私は今なお鮮明に覚えている。死して後、母上がいる所へ行けると思っていたが、私は今なお魂だけこの世に残されている。

 

 叔母上、どうして私を殺したのですか?

 

 親友よ、どうして私を裏切り、無実の罪を着せたのか?

 

 妻よ、どうしてお前までもが自ら命を絶ったのか?

 

 様々な人の顔が思い浮かんだが、最後に姉上の顔が浮かんだ。

 ああ、姉上。貴女は泣いてくれた。私の死を心から悲しんでくれた。私にはそれだけで十分だった。

 

 日並(ひなみ)よ、貴方は母に愛されていた。

 しかし、私を愛してくれる母は既にこの世にいなかった。私は貴方が憎かった。貴方の母もまた私が憎かった。私は貴方から大名児(おおなご)を奪った。それは私にはないものを全て持つ貴方への嫉妬からだ。私は貴方が羨ましかったのだ。

 

 だが、全てはもう遠い過去のこと。もう過去に戻ることなどできないし、皆この世にもいないだろう。けれど、どうして私だけが今なおこの世に残っているのだろうか。

 

 * * * * * *

 

 男は尊き女人を乗せて遥かなる道を急いだ。陽が昇れば女人は消えてしまう。

 男は馬を必死に走らせた。風よりも速く。男は自分のことなど何も考えられなかった。髪を振り乱し、装束を着崩してでも道のりを急いた。

 

 幾つも山を越え、川を越えた。空にかかる月明かりだけが頼りであった。時折男は女人の様子を見たが、女人は変わらず悲しい瞳でじっと前を見据えていた。

 男は心が締め付けられるようだった。そして、馬をより急かした。

 馬もまた何かに憑かれたかの如く、持ちうる全ての力で走り続けた。

 

 男は疲れなど微塵も感じなかった。ただただ必死であった。

 大和の地──弟君が眠る地。闇に浮かぶ二上山の輪郭が見えてきた時、男はもう少しだと思った。

 道なき道を直走った。

 

 * * * * * *

 

 姉上の顔を最後に一目見たかった。しかし、叶わなかった。

 私が死んだ日は、確か空が澄み渡っていた。あれほど美しい日はなかっただろう。

 私が詠んだ歌は果たして後世に伝えられただろうか。

 

 魂だけの存在となった私を誰が見つけてくれるだろうか。

 いや、誰も見つけてはくれまい。

 そうこうしている内に私はまた眠りに落ちるだろう。

 次はいつ目覚めるとも知れず……。

 

 棺の隙間から時折吹いてくる風。埃が舞うのが見えた。私は息を吹きかけてみたが、同じように埃は舞わない。手を伸ばしても触れることができない。二本の足で立ったとしても地に足がついているような感覚もない。私は既にこの世の人間ではないのだ。

 

 目が覚める度にこうやって同じことを繰り返している。

 

 決まっていつも夜に目を覚まし、朝になると再び眠りに落ちる。

 

 今はまだ夜のようだが、そのうちまた陽が昇るだろう。

 

 * * * * * *

 

 古い墓の前に馬を止めた。女人を馬から下すと男は共に弟君が眠る墓へ近づいた。

 遠い昔、奈良朝の墓である。葺石には既に苔が生え、王家の墓であるにも関わらず草木が生い茂っていた。その有様に男は辛く感じた。どれほどの貴人であっても墓に入れられ長い年月が経てば、忘れ去られてしまう。そのことが悲しかった。

 女人は無言であったが、やがて、

 

 うつそみの人にあるわれや

 明日よりは二上山を弟とわが見む

 

と一首詠んだ。

 

 男は内心で「この方も既にこの世の者ではないのだ」と思うと胸が痛んだ。

 女人はそっと振り向くと男に頭を下げた。

「ありがとうございます。これで弟も喜ぶでしょう。全て貴方のおかげです」

 男は何も言わなかった。ただ黙ったまま頷くばかりだった。

 

 空が明るくなってきた。男はふと後ろを振り返ると、少しずつ陽が昇り始めているのが見えた。

 

「これで私もあの世に行けます。本当にありがとう」

 女人はそう言うと陽の光を受けて少しずつ消えていった。

 男は最後に女人の白い手に触れたが、それもすぐに消えてしまった。

 最後の時、彼女は優しく微笑んでいた。

 男はその顔がいつまでも忘れられなかった。

 

 * * * * * *

 

 確かに姉上の声を聴いた。しかし、その姿を確かめる前に眠りに落ちてしまった。朝が来たのである。

 

 あの声は確かに姉上であった。

 覚めぬ夢──。それが本当の死であった。

 母上がいた。愛しい妻もいた。そして姉上もいた。皆笑っている。私はそれが嬉しくてならなかった。

 父上が私の肩に手を置いた。これで良いのだ。これで。

 

 これで私はようやく眠ることができた。覚めない眠りである。

 

 皆が笑い合って、楽しく過ごす。

 

 姉上が駆けてきて私の手を引いた。

 

 私も皆の元に走った。

 

 

 終

 

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