第4話「easy to be free」

 その夜、由夏に電話をした。 別れてから二年間、まったく連絡を取っていなかった。

 電話をすると決めたとき、妙に落ち着いている自分がいることに気付いた。もう一度声が聞きたい。胸中でつぶやき、深く呼吸して受話器を取った。


 由夏もまた、落ち着いていた。こちらの第一声に対する微かな驚きを受話器越しに感じたが、すぐに懐かしい声へと変化した。聞き慣れた彼女の声。

 「会って、どうしても話したいことがある」と伝えてから、いくばくかの沈黙が生じた。

 それはしかし動揺ではなく、共鳴の瞬間だったと思う。おごりかもしれないが、そう感じた。


 就寝時、この前と同じく『君が人生の時…』をBGMにした。

 冒頭の『風を感じて』を自身の感性で聴きながら、心地よい眠りへと吸い込まれた。


 日曜の朝、飯田橋駅のプラットホームの人通りはまばらだった。ホームから改札までの直進の通路が、今日はやけに長く感じる。いや、感じようとしていたのかもしれない。

 約束の時間の五分前、かつてと同じ佇まいで由夏は待っていた。ICカードのタッチ音は、もう耳に入ってこない。


「おはよっ」

 絶妙なマイルドさを備えた由夏の笑顔は、出会ったころと少しも変わらない。彼女の澄んだ虹彩の美しさに一瞬恍惚としたが、すぐにナチュラルな微笑みを返した。

 

 雲ひとつない青空を全身に吸い込み、神楽坂通りを並んで歩く。 

 学生時代によく足を運んだ、カウンター席のみの小さなカレーショップや老舗の肉まん屋。初詣の定番だった、毘沙門天びしゃもんてん善國寺と赤城神社。一見さんお断りのような荘厳な雰囲気の漂う、高級店が入った路地裏。由夏と共有したものたち。目に映ると、かつてのワンシーンが自然と再生された。

 今、こうして隣に由夏がいることに対する驚きの感情は継続しているが、そうさせたのは他の誰でもない私だった。それを味得し、歩きながらしみじみと随喜ずいきに浸る。その一方で、彼女と二年もの間離れていたことが嘘のように感じられた。


「こんな晴れた日は、『青空の扉』を聴きたくなるね」

 路地裏を歩きながら言うと、由夏は “It's so easy~♪ ”と歌い出した(『風を感じて』のサビのフレーズだ)。

「それ違うアルバムじゃん」

 思わず顔がほころぶと、由夏は温柔な笑みを浮かべた。


「これ、今でも見える?」

 由夏が、路地裏に敷き詰められた石畳に目をやりながら尋ねる。

「うーん、どうかな……ちょっと見えないかも」

「えーっ、私見えるよ。あそこがポン抜きになってて……、えっと、このへんがツケヒキ定石じゃない?」

 足を止め、石畳を指しながら快活に言った。

「あぁ、そう言われてみるとそうだね」

「でしょー?」


 かつてのように、私たちは微笑みあった。

 路地裏に詰まった石畳の上を初めて由夏と歩いた時、私は敷石が部分的に碁石に見えると言ったのだった。石畳の並びは路地によって様々で、向きも形も色の濃淡もばらばらなところもあれば、ぴたりと縦や横がそろっていたり、色合いが適当なところもある。由夏は最初こそ驚いていたが、彼女もそれなりに碁のたしなみがあったので何度か歩くうちに共感し、いつしか私よりも口にするようになっていた。

 

 行きつけだった喫茶店は、今でも変わらず営業していた。

 侘び寂びを基調とした飾り気のないその店には今どきのカフェのような洒落たメニュウはないが、茶筅ちゃせんを用いて丁寧にててくれる抹茶は、いつも二人を幸せな気持ちにしてくれた。

 

「ありがとう」

 抹茶を飲み終え、年季の入った赤楽茶碗をそっとテーブルに置いた後、明瞭な口調で言った。

 由夏は、不思議そうな表情を見せた。


「自由に生きてく方法は、いくらでもあるんだね」

 戸口の風鈴が、風になびいてからからと音を立てている。


「今まで、変わってゆくことを怖れてばかりいたけど、変わることで人は成長するものだよね」

 先日打ったあの一局を思い出しながら、確信を持って言った。

「だけど、どんなに局面が変わっても、決して変わらないものがあるとわかった。失って初めて」


 今更こんなことを言うのは、誰が見ても身勝手そのものだ。

 もう元には戻れないかもしれない。それでも、自分の中で由夏への思いは変わらないものであると確かめることが、先へ進むための必要条件だと感じた。 

 由夏は手元の茶器に目を落としながら、きまり悪そうに微笑んだ。


「私も、変わってないよ」

 顔を上げ、誰にも負けない麗しい笑顔でそう言った。


 これから先も、さまざまな「初めて」に出くわすだろう。

 それを警戒心から好奇心へと昇華するには、由夏の笑顔ひとつあればいい。


 ゆっくりと席を立ち、彼女の首にそっと腕を回して口づけした。 (完)

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