言いたいこともいえずに


 病室を移って一日が経つと、母と会話が成立しなくなった。


 それから、姉と交代で病院に通った。

 姉は昼から夕方に、僕は夕方から夜中に。


 なるべく二人が母のそばに長くいられるように。

 なるべく一緒に母の姿を見ないように。


 母はいつも眠っていて、時々、目を覚ましてはうわごとのようにぽつぽつと言葉を溢す。

 ――痛い、水、トイレ。

 僕が「どうしたいの? どこが痛いの?」と言っても返答はない。


 ぽつぽつと単語を発しながら、ただ何かをしようともぞもぞさせるだけだ。体を抱きかかえて起こそうとするが、当然座ることさえ出来ない。そのうち「もういいよ」と言って、眠りに入った。


 僕は何も出来ない無力感を抱きながら、ただその寝顔を眺めていた。



 昼間に姉はハンドクリームやリップを塗ってあげているのだろう。横に座ると、母さんが好きだった匂いがほのかに香る。


 姉はずっと一人でこの母の看護をしてきたのだ。母が家にいる時も。母が一時入院した時も。母の代わりに父の様子を見に行ったり、手術に付き添ったりしていた。


 だから、姉は手慣れている。母の着替えを家で洗濯して、代わりの着替えを持っていく。乾燥した肌の手入れをしてあげる。水を注いで、飲ませてあげる。果物の皮をむいて、食べさせてあげる。


 僕は何もできなかった。

 僕は姉と違って、母に何もできなかった。


 僕はただ母の横で、近況報告や思い出話をした。

 それが、唯一知っている母が喜ぶことだったから。


 ○


 病室を移ってから四日目のこと。家に帰ってきた姉は僕の目を見ないで言った。

「もう、知ってるお母さんじゃなくなってた」


「ありがとう」と姉にお礼を言って、僕は病院に向かった。


 ○

 

 静かな夜の病棟は人気も物音も何もない。

 まさに静謐さそのものがそこにあるようだった。


 ドアの前で少し深呼吸をして、ドアを開いた。病室は薄暗く、窓からは煌々と光る街の明かりと奥に広がる真っ暗な海が見える。


 母が眩しくないように足元の机のライトだけを付けて、いつも通りベッドの横に座った。母は目と口を開いて、ゆっくりと消え入るような呼吸を続けていた。苦しそうに、うるさいくらいにいびきをかいていた昨日が嘘のようだ。黄疸おうだんで黄色く濁ったその目はもう焦点を結んでいない。


 虚空を見る目には生物のもつ光は殆ど失われ、微かに上下する胸だけが灯る微かな火を証明していた。あの力強くも柔らかな母の面影は、もうそこには無かった。


「やぁ、お母さん。今日も来たよ」

 そう言って、僕は今日も話を始めた。

 


 ○



 くだらない話をしばらくした後、口を閉ざすと、静けさが病室を包んだ。目の前で寝息を立てている母の存在が信じれなくなって、思わず手を握った。


 人の体温と思えないほど冷たかった。


 ――ほら、手を出して。

 冷え性でかじかむ僕の手を取る母がふと脳裏に浮かんだ。


 ――お母さんの手はあったかいでしょ。


 そのとき、どこか胸に引っかかっていたことを思い出した。

 言いたかったけれど、言えなかったこと。

 言わなければならないこと。


 ――後悔していること。

 それが頭の中で渦をつくって、気付けば口から流れ出していた。


 保育園の時に拗ねて、母手作りの手提げかばんを引きずってボロボロにしたこと。極度の人見知りで、小学1年生のとき知り合いのいない学校から脱走を試みたこと。よその中学校で花火をして、友人もろとも警察に補導されたこと。高校生の時、部活で結果の出ない毎日の鬱憤をぶつけたこと。大学生になって、いろいろな場所に旅行にいって心配をかけたこと。母はモテると言ってくれたのに、結局、彼女の顔を見せてあげられなかったこと。

 

 彼女のくだりでなんかおかしくなって、一人で笑っちゃったけれど。

 なんかどうしようもなくなって、涙がぽつぽつと流れ出て来た。


 ただ、母の手をずっと握りながら、ごめんと呟く。

 どんなに寒くても温かかった母の手は、僕の手の中で冷たくなっていた。

 

 そして、もう取り返しがつかないんだと思い知ると、謝罪なのか何なのか良く分からない感情が更に溢れ出て、ただ、涙が止まらなくなってしまった。

 




 ○





 ひとしきり泣いた後、深呼吸して息を整える。

 ひんやりとした病室の空気が気持ちよかった。

 涙を流しながら、格好悪い姿だったけれど。

 それでも、僕はまだ生きている母にちゃんと謝れた。


「ありがとう。……また来るね」

 そう言って、僕は病室を出た。









 

 その日の未明。

 母は静かに息を引き取った。


 

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