生き辛さについて

 例えば障害について考えるとき、私は呪いだと思う。場面かんもく症だった子供の頃は、その障害があっていい事など一つも無かった。人と会話が出来ないというのは、本人も辛いが周囲も困惑する。親は何とか娘の「わがまま」を治そうと叱咤激励するし、同年代は怒る。そして心ある大人はかわいそうな子だと思って接する。思えば場面かんもくなどという障害は、三十年前には無かった概念なのだ。仕方がないのだろう。だけど、人からかわいそうだと思われているのは、それはそれで嫌なものなのだ。


 現代ではさまざまな障害が認知されているが、その表れ方は人の数だけある。そして、診断が無い限り「変な言動」をしてしまう人を、当事者すら「変な人なのだ」と諦める。もしくは、攻撃的になったりする。攻撃の矛先は自分自身であったり他人であったり、色々だ。当人が優しい性格ならばおそらく自責、悪い性格ならばたぶん周囲に当たる。両方の場合もあるだろう。人は、優しかったり残忍だったりするのだから。


 私は他人を責めるくらいなら自分が変わろうと努力する。頭が悪いなら、本を読む。弱いなら、強くなろうとする。今だってそうだ。他人から助けを求められる事が多いのだけど、知識・立場が無いせいで助けられない。だから学校で学ぶし、社会福祉士を目指すのは、声を上げられない人のために働きたいからだ。今はただの、弱者でしかない。「殴られて」いる人がいても、どうする事もできない。相談されても、一緒に怒ったりするしかできないのだ。



 ある「変な人」がいる。その人のいう事は大げさな割に思い付きばかりで浅はかだし、ツッコミどころが多すぎて、もはやかける言葉も出ない時もある。なおかつ言葉に攻撃的なところがあり、言ってはいけない言葉を他人に吐く事もある。正直、近所にいたら厄介だろうなあと思うし友達だったらおそらく、めちゃくちゃ喧嘩すると思う。「お前のいう事はドリアンの臭いよりも胡散臭いし一ミクロンも共感できねえよ!」と深夜のファミレスでドリンクバーのみ注文して二時間後、千円札と伝票叩きつけるレベルだ。だけど、そんな人だってその人なりの悩みがあるのだし、絶対悪ではないのだ。


 ハンニバルレクターみたいな人物、例えば連続殺人犯の場合は人の手には負えない。犯罪者は法に委ねられる。私は、犯罪を犯した人にかける言葉を持たない。だけどそれ以外の、厄介な人に対しては、話かけられたら無視したりはしない。好きか嫌いか、という事を思うに、どちらかといえばそんなに好きではない。なぜなら関わればそれなりに、厄介ごとに巻き込まれるからだ。その人物の持ってる厄介ごとが、こっちにまで降りかかる事がある。


 だけどだから何だろう。その厄介ごとというのは、そもそも私のものではない。したがって、私は私の傘で雨粒なり雹なりを凌いで行くだけだ。その通り道にたまたま、降ってきた雨だというだけなのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る