心地よい距離


 父が家を出て行ってから、家族の距離は物理的に離れた。


 それが――良かった。

 今までになく丁度いい距離感を保っている。


 母はなんだかんだ言って、父を気にしている。気にしすぎて、気に入らなくなる、というのか。近くにいると嫌な所が目についてダメになってしまうのだろう。

 

 でも、離れたら細かいところは目に入らない。


「ちゃんと生きているか」

 それだけである。

 

 だから、離婚してからの方が夫婦らしかった。時々、電話をしては安否を確認する。どーせ掃除もしていないだろうから、定期的に掃除しに行く。ついでに、ろくなものを食べてないのだろうから、ご飯を作って持っていく。不満を言いつつも世話をして、仕方なく料理を作る。

 

 とても自然な夫婦だった。


 母は元来世話焼きだ。

 世話を焼き過ぎるきらいがある。

 

 父は元来自由人だ。

 マイペースにふわふわしすぎている。


 だからこそ、その距離感が功を奏していたのだろう。面倒な二人である。


 ○

  

 僕が成人してから少しして、父から連絡があった。飲みの誘いだった。


 最寄りの駅前で杖を突いて待つ父が見える。父は僕を見つけると増えた皺を歪ませて「久しぶり」と笑った。久しぶりに会ったがあまり変わっていない。病気で大腿骨頭が壊死し、人工関節になった足を引きずりながら息子ぼくを店へと案内する。


 僕らは駅中の小さい串カツ屋さんに入った。


「成人おめでとう」

 瓶から小さいコップにビールを注ぎあって、乾杯をした。


「今日は奢るから、なんでも頼み」

 そう言って父はビールを飲んでいた。


 僕は適当に食べたい串を何本か頼んだ。牛に、鳥に、うずらとか。あと玉ねぎ。揚げたての串を口いっぱいに頬張ると、火傷するほどの熱い油と共に香ばしい匂いが鼻へと抜ける。


「美味しいか」

「うん、美味しい」


 父ときちんと会話をしたのはいつぶりだろうか。一緒に住んでいても、父はリビングに出てこなかった。僕は自分の部屋が無いので、いつもリビングにいた。だから、殆ど話すこともなかった。


 父はおしゃべりではないので、話すことも多くない。

 僕もおしゃべりではないので、話すことも多くない。

 誰に似たのやら。


 でも、一緒に飲めるこの日を父は楽しみにしていたようだ。


「どんどん飲んでいいぞ」

 そう言って、ビールを注ぐ。


 まだビールが苦手だったけれど、何も言わず飲んだ。


「最近はどうだ」

 父は当たり障りのないことを聞く。


「んー、別に普通」

 僕は当たり障りのないコメントを返す。


 父との会話はいつもこんな感じだった。


 正直に言って、それまでは父の気持ちが良く分からなかった。家の中ではあまり話すこともなかったから。この時もあまりぺらぺらと話しはしなかった。


 けれど、どこか嬉しそうだった。


 それが――嬉しかった。

 父が僕の成人を喜んでいることが、嬉しかった。



 父が家を出て行って良かったと思った。こうして、一緒に飲めたから。あのまま家にいたら、多分、こうはならなかったと思う。なんとなく。



 もう1軒回った後、少しふらついた父を駅近の一人暮らしの家に送る。


「お母さんをよろしくな」

 父は別れ際にそう言った。


「うん、お父さんも体調には気を付けて。しっかり食べなよ」

 手を振って、家に帰った。




 近いことが良いとは限らない。

 距離をとった方が良い人もいる。

 

 心地よい距離というのは人によって違うのだと、その距離を保つことがそばにいるより大切だと理解した。

 

 そして、改めて思った。

 僕たちは家族なんだ、と。

 

 大学を卒業して、実家を出てからもちょくちょく飲みに行った。実家に帰ったときは、父を呼び、家族で一緒にご飯を食べた。あまり一緒にいると喧嘩になるから、ご飯だけ食べて、すぐに帰るけれど。


 それでも、僕たちは家族だった。



 ○



 社会人になって2年目のことだ。

 友人と神宮外苑の打ちっぱなしに向かっている時、実家の姉から連絡が来た。




 母が、がんだという知らせだった。


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