お稲荷さん


 母は十二指腸がんだった。

 ステージはⅢ。


 確かに時々「しんどい」と言っていた。あまりにも症状がひどくなり、無理やり連れて行った病院でがんであることが発覚したらしい。


 母は病院が嫌いだ。風邪くらいでは病院にはいかなかった。何度「病院に行ったら?」と言っても母は聞かなかった。結果として、それが発見を遅らせた。それから母は、日中に横になって動けなくなる日が増えた。仕事も減らさざるをえなくなった。


 でも、母には譲れないものがあった。

 それは「おいしいものを食べさせること」だと、僕は思っている。


 ○


 決して、裕福な家庭ではなかった。

 かなりの高齢出産だったこともある。


 母は、臆病で寂しがりだった小学生の僕を鍵っ子にしないため会社を辞めた。父は、手術した脚のために働き口が殆どなかった。

 

 だから、二人とも非正規に近い立場で仕事をずっと続けていた。


 姉は高校を卒業後、すぐに働き始めた。

 僕は奨学金で大学に通った。


 還暦を超えた非正規社員であること。離婚していること。それらを考慮し、学費は年間でも初任給に毛が生えた程度を払えば良かった。奨学金を満額借りると、余った分を生活費に回せた。そうせざるを得ないくらい家計は厳しかったのだろう。娯楽以外では不自由したことが無いので、分かっていたが聞きはしなかった。


 

 母は仕事をして帰って来て、毎日必ず料理を作っていた。夕食の献立は小鉢も含めていつも3品以上はあった。


「おいしいものを食べさせること」


 それだけは母が譲れない信念のようだった。

 どれだけ僕らが「代わりにつくるよ」と言っても交代しなかった。

 

 僕たちにひもじい思いをさせないため。

 きちんとしたものを食べさせるため。


 食費だけは必要以上に切り詰めなかった。


 がんであることが分かっても、母は台所に立ち続けた。僕が帰省すると、必ず「何が食べたい?」と聞いて来る。帰省中は、地元の友達と飲みに行くことが多い。けれど、一日か二日は家で晩御飯を食べるようにした。良くリクエストしたのは鶏の唐揚げや、ぶりの照り焼きだったかな。


 母の料理はいつも美味しい。


「ごちそうさまでした。美味しかった」

 僕が手を合わせると、

「お粗末様でした、お腹いっぱいになった?」

 と返す。


 それは定型文のような、お決まりの言葉だ。

 それに何の疑問も抱いていなかった。 


 ○


 ある日、実家に戻った時、母がいなり寿司を作ってくれた。


 五目御飯を包んだ、甘辛いお稲荷さん。

 何個でも手が伸びてしまう不思議なたわらさん。

 

 僕はこのお稲荷さんが大好きだった。

 大皿にずらっと並ぶお稲荷さんを前に歓喜の声を上げた。


 でも、この日は少し様子が違った。


 いつも通りパクリとかぶりつくと、人工的な匂いが鼻を突き抜けた。突然のことにびっくりして、思わず顔を歪めて一言。


「洗剤の味がする」


 ――そう、言ってしまった。


 母は怪訝な顔をしながら、一つをパクリと食べた。


「そんな味がする?」

「手は洗ったんだけど洗剤が残っちゃってたのかな」

 そう言って、稲荷がまだ沢山残るお皿を下げた。


「ごめんね」

 母は残念そうに眉を下げて僕に言った。

 

 ――まぁ、今度また握って貰えればいいや。

 そう、思った。


 でも、この時僕は気付かなかった。

 母の信念に反したことに。

 

 ○


 それから、どんなに食べたいと言っても、母はいなり寿司を作らなくなった。


 僕にはたった一回の些細な失敗だと感じられたけれど、母には耐えられないくらいの変化だったに違いない。毎日、ご飯を作り続けてきた母の姿が目に浮かんだ。

 

「どうして」

 と、自分の言葉を怨んだ。



 その後、一度だけ塩と砂糖を間違えたおにぎりを食べた。信じられなかったけれど、母が自分の変化に気づかないはずがない。母も自分の状況が信じられなかったに違いない。

 

 このころから、母は姉に味見を依頼することが増えた。ゆるやかに、何かが変わっていっていた。


 そこで、僕は一つだけ心に決めた。

「ごちそうさまでした。今日も美味しかった」


 必ず、この言葉を言うようにした。


 今までと同じセリフ。

 でも、意味合いが変わった。


 母の料理は「美味しい」んだと。「また食べたい」んだと。


 食べれなくなったお稲荷さんの代わりに、少しでもそれが伝わればいいと思った。


 


 今でも時々思い出す。 


 あの時、あの言葉を言わなかったら、僕はまた母のお稲荷さんを食べれたのかな。




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